第一章 二

 微笑だけならば、その姿は貞節な乙女であると言われる。見た目は十七八の小娘。しかし中身は容姿と隔たりがあった。傷がついてもたちどころに癒えてしまい、齢は二百五十を数え、千里眼と噂される異能を使役する。

「美花の使者とお見受けする。ご用向きは境の海に関わること。何の知らせじゃ。東の神と西の神が、そなたらに何を言った?」

「いちる姫」

「そ……そこまでお分かりとは……さすが、は、撫瑚の、巫者」

「みえすいた世辞はいらぬ。早うお言い。美花の国を、西神の宿にされたくなくば」

 使者は口を開けて固まった。額から汗が噴き出している。

 鉦貞は顔を白くした。

「まさか! 美花にまで西の神々の力が及んでいると申されるか」

「さよう。妾が見た海は、美花の南の海じゃ。我らの神は圧され、敗北は必須。だがなんぞ取引を持ちかけた。それはなんじゃ。申してみよ」

 いちるが使者に代わって答えると、大臣たちは腰を浮かした。大臣たちに囲まれ、甲高い声の鉦貞になじられ、逃げ場は撫瑚の妖女に塞がれている。助けを求めにきたはずの美花国の使者は、やつれた頬をぴくりぴくりと引きつらせ、ついに観念したのか震わせた口を大きく開く。

 その時だった。どん、と大地を揺らす大鐘が響き渡る。

「なんだ、どうした!」

 鉦貞が泡を食ったように問いかけるが、ここにいる者たちに答えられようはずもない。ただひとり、いちるを除いて。

 異変に気付いた外が騒がしくなった。再び、鐘が割れるような音がして地面が揺れる。

「申し上げます!」

 侍が飛び込んできた。

「火急の事態により、直接申し上げることをお許しください! 外に、何者か現れましてございます!」

「な、」

「何者、とはなんぞ」

 鉦貞に代わっていちるが問いかける。また鳴り響く音は、侍の言葉で明らかになった。

「空に、雷が閃いております。その雲の中を、どなたかお渡りになられておられます。あれは……いずこかの名のある若神かと」

「雷の武神」

 使者が絶叫した。

「西神の先鋒、雷霆王アンバーシュ!」

 西の神。

 西神の長の、末から数えた方が早いまだ若い神のひとり。西国のひとつを治める半神半人の王は、いちるのめくったことのある西の書物の中に幾度か登場していた。

 琥珀黄金の髪。同じ色の雷を操る、美しく恐ろしい神。

 いちるは呟いた。

「ヴェルタファレンの国王。半神半人のアンバーシュか」

 なんと、と声をあげたのは、その昔歴戦のと名を馳せた老将軍だった。

「あの若神がどうしてここまで」

「おぬしら、知っているのか!?」

「恐れながら、殿、わたくしはあの方のように苛烈な神を存じ上げませぬ。戦い方は激しく、しかし知将の気配がうかがえます。お言葉を聞いたことがございますが、明朗なお方であらせられる。我が東神の敵ながら、あの方の行く末が明るいことを喜んだものです」

(褒めすぎだ)といちるは目を逸らした。老将軍は当時を思い出し、微笑んでいる。西の神、それも一国を治める王を讃えるのは、この城主を愚かしいと言ったも同然。

 だが幸いなことに鉦貞は気付いていなかった。様子を知らせるよう伝え、何の用件が尋ねるべく誰をやればいいか考えている。

「おお、いちる姫。私はどうすればいい? どうすれば、その激しい神の機嫌を損ねずにお帰りいただける?」

「求むるものを差し出せばお帰り願えよう」

 答えながら、いちるは予兆を探っていた。

 しかし、見えない。光が閃いて視界が潰されてしまう。力の渦がかき乱され、目が石ころのように踏みつぶされてしまうのだ。

 何故、こんな内地、あちらにとっては敵陣でもある東にきたのだ。それも、行き交う知らせを聞くに単独のようだ。用向きは、美花の使者とも関わりあることか。

[いいえ。俺が来たのは、あなたに用があるからです]

「っ!?」

 耳を押さえ、振り返る。ざわめく者たちが、立ち上がり、宙に向かって言葉を投げる。

「何者だ!?」

「もしや……雷霆王?」

[おや? 俺の名はここでも通るんですね。父神の剣となって力を振るった甲斐があります]

 老将軍が叫ぶ。

「雷霆の若神よ、なにゆえに参られた? この国は東国の中でも中央部にある。御方はかように単独で敵陣に乗り込む愚など犯されまい」

[領分を侵したことは詫びます。理由は直接本人に言いましょう。――何故表に出ないのです、千年姫]

 囁くような声音にいちるは全身を震わせる。扇を握りしめ、目を閉じる。視界はやはり、まだ利かぬ。

[妾に用があると申されるか]

[俺に直接話しかけることができるんですか? さすが、千年姫]

「いちる姫? どうなされた」

[何用かとお尋ねしている]

[とにかく表に来なさい。顔は分かっていますが、実際確かめなければ万が一間違っていたときに困る]

 それきり気配が絶えた。それでも唸りをあげる乾いた風が、相手がまだ留まっていることを知らせてくる。姫、と呼びかけられ、答えた。

「妾に来いと言っている」

 会話は二人の間でしかなされなかったらしく、一同は目を見開き、歩み出したいちるを止めようと動いたが、触れる直前に怯んでそれ以上近付いてこない。

 部屋を出ると、外の様子をうかがう城中の者が忙しなく、門や庭の方では武者たちが武器を持って待ち構えている。その中を来いとは見せ物になれというのかと、顔を歪めながら、冷える廊下を突き進み、雪の積もる庭へ降りた。

 地面のおもてに積もっていた軽い雪が、風に唸りをあげて舞っていた。暗黒の空に雲が灰色にうねって、真珠貝のように銀燭を散らしている。

(待たせるとは、いい度胸よ)

 紅を塗った下唇をわずかに噛み、空に言い放った。

「降りられよ、西の雷神!」

 傲然と顔を上げると、雲間から一台の車が降りてきた。天駆ける二頭の黒馬にひかれたそれに乗り、手綱を取る若い男が見える。

 つかの間、息を呑んだ。

(――その瞳の色は)

 天の車は音もなく舞い降りる。人垣の輪が遠ざかる中、いちるが先頭にいた。手には金箔を張った扇が一本。雷と風を操る神を前にするには頼りない。

 琥珀色の髪を流し、彼は瞳を細めて柔らかく、けれど強く、笑った。

[間違いなかったみたいですね。――戦場を覗きましたね、千年姫?]

(千年姫?)

 先ほどから繰り返される聞き慣れぬ呼び名に顔をしかめそうになったが、反応を殺して唇を開く。

[お尋ねするのはこれで三度目。何用か。暴虐な振る舞いに及ぶことあらば、こちらとて戦うことは辞さぬ]

[戦うのはあなたではないし、死ぬのもあなたではない]

 微笑の言葉は柔らかいが、断定的で断罪的に響いた。

[あなたは千年姫。噂が正しければ不老で不死だ。人ではない]

 たった一言で全身が凍り付きそうになる。

 ――人ではない。

 では何だと言うのだ。そんなこと、最初から知っている。

 冷気に吹かれて白く青くなった顔を強ばらせるいちるに[何用かと聞きましたね]と相手は微笑んだ。

[俺たちは東神と和睦を結びました。我々はその証となるものを差し出すよう求めて、用意もしてもらっているでしょうが、気が変わりました]

 和睦の言葉に民はどよめき、しかし気が変わったという言葉で固唾をのんだ。

 夜が深いというのに、相手は光をまとっていた。彼の周りに雪が舞い、彼の放つ力で銀から金に色を変えて、あっという間に溶けて消える。東の神に目通りしたことはなかったが、かくも神はこのように神々しいのかと思わされずにはいられない。

 黄金の気をまとうかの神の瞳は、青。

 いちるが予兆で結んだ、あの鮮やかな天空青だった。

[あなたをもらう。千年姫。西と東の和平の証に、ヴェルタファレンの国へ。あなたを、このアンバーシュの妃として貰い受けます]

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