2 最愛のぬくもり

 乗船案内のアナウンスが始まるとすぐに、私たちはフェリーに乗りこんだ。

 割り当てられた個室を探しだして、中に荷物を置く。

 船の中だなんて思わず忘れてしまいそうなその部屋には、ベットが二つと、小さな机が一つ、小型の冷蔵庫とテレビまで置いてあって、まるで小さなホテルの一室みたいだった。

 

 自分でそんなふうに考えておいて、ドキリとする。

 今夜一晩、この部屋に海君と二人きりなのかと思うと、どうしようもなく緊張した。

 

「私……甲板に出て外を見てくるね。町が遠くなっていく様子って、船から見たらどんなふうなのか……ずっと見てみたいって思ってたんだ……!」

 

 それは確かに事実だったので、私は急いで重いドアを開け、大慌てでその小さな個室から出ていこうとする。

 

 海君はそんな私をフッと笑って、腰かけていた椅子から立ち上がった。

「俺も行くよ」

 

 重たいドアに四苦八苦している私にあっという間に追いついて、一緒にドアを押し開けてくれる。

 背中いっぱいに感じる海君の気配なんて、これまでは全然平気だったのに、今日は妙に近すぎるように感じて、ドキドキが止まらない。

 

(意識しすぎだよ……!)

 ギュッと目を閉じて不自然な思いをふり払おうとしている私の右手を、いつものように海君が掴んだ。

 

「早く行かないと、あっという間に見えなくなっちゃうよ……?」

 悪戯っぽく笑った瞳に、繋いだ手に、胸が高鳴った。

 

 まだ、それらは私のものなんだと思えることが、どうしようもなく嬉しかった。



 

 

 出港時間が真夜中に近いということもあって、甲板に出ている人の数はそんなに多くなかった。

 まばらなその人たちも、吹きつける強い海風と、フェリーの思ったよりも大きなエンジン音に参ったように、一人また一人と船室に帰っていく。

 接岸していた港もどんどん小さくなって、ついに小さな一つの点になって視界から消えてしまっても、私はまだそこを動こうという気にはならなかった。

 

「一緒にいるよ」

 と言ってくれた海君は、

「こんなに強い風に、長い時間当たってたらだめだよ」

 と言い張って、私が船室に帰らせた。

 

 だから私はいろんな思いを噛みしめて、故郷の町が遠くなっていく様子を、思う存分一人きりで見送ることができた。

 

(明るい時だったらもっと良かったのに……)

 そんなことを思いながら、小さな小さな町の灯をいつまでも眺めていた。

 

「いいかげんにしないと……風邪ひいちゃうよ?」

 優しい声が私のすぐ近くで響いて、肩に薄手の上着が掛けられた。

 

 甲板の心もとない手すりに寄りかかるようにして、いったいどれぐらいの時間、私はボーッとしていたんだろう。

 いつまでたっても帰って来ない私を、海君がついに迎えに来てくれた。

 

 すぐ隣に肩をくっつけるようにして立って、私の顔をのぞきこむながら笑う。

「ずっとここに居るの?」

 

 狭い船室のことを思い出して、私は困りきって返事する。

「別にそれでもいいけど……」

 

「そんな寂しいこと、言わないでよ」

 本当に寂しそうな声に、思わず彼の顔を仰ぎ見た。

 甲板を照らすライトを背に受けて、海君の表情はよく見えない。

 だけど――。

 

「一緒にいようよ……せっかくなんだから……」

 恥ずかしい思いよりも、動揺する思いよりも、その言葉が私の心に大きく響いた。

 

(そうか……もう会えなくなるんだもんね……)

 

 なんて実感が湧かないんだろう。

 今でもまだ信じられない。

 もうすぐ私たち二人の時間は終わりを告げるなんて、まるで嘘みたいだ。

 

 当たり前のように私の手をそっと握った海君の肩に、私は自分から頭を寄せた。

 今は一センチでも一ミリでもできるだけ彼の近くにいたいと、その時初めて思った。



 

 なのに、船室に帰って二人っきりになったら、それだけでもう心臓が口から飛び出してしまいそうなくらいに緊張する。

 

「あー、疲れたね……」

「うん」

 

 ベッドに座りこんだ海君に、形ばかり笑いかけて返事して、私はすぐに背中を向ける。

 

 小さな机の上に置かれた説明書きなんかを手に取って、パラパラとめくりながら、

「思ったより揺れないんだね」

 とか、 

「海の上だなんて信じられないね」

 とか思いつくだけのことを全部口に出したら、あとは耐えられないくらいの沈黙の中に、二人だけで取り残されてしまった。

 

(海君が……何気なくいつものように接してくれたらいいのに……!)

 なんだか泣きそうなくらいの気持ちでそう思う。

 

 だけど、いつもは私の考えていることを口に出さなくても察してくれる海君が、今夜はなぜかわかってくれない。

 ううん。

 わかっていてわざと無視しているようにさえ感じる。

 

 部屋にたった一つだけある窓の前に立って、しがみつくようにして真っ暗な海を眺めながら、私は頑なに彼に背を向け続けていた。

 

 耳をすませば遠くに、波の音が聞こえるような気がする。

 実際にはフェリーのエンジン音が小さく響くばかりで、波の音など聞こえるはずもないのだけれど、丸い小さな窓から見える海は、不思議なくらい近くに感じた。

 

 小さな額に入った絵のように、窓枠で切り取られた景色は、ちょうど夜空と海との境界線を捕らえている。

 どこまでも明かりの見えない水平線の上に、眩しいくらいの月が影を落としている光景は、ため息が出るほどに美しかった。

 

 漆黒の夜空の月と、水面に映った月。

(どっちが本物かわからないくらいだ……)

 

 真剣にそんなことを思った時、ベッドから立ち上がった海君が、音も無く静かに隣にやってきた。

「何が見えるの?」

 

 ドキリと飛び上がった胸の音をごまかすように、私は窓から離れず答える。

「海と月。それだけだよ……」

 

「そっか……」

 短く答えるとすぐに、海君は沈黙した。

 

 決して広くはない部屋の中を充填していくかのような重苦しい沈黙。

 息が詰まりそうな状態に、いったいどうしたらいいのかわからず、さんざんさまよわせた視線を、私は結局最終的には、隣に立つ海君の横顔に向けた。

 

 海君は目を閉じていた。

 自分で窓の向こうをのぞこうとはしないで、懸命に私の言葉だけで、外の風景を想像しようとしている。

 

 ピタリと閉じた長い睫毛に、目を奪われた。

 瞑想しているような、夢見ているかのような横顔。

 

 白い頬に触れたくて、思わず手を伸ばしたくなる。

 それはもう、恥ずかしいとか照れくさいとかの気持ちを越えた、私のありのままの感情だ。

 

「海君……」

 彼の名を呼んだその声が、今までで一番溢れるくらいの想いをこめた声になったと、自分でも思った。

 

 海君は閉じていた目を開けて、私を見つめた。

 その大好きな瞳に、私はまたどうしようもなく捕まってしまった。

 

「真実さん……」

 私の名を呼ぶ彼の声にも、泣きたいくらいに、ただ愛しさだけが募った。

 

「俺はもう、真実さんに会いに来ないよ……」

 私の目を見つめながら海君が静かに語る言葉は、悲しくてたまらない内容のものなのに、なぜか今は心に優しく響く。

 

「一緒に未来を歩くことはできない……」

 確認するかのように、諭すかのように続けられる言葉が、この小さな船室の光景と共に、私の心に刻みこまれていく。

 

「今日でサヨナラだ……」

 海君がどうしてそんなことをわざわざ口にするのか、その理由が私にはわかる。

 わかり過ぎるほどにわかるから、私はそっと頷き返す。

 何度も何度も頷き返す。

 

「それでも……」

 それ以上の言葉を彼はきっと口にはしない。

 私にはわかってる。

 

 だから私は彼に向かって手をさし伸べる。

 ずっと前に誓ったように、彼がそうできないのなら、私のほうから近づいていけばいいと、やっぱりそう思った。

 

「いいよ……それでもいいよ……」

 穏やかに笑いながら言った私に、海君が驚いたように目を見開いた。

 目の前にさし出された私の右手と、私の顔を交互に何度も見つめ、次第にホッとしたような笑顔になっていく。

 綺麗な瞳が、この上なく幸せそうに輝きだす。

 

 さし出された私の右手に、海君は掌をあわせるように自分の左手を重ねて、これまで何度も何度もそうしてきたように、指を絡めて力強く握りしめた。

 

「ねえ……真実さん覚えてる? 俺が、真実さんを呼び捨てで呼ぶ時はどんな時か、最初から決めてるって言ったこと……?」

 心に染み入るような声でそう聞かれて、心臓がドキンと跳ね上がった。

 

 私を見つめる海君の顔からそっと目を逸らして、わざと窓の向こうの海に目を向ける。

「うん、覚えてる」

 

 私は静かに答えた。

 

 繋いだ手をそっと引き寄せて、海君が私を抱きしめた。

 

 さっきまで頭の中を駆け巡っていた「どうしよう?」という思いは、不思議なほどに私の心から消えていた。

 それよりも何よりも、今はもう、私を抱きしめるこの腕が、胸が、私の上に斜めに首を傾げて近づいてくるその唇が、どうしようもないほどに愛しい。

 

「真実さんが悪いんだよ……俺は諦めることには慣れてるのに……本当はもっとかっこつけて……何にも言わず、何も望まないまま、真実さんの前からいなくなるはずだったのに……」

 

 私の頬に、首に、唇に、何度も何度もキスをしながら、海君はちょっと拗ねたようにそんなことを言う。

 だけど私を見つめる瞳はなんて優しいんだろう。

 なんて魅力的なんだろう。

 

「そうだね……私のせいだね……」

 小さく笑いながら呟いた私に、

 

「責任取ってくれるんでしょ?」

 わざと意地悪く囁かれる声は、なんて耳に心地良く響くんだろう。

 

(きっとまちがってる……こんなのよくないはずだ……)

 

 そんなことは百も万も承知で、私は海君の首に腕をまわした。



 

 ずっと前に、

「真実さんを俺のものにしたい。でも俺にはそんな資格ないんだ」

 と私に告げた時の、海君の切なそうな瞳を覚えている。

 

(そんなことないよ! 私がそんなふうに思ってほしい人は、海君以外にはいないんだから……!)

 

 あの時は口に出して返すことのできなかった私の本音が、今、頭の奥で鳴り響いている。

 

「海君……愛してる……」

 何度も何度も心の中では思いながらも、最後まで口に出すつもりはなかった言葉が、思わず口をついて出てしまった。

 

 ふっと甘いため息を吐いて私にキスした海君は、いつものように

「俺もだよ」

 と私の言葉に同意するのじゃなく、

「真実、俺も愛してるよ」

 と私の耳元で囁いた。

 

 切なさに、愛しさに、本当に胸が張り裂けると思った。



 

 愛しくてたまらないこの温もりにこのまま溺れてしまったら、私は本当に、このあと彼の手を放すことができるのだろうか。

 あんなに苦しんで、それでも決意した別れを貫くことができるのだろうか。

 

 ――わからないけれど、止められない。

 

 走り出した感情のままに、彼に手をさし伸べた瞬間から、よくばりな私の最後のわがままは、自分自身でも、たとえ神さまであっても、きっと止めることなんてできはしない。



 

 小さな窓から、月光が降り注いでいる。

 キラキラと煌めく水面と同じように、私たち二人の上にも小さな光の輪ができている。

 

 私はすぐ隣にある大好きな瞳に語りかけた。

「海君……ほら月が見てる……」

 

「そうだね……でもまあ……月しか見てないからいいっか……」

 どこかに後悔を残したような言葉に、不安が募る。

 

「ゴメンね……」

「どうして真実さんが謝るの?」

「だって……海君本当はこんなつもりじゃなかったでしょ……?」

「こんなつもりって……どんなつもり?」

 

 私が困って口ごもることをわかってて、海君はわざとそんな言い方をする。

 こうなったことを悔いているわけじゃないんだとホッとしながらも、ちょっと腹が立って、私は海君に背中を向けた。

「もういいよ」

 

 ふて腐れたセリフに、海君が漏らしたフフフッという笑いが微かに聞こえる。

 何も言わないまま、急に海君が手を伸ばして、私の体をうしろから抱きすくめるから、ドキリと心臓が跳ねる。

 背中いっぱいに彼の温もりを感じて、この状況が恥ずかしくてたまらなくなった。

 

「海君……」

 そっと呼んだら、 

「何?」

 この上なく優しい声が返ってくる。

 

 抗議の言葉をぶつけるつもりだったのに、その声音についついつられて、

「好きだよ」

 と本音が出てしまった。

 

「俺も好きだよ」

 やっぱり今だけは、海君がしっかりと言葉で自分の気持ちを伝えてくれる。

 私がずっと聞きたかった言葉をちゅうちょなく返してくれる。

 

 そのことがわかったから、なおさら言わずにはいられなくなった。

 ――心に浮かんだ感情を、一つ残さず伝えずにはいられない。

 

「大好き」

「うん。俺も……大好き」

 

 ギュッと目を瞑ってその声を心に抱きしめた。

 いつまでもいつまでも覚えていようと焼きつけた。

 

 海君の左手が、私の右手を見つけだして、指を絡める。

「真美さん……朝になってこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……」

 

 私の心に染み入るような声で彼は囁く。

「いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」

 

 海君にはいつも――いつでも私の望んでいることがわかる。

 私が心に秘めたままの小さな願いでさえ、気づいて、拾い上げてくれる。

 

 その優しさに感謝をこめて、私は頷いた。

「ありがとう、海君」

 

「俺のほうこそありがとう」

 私を抱きしめる腕に、海君はまたギュッと想いをこめた。



 

 彼がどんな声でどんなふうに私を呼んだのか。

 どんな顔でどんな瞳をして私のことを見つめたのか。

 その大きな手も、長い指も、私を抱きしめた腕の強さも、温かい胸の中も、優しい背中も、何もかも忘れない。

 

 だから彼と繋いだ右手は、これから先もずっと繋いでる。

 ずっとずっと心の中で、――いつも繋いでる。

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