第三章 五

「どうしたのです!?」

 ミザントリが身体を支えるが、視界が揺れ、潰され、ろくに働かない。だというのに別の感覚が無理矢理に物を見せようとする。さきほど娘たちの様子を探るために使った目の力が繋がったままであったためだ。


 ……草が、木が、小さな虫たちがいちるに囁きかける。嫉妬、悪意。おしゃべり。かしましい笑い声、歪んだ赤い唇が、ほんの少し悪戯を囁く。冗談の中に、わずかに本当になったらいいという願望。けれど決して実行に移さぬはずだったのに、ほんの小さなきっかけが、三人娘に一線を越えさせた。近付いてはならない場所に近付いて、けれどやはりためらって……。


(水の溜まるところ……マシェリ湖……)

「ミザントリ様、お嬢様! ご無事でいらっしゃいましたか」

 ミザントリの支えをのけていちるは立ち上がる。やってきた従者は一度うかがうようにこちらを見たが、いちるはミザントリより一拍早く問いかけている。

「あの少女たちに何があったのですか?」

「は……」

 ミザントリの理解は早かった。強く答えを求める。

「早く報告なさい。あの子たちに何があったの?」

 目をきつくする女二人に従者はへどもどしたが、彼がやってきた方向から更に男がやってきて何事か叫ぶのにはっと我に返った。

「ご令嬢のお三方が、お嬢様方が戻ってこられないことを退屈に思われたのか、ご冗談のつもりでマシェリ湖に近付いたのです。すると奇妙な風が吹いて、お一人のリボンが湖に向かって飛んでしまい……追いかけていったご令嬢が、つい湖の足を」

「入ったの!? まあ、なんてこと!」

 激しい衝撃を受けたらしいミザントリは、さっといちるを向いて早口で囁きかけた。

「マシェリ湖の底には、水の馬と呼ばれる神獣がいます。不用意に足を踏み入れると水を使って人を飲み込んでしまうのです。……それで、彼女は?」

 従者は苦しげに首を振った。

「湖が渦を巻いて誰も近づけません」

「とにかく、行きましょう! お城へ使いは出したのね!?」

 従者がそうだと答え、走っていくミザントリに続く。いちるも少しばかり足を速めるが、さきほどからちらつく、湖の底にいる神獣の気のせいで、少しも歩いた気にならない。

 ――おいで。おいで。こちらへ来やれ。

(妾を呼ばわるか)

 それでも遅れて辿り着くと、それぞれの娘についていた従者たちやイレスティン侯爵の召使いたちが、固唾をのんで湖を見つめている。いちるもそちらに目をやったが、緑を荒く嬲る風に頬を叩かれる。

 紺碧の水は、その領域の中を掻き回すように渦になっていた。波が生まれ、白く粟立ち、動きを作ったために湖の周りの竜巻のような風が生まれ、空に雲を集め始めている。突風の中に悲鳴がある。肩を寄せ合った娘二人が、従者に引きずられながらすすり泣いていた。

 湖の中心で何かが光った。巨大な眼だ。ミザントリの言った、水馬だろう。

「姫様」

「話は聞きました。神域に足を踏み入れたそうですね」

 ずっと控えていたネイサが青ざめ固くなった顔で首肯する。低く小さく動じずに尋ねたいちるにほんの少しの怯えを浮かべていた。

(神獣。どの程度の格か。話の通じぬ相手のようだが)

 荒ぶる神はいちるにとってめずらしいものではない。人の過ぎた行いが怒りに触れ、罰をくだされた例は東島にはいくつも存在する。ミザントリたちもきちんと住み分けていたのだから、自業自得と理解しているだろう。だがそれでもなお、彼女たちは諦めきれない。

「アンバーシュ陛下にお知らせは!?」

「クロード様もお探ししております!」

「城に使いを! 何だったらその辺りにいる神官を捕まえて、」

「ああ……ああ……! 水が……!」

「誰か助けてあげて!」

 ミザントリが叫ぶ。

「誰か、馬を引きなさい! わたくしが陛下を呼びに行きます!」

「いけません、お嬢様!」

 金切り声、叫び声の混乱の最中に、ぽろん、と音がこぼれ落ちたのを聞いて、いちるは息を吸い込んだ。

 強風の中にはっきりと届いたそれは、気のせいではないはずだった。空、水、風、森。素早く目を走らせ、おそらくは弦楽器の音の発生源を探る。

 その動きに答えて、第六の感覚がいちるに答えを返してきた。

「姫様!」

 その場を離れたいちるをネイサが追ってくる。裾を持ち上げ、早足で行くいちるは、あっという間に追いつかれたが、女官は「どうなさったんです!?」と取り乱した様子で尋ねるだけで、連れ戻そうとはしない。

 そうして、目的の人物は木の陰に腰掛けていた。

 その木には葡萄の蔓が巻き付いており、その蔓と同じような新緑色に輝く弦を張った楽器を膝に置いて、長く美しい指で考え込むような慎重さで音を鳴らしている。目深に被った、ひさし付きの帽子のせいで顔はよく見えなかったが、青みがかった灰色の髪を無造作に束ねている男だ。

 相手はこちらの歩みを知っていた。いちるが足を止めると手を置いて、やあと言ったのだった。

「こんにちは、シャングリラの姫。そんな恐い顔をしていったいどうしたのかな?」

「お初にお目もじつかまつります。わたくしの名はいちるです。あなたは、どちらの御神でいらっしゃいますか」

 神と聞いて背後のネイサが息を呑んで後じさる。ふふふと少年めいた笑い声を立てた神は、周囲の緑の揺れるざわめきを別事とするかのように、明るい声で答えた。

「ぼくはヒムニュス。詩と音楽を司る者だ」

「こんなところでいったい何をしているのですか?」

「詩を作ってた。ぼくは言葉と音で物語を紡ぐから、いつも一所に留まっていなくてね、面白そうな出来事や興味深い人物がいるところに出掛けていくんだけれど……ここまで言ったらあなたは分かるよね?」

「アンバーシュとわたくしの件ですか」

「あはは、あなた結構謙虚なんだね。自分のことだって思ってくれていいんだよ。うん、こうして来てくれたし、あなたのことを歌にするとなかなか面白そうだ」

 だららん、とヒムニュスは大々的に六つの弦をかき鳴らした。

「さて、東の姫。今、マシェリ湖の水馬が暴れている。あいつは神獣の中でも古株で、年寄りで、偏屈だ。最近どうにもうるさくて仕方がないから、静かに眠りたいという理由であの湖の底を住処にしてた。そうして何百年も引きこもったせいで、水の隅々まで彼の力が溶け込んで、湖そのものが神になってしまった。そんなところに人間の娘が足を踏み入れれば、肌に触られたのと同じこと。苛立ち、眠りを邪魔されたことに腹が立ってしまうのは仕方がない。ここにあなたが居合わせたのは運命とするならば、いちる、あなたは千年姫の物語にどんな逸話を加えるだろう?」

 神の気が溶け込んで膜のようになり、水の中の様子は感じ取れない。呆れた振る舞いをした娘であれど、このままでは寝覚めが悪い。

 ゆえに、いちるは求めた。

「話を加えて差し上げます。だから水馬を鎮める術を教えなさい」

 ヒムニュスはにやりとした。

「周りが強引に気絶させる。もしくは、あいつは創世の生き物、古くからの約束や契約にとても弱い。見返りを与えれば鎮まる、かもね?」

「曖昧ですね」

「ぼくもそんなに親しくないから。知っているのは、年寄りなのと気難しいのと、女好きってこと。特に処女が好きなんだよね。けがれない乙女じゃないと触らせもしないよ」

 いちるは眉をひそめたのを、ヒムニュスは「最低って顔してる」と笑った。

「ひ、姫様! あ、危ないことはお止めください、今きっとアンバーシュ陛下がこちらに向かっておられます、陛下にお任せして、どうか……!」

 女官としての一分を思い出したのか、我に返ったネイサがいちるの袖を引きたそうにしている。いちるが振り返るとびくりとした。こちらの表情が優しさもなかったからに違いない。

「戻ります。先導してください」

「ど、どこへ!?」

「湖へ」といちるはきっぱり言って、絶句するネイサを追い立て詩の神に暇を告げる。

「ごきげんよう、ヒムニュス神。後日またお目通りさせていただきますことを」

 ヒムニュスは軽薄そのものの笑顔でひらひらと手を振った。

「楽しみにしてるよ、いちる」

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