第三章 七

「おかえりなさい」

 微笑みで迎えたアンバーシュの横をすり抜ける。

 そうしてしばらく行ってから、まだこちらを見ている男に問いかけた。

[何故来なかった?]

「すぐに駆けつけなかったから怒っているんですね」

 答えになっていない。アンバーシュは苦笑して肩を竦める。答えは期待できそうになく、いちるは背を向ける。去り際、軽く睨んだというのに、アンバーシュはやはり、笑っていた。

(何を企んでいるのか。それとも、試したのか)

 クロードの言葉が蘇る。見極めようとしているのだという。

(見極める。妾の、何をだ?)

 最初は異能の力のことだと思った。だが、まだ他に、何か思惑があるように思える。救援に来いとは言わないが、様子を見に来なかったのは、いちるの力にある程度の信頼を置いていたからだ。エリアシクルを鎮められると知っていた。

 だとすれば、何を知りたいのだ?

 部屋に戻り次第、いちるは仮病を用いてすべての接触を遮断した。服を着替える間も、化粧を落としている時も、何を話しかけられたとしても疲れたという答えのみを用意した。さすがに事情を聞きにきたクロードには髪を対価に娘の助命を請うたことを伝えたが、その他の詳しいことは同道していたネイサに聞くように言った。

 明日には一の郭辺りまでには今日の出来事が広まっているだろうから、また贈り物が山となるかもしれない。平和で暢気で頭がたいそう春めいて羨ましいことだ。

 昼頃にはミザントリが訪ねてくるだろう。聞けずじまいになった暁の宮の先住人と、過去に何があったのかを聞かねばならない。この問題はさほど複雑ではない。人が口をつぐんでいるだけで、つついてやれば簡単に破れるものだ。

 ようやく寝台に潜り込めるという段になり、寝室の扉を開けて動きを止めた。椅子から飛び降りた少女が、いちるのところに小走りにやってきたからだ。そのまま、いちるの腹の辺りにぽすんと顔を埋めて息を吐く。

[どうした、エマ。今日のことを聞いたのか]

[えりあしくる、恐カッタ?]

 笑って首を振る。

[許してくれた。エマの知り合いか]

[ろぅ、ノ、トモダチ]

[ロゥ?]

[ふぇりえろぅだ。父]

 名に覚えがあって、ふむと鼻から息を吐いてしまう。

 光狼フェリエロゥダ。アストラスと神獣の頂点の神狼との間に成された、神と神獣の子で、光と風を司る。西の大神の子ならば、確かにアンバーシュの兄でフロゥディジェンマの父。なるほど、兄には違いないが。

[アンバーシュとはずいぶん格が違う]

 忍び笑うと、フロゥディジェンマは首を傾げるから、なんでもないと頭をかき混ぜた。

[妾はこの通り元気じゃ。安心して部屋にお戻り。それとも、妾と一緒に寝るか? これから休むのだが]

[用事]

 じいっと見つめられながら、エマが一歩離れた。くるりと背を向けて、一本足の机から何かを掴んで戻ってくる。無造作に右手を突き出され、なんとはなしにいちるは己の右手を受け皿にした。

[渡ス]

 ちゃりり、と金属の音がして、軽くも重くもない小さなものが手渡された。

 一対の耳飾りだ。耳につける部分が針になっていて、耳の穴に通す型のものだった。透かし編みのように薄く繊細に伸ばした黄金の網に、小粒の宝石がついている。その網は一回り大きい金の台座の上に重なっていた。接着していないので、つけると二つの金の板が揺れるのだ。留め具には黄金の透き通った部分を抽出したような大粒の琥珀石が、飾りの先端には水と光を込めたような金剛石が三つ連なっている。見事な細工だった。

(耳飾り……)

 ――耳飾り?

 この、諸々積み重なった現状に、何故この品物がいちるの手にあるのか。否、これがそうであると決まったわけではない。たまたま『耳飾りだった』というだけの偶然ということもあり得る。しかしいちるは下がった血の気と噴き出す汗を止められなかった。

 これでもある程度の事態に動揺せぬ胆力は備えているつもりだったが、手の上にある金細工の装飾品にいちるが思ったのは(どうしよう……)という困窮だ。己の思考に違うと否定をぶつけ、伝う汗を拭って額を押さえた。

(どうしようも何も、自分でなんとかするしかないがこれは……)

 無垢な少女神からの贈り物の意味するところは。

[エマ……この、耳飾りは……]

[エマ、隠シタ。ばーしゅ、結婚シナイタメ]

 咄嗟に周囲の気配を探った。レイチェルも他の女官も、訪れ人はここには立ちあっていない。

[コレ在ルト、ばーしゅ結婚シタ。デモ、ダメ。ばーしゅ、自棄ニナッテタカラ]

[エマが、隠したのか?]

 少女は頷いた。

[争イノ元、ダッタ。皆、恐カッタ。ばーしゅ、モ、恐カッタ]

 馳せるに、十年前。けがれない瞳をした少女神が何を感じ取ったか、推し量るは雑作もない。思惑のすべてが欲に塗れ、多くの者を蝕んだときがあったのだ。フロゥディジェンマはその気配を感じ取って、行動を起こしたのだろう。

 ではこれはやはり、ヴェルタファレンの至宝の一部なのだ。

(……託されてしまったな)

 こんな耳飾りひとつに何の価値もなかろうに。いちるは苦笑を浮かべて、フロゥディジェンマの柔らかい髪を指先で梳った。

[これを持ってアンバーシュと結婚しろと言うのだな]

 肯定。小さな頭が上下して、いちるは深く嘆息した。

(状況を説いても仕方がないか……)

 いくら思い合おうとも成らぬことはある。男女の関係は特に、それも身分や権力を有するならばなおさらだ。自分の素性と状況の複雑さを、いちるは理解しているつもりだ。東と西の停戦はいつまで続くか分からぬ。たかが異能の女の身ひとつで成約されるものではないのだ。

[……エマは、アンバーシュは妾のことをどう思っていると考える?]

 フロゥディジェンマはちょこんと首を傾けた。

[大事]

 まず、そう答えた。

[大切。一緒ニ居タイ。何処ニモ、行カナイデ欲シイ。守リタイ、何者カラモ]

 ひとつひとつ、エマは表現し、最後の言葉にいちるはそれを制止させた。

[傷ツケタクナイ]

[そこまででいい。そう、お前の目にはそういう風に映っているということ]

 不安そうな顔をされたから、怒っていないことを示すために頭を撫で続けた。心地良さそうに目を閉じたフロゥディジェンマを抱いてやり、口にも形にもすることなく、いちるは思った。

(妾はな、エマ)

 例えアンバーシュが、この愛らしく可憐な姪の言ったような思いを抱いていたとしても、動かせない現実はある。

(アンバーシュが、憎い。あの輝かしさが、清らかさが、雄々しさが。すべてが、憎らしいのだよ……)

[しゃんぐりら。オ願イ]

 大きな瞳でいちるを見つめ、フロゥディジェンマは言う。何を頼まれたのかは言うまでもなく、いちるは静かに彼女に視線を返す。

 この小さな子は孤独を感じても耐えることができるというのに、どうして自分たちは、そのような些細な感情に耐えきれない時があるのか。

[試して、みようか]

 その思いつきは、案外的を射ていると思ったからこその発案だった。

[アンバーシュが本当に妾を求めているか。確かめてみようか]

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