第六章 心だけでは支えられないこと
涼子の働いているデイサービスの施設は大きな病院が経営している。
認知症や身体の不自由な高齢者を昼間の時間だけ預かって、介護する家族の精神的、肉体的な負担を軽減するための施設である。利用者は週に何日か曜日を決めて利用している。
ここでは食事、入浴、アクティビティ、送迎バスなどのサービスなどが、介護保険適用であれば要介護度別の一割負担で利用が可能なのである。
高齢化社会でのニーズが大きく、涼子の勤務するデイサービスの『ゆーとぴあ』では百名以上の利用者が登録されている。
「涼子さーん!」
後ろから大声で呼ばれ、振り向くと介護福祉士の
崎山は涼子より三歳年下の二十五歳の青年である。介護の仕事が好きで大学卒業後、二年間、福祉の専門学校に通って介護福祉士の国家資格を習得しているが、大型免許を持っているためか『ゆーとぴあ』では、主に利用者たちの送迎バスの運転手をさせられている。学生時代にはラグビーをやっていたという崎山は、体育会系のがっしりした
「なぁに?」
涼子が素っ気ない返事をしても、崎山は嬉しそうに、
「今日ね。涼子さんとデートなんだ! バスの送迎シフトが一緒で、俺うれしかったぁー」
「なにいってんの? これは仕事でしょう」
少し苦笑しながら、崎山にいい返した。
崎山は気にする風もなく、ニコニコしている。この男は頭の中も体育会系なのか陽気で単細胞。しかしながら『ゆーとぴあ』の老人たちには、とても人気があって、見るからに『頼れるお兄さん』といった感じなのだ。
涼子と崎山は一年前、ほぼ同時期に『ゆーとぴあ』に就職した。なんだかんだ言っても、ふたりは同期なので親しい間柄である。
「でもさ。利用者が乗ってくるまではふたりきりでしょう? だからデート!」
「もう、真面目にやってください!」
ムッとした顔で涼子が崎山を叱る。
そこへ施設の調理室で働くパートのおばさんがやってきて、崎山に伝言をつたえた。
「崎山さん、調理室の
「わーい! オムライス食べる、食べる!」
崎山は送迎バスを運転する前に、腹ごしらえするつもりのようだ。
この男、身体も大きいのでとにかくよく食べる。調理室のおばさんたちとも仲良し、よく内緒で食事を作って食べさせて貰っているみたいだ。
「涼子さん、待っててね。俺、オムライス食べてくるからー」
そう言い置いて、崎山は慌てて調理室のほうへ小走りでいく。
「もうー、遅れないでよ!」
食べ物には目のない、子どもみたいな崎山の後ろ姿に、涼子は思わず笑みが
『特製オムライス』を食べてきた崎山は、送迎車出発時間ぎりぎりセーフで走ってきた。「お口にケチャップが付いてるわよ」涼子に注意されて「えへへ」手の甲で拭う崎山に、《こんな勤務態度で大丈夫かしら?》ちょっと怒りモードの涼子であった。
今日の利用者の送迎はバスではなく、大型のワゴン車だった。車椅子で乗れるリフトも付いている。鼻歌まじりにご機嫌で車のハンドルを握る崎山の隣、助手席に涼子は座った。
崎山はハンサムとは言えないが、目鼻のキリリとした男らしい顔立ちである。いかにもスポーツマンという感じで髪も短く刈っていて、おしゃれではないが清潔感がある。服装はスポーティタイプのものが多く。ラグビーをやっていただけに身長は180cm以上、体重も80キロは下らない。実に立派な体躯をしている。
涼子には不思議だった。こんな若くて元気な青年が、なぜ
「ねえ、崎山くんって、どうして介護の仕事を選んだの?」
「はあ、俺ですか? 小さい時からおばあちゃんっ子で年寄りが大好きなんですよ」
「おばあちゃんっ子なの?」
その返答にププッと思わず涼子は噴いた。
こんなおっきい男が、自称おばあちゃんっ子なんて……なんだか滑稽だった。
「俺、父親が早くに亡くなっちゃって、母親の実家で育てられたんですよ。母親は会社で働いていたんで、いっつもお祖母さんに甘えてたから。年寄りの話とか聴くのが好きだったし、年寄りって可愛いですよねぇー」
「へえ、そうだったの」
「それが……お祖父さんもお祖母さんも高齢になって介護が必要になったんですよ。うちの母親がひとりで両親の介護をやってたんですが……ものすごく大変で、俺も手伝っていたけど、やっぱし大変だった……」
当時を思い出してか、崎山の表情が曇ってきた。
「……それでも、なんとか両親を見送った母親は介護疲れか、半年後にふたりを追うようにして亡くなって……俺、ひとりが残された。――大学四年生で就職も決まっていたけど……その時、思ったんですよ。『介護』には、もっと男の力が必要ではないかと、女性にだけ任せるには、あまりに負担が大き過ぎるのではないかと……それで、就職先を断ってアルバイトしながら介護の専門学校に通ったんです」
「立派だね! 崎山くん見なおしたよ」
涼子は崎山の話を聞いて、彼が
「えへへ」
と、照れ臭そうに崎山が笑った。どこか少年みたいで可愛いと涼子は思った。
そうこうしている内に、今日のデイサービス利用者、吉田家の前に着いた。
家は古い平屋の木造住宅である。利用者は七十五歳のおばあさんだが、認知症がかなり進んでいて、物忘れや徘徊、そして時々暴れたりするので、介護をしている夫のおじいさんは大変である。
最近になって、デイサービスを利用し始めたが、子どものいない夫婦だったので、それまではおじいさんがひとりで介護をしていたようだ。
迎えに行っても、おばあさんの機嫌の悪い時は暴れたりして、車に乗せられないことも度々あった。
介護疲れで
「おはようございます。吉田さーん」
チャイムを鳴らしたが返事がない。玄関ドアが少し開いていたので、「吉田さん、デイサービスです」涼子は中へ声をかけた。しばらく様子を窺っていたが……人の気配はするが、返答がない。高齢者ということもあって、心配になり涼子は家の中に上がってみることにした。
「吉田さん、どうかしましたか? 入りますよ」
玄関で靴を脱いで上がり、居間のガラス戸を開けて涼子が見たものは――。
居間の畳の上、血まみれのおばあさんがうつ伏せで倒れていた。頭から大量の血を流して……。壁にもたれたおじいさんは、血の付いた杖を握りしめて、
見た瞬間、涼子はヒィーと
――部屋に入った崎山は、まず状況を把握して、倒れているおばあさんの脈を取って、すぐに救急車の出動要請をした。その後、壁にもたれていた、おじいさんの手から血の付いた杖と外すと、ひと言、ふた言、声をかけて落ち着かせようとしていた。そして、玄関で顔面蒼白で震えている涼子をワゴン車に乗せ座らせると……。
崎山は救急車と警察の到着を部屋の中で待っていた。
あの時、室内に入って、血まみれのおばあさんを見た瞬間、涼子はショックのあまり頭の中がショートしたみたいだった。介護者として何かしなければならないはず……なのに身体が動かない。頭の中はパニック状態で《怖い、怖い!》と、ただ震えていた。
崎山が部屋に入って、てきぱきとやってくれているのをただ茫然と眺めているだけ。――気がついたらワゴン車の座席で涼子は泣いていた。
こんな意気地なしで、無能者だと思ってもみなかった。結婚まで断わって、人の心を踏みにじってまで、やりたいと思った介護の仕事なのに、ほんとうに必要とされる時に、自分は何も出来ないで……ただ震えて見ていただけだった――そんな不甲斐ない自分を知って、自己嫌悪で涼子は潰れそうになった。
その後、救急車で病院に運ばれたおばあさんは、命に別条はないということだった。警察に逮捕されたおじいさんは、取り調べ室で事件の原因について「デイサービスに行くのを嫌がって、おばあさんが暴れ出したから、なだめてる内に、ついカッとなっておばあさんを殴ってしまった。その後は興奮して自分が何をやったのかよく覚えていない」と刑事に答えた。「おばあさんに酷いことをした。本当に申し訳ない……」とおじいさんは泣きながら謝っていたという。
そして、近所へ事情聴取にきた刑事は、日頃から、おじいさんの献身的な介護振りを知っている近所の人たちから「どうか、おじいさんを許してやってください」と、口々に懇願されたという。
しかも、介護するおじいさんの方も、七十八歳という高齢者で持病をいくつか抱えていて健康体ではなかった。見るに
高齢者が高齢者を『介護』をすることは、精神的にも肉体的にも負担が大きく、ヘタをすると共倒れになり兼ねない状況なのである。
――高齢者の『介護』は、心だけでは支えられないことなのだ。
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