第八章 一夜だけの夢

1 垣根のない距離

 漁船が最も多く集まる港まで堤防を真っ直ぐに歩いて、それから私たちは隣町のフェリーターミナルに向かうためにタクシーに乗った。

 手を繋いで港までの道を歩いている間も、タクシーに乗ってからも、海君はずっとなんだか嬉しそうだ。

 

「ねぇ……もし誰か知ってる人に会ったらどうするの?」

 悪戯っぽく問いかけてくるから、内心ドキリとしながらも、私は平気な顔を作る。

 

「別にどうもしないよ……? この人が私の大好きな人ですって、誰にだって紹介するよ……」

 かなりやけっぱちな返答に、海君は喉の奥でクククッと笑った。

 

「いいなーそれ……やっぱり俺、真実さんの家にも行っとこうかな……?」

 愉快そうに呟く彼に、私は小さく息をのむ。

 

「……さすがにそれはちょっと……!」

 本当に困った顔で海君の顔を見上げたら、途端に彼は満面の笑顔になった。

 

「冗談だよ……!」

 わかってはいたつもりだけど、やっぱり腹が立つ。

 

「ほんとにもう! 海君は、いつもいつも……!」

 これまで心の中でだけくり返してきたセリフを、思わず口に出す私に、海君は悪戯っぽくニッコリと笑う。

 

「珍しく強気だなー」

 そのまま顔を近づけて、あっという間に私にキスしてしまった。

 

「海君!」

 狭いタクシーの中での突然のキスに、私は飛び上がりそうにビックリする。

 

 両手でハンドルを握りながら、ついさっきまで私とローカルな話題に盛り上がっていた運転手さんだって、きっと驚いているに違いない。

 

 海君はそんな私たちの様子なんかまるでお構いなしで、悪びれもせずまだニコニコ笑っている。

(何?)と瞳だけで問いかけられて、

(何じゃないでしょう!)と視線だけで言い返した私に、

 それでもまだ笑いながら顔を近づけてくる。

 

「海君!」

 必死にその体を押し戻しながら叫ぶと、ついに海君はお腹を抱えて笑い出した。

 

 車の中にこだまするハハハハッという笑い声に、彼が私をからかって面白がっていたんだと気がつく。

(もう、許さない! 絶対に許さない!)

 

 体ごと海君に背中を向けて窓の外に目を移した私を、彼はそれでも笑いながら見つめ続けている。

 一瞬も目を逸らさず、優しい瞳で見守っている。

 

 窓の外が真っ暗だから、窓がまるで鏡のような役目を果たして、背中を向けているにもかかわらず、私には海君の顔がよく見えた。

 

 表情は確かに笑っているけれど、その瞳は追いつめられたように切ない色をしていることがわかる。

 だから私の胸まで苦しくなる。

 揺らぐことのない真っ直ぐな海君の視線が、私の心に突き刺さる。

 

(もうすぐ終わりだなんて信じられない……! このままずっと二人で、一緒にいられるとしか思えないのに……!)

 

 だけど現実は現実だ。

 決して変わることはない。

 

(意地を張ってる時間なんて、本当はないんだよね……そんな時間はもったいないんだ……)

 

 ちょっと決まりの悪い思いをしながらも、意を決してまた彼のほうへと向き直る私に、海君は嬉しそうにニヤッと笑う。

「えっ? 真実さん、もう降参……?」

 

 少しムッとしながらも、必死に心を落ち着ける。

「いいでしょ……別に……」

 

「もちろんいいよ!」

 艶やかに笑って海君が私の手を取った。

 繋ぐことが当たり前になっている手。

 もう少しで、放さなければいけなくなる手。

 

 時間はどんなに私が祈っても、止まってはくれない。

 

 だから私は海君の肩に、そっと頭を乗せた。

 その上に、海君もそっと頭を重ねる。

 彼と触れている感触が、心には痛いけれど肌に気持ちいい。

 

(人の体温って温かいな……)

 エアコンが効き過ぎるくらいに効いている車の中だからそう思うのだろうか。

 

 それともこの温もりが、海君が確かに生きている証拠に他ならないから、こんなに心地いいのだろうか。

 目を閉じると眠くなる。

 

 きっと「真実さんはまた!」なんて海君に呆れられるだろうから、意識を保とうと必死に思うのに、ついつい眠りに落ちていこうとする自分を止められない。

 

(そっか……海君とくっついていると、幸せすぎて眠くなるんだよ……)

 言い訳のように、私はそんなことを思った。

 

(緊張するとか……ドキドキするとか……それはもちろんあるけど……そんなことよりずっとずっと幸せすぎて……安心するんだよ……!)

 

 もうすぐ失うって時になって、こんなことに気がつくなんて、もう笑うしかない。

 でもそれは、私が絶対に確信を持って言えることだったので、そっと海君の耳に口を寄せて、囁いてみた。

 

「ああ、そうだね……それはそうかもしれないね……」

 小さな声で返ってきた海君の答えは、私をとても満足させてくれた。

 だけど――。

 

「でもそれでも俺は、やっぱりドキドキのほうが大きいんだけどな……?」

 ため息を吐きながら、とっても意味深な瞳で真っ直ぐに見つめられると、私だってやっぱり赤くならずにはいられない。

 

「もう……! 一生懸命、意識しないようにしてるんだから、そんなふうに言わないでよ……!」

 今日これからのことを考えると、あまりにも緊張してしまうから、私が必死で目を逸らそうとしていることを、海君は堂々と蒸し返す。

 

「どうして? 意識していいよ……意識してよ……?」

 わざと耳元で囁かれる甘い声に、眩暈がおきそうになる。

 

「海君!」

 抗議するように彼の名前を呼ぶ私の唇に、海君がまたそっと唇を重ねた。

 もうすっかり怒る気も失せた。

 

「……海君どうしたの? なんだか変だよ……? どこか壊れちゃった……?」

 半ば呆れ気味にそう尋ねると、海君は私をそっと胸の中に抱きこむ。

 

「うん。そうかも……」

 私の髪に顔を埋めて、小さく呟く。

 

「もう手を繋ぐこともないって思ってたのに、真美さんが俺を望んでくれたから……俺が思ってたのと同じように、手をさし伸べてくれたから……もう制御不能になったかもしれない……ゴメン……こんなじゃダメ?」

 

 一気に体中の血液が逆流するかと思った。

 ドキンドキンと頭が割れそうなくらいに心音が鳴り響く。

 

(そんなこと言ったって! ……そんなふうに尋ねられたって! ……なんて答えたらいいのか、私にだってわからないよ!)

 

 真っ赤になって黙りこむ私を見て、海君はクスリと小さく笑う。

 

 私の耳元に唇を寄せて、とてもとても声を潜めて、

「責任取ってよね? 真実さん……」

 妙に艶やかに囁くから、もう焦りきって、どうしようもなくって、この場から逃げ出してしまいたくなる。

 

 だけど、狭いタクシーの中なのだ。

 そして行く先は、逃げ場などない船の上なのだ。

 

(ねぇ……いつもの冗談だよね? 私をからかって遊んでるんでしょ……?)

 そう問い質そうと思って見つめた海君の顔は、これ以上なく真剣だった。

 

 あまりに真顔で、じっと見つめられるから、私は余計にドキドキして、結局また、彼に背を向けるしかなくなる。

(……どうしよう!)

 

 本気で困って俯く私には、その瞬間、窓に映る海君の表情が悪戯っ子のような笑顔に変わったことなど、全然見えていなかった。



 

 フェリーのターミナルに着くとすぐに、私たちは窓口に行って乗船手続きをおこなった。

 貴子が渡してくれたチケットは予約券だから、実際に乗船する前に、ここで改めて色々な書類に記入しなければならない。

 いろんな項目が並んだその用紙を前にして、私は途方に暮れていた。

 

「ねえ海君……私に書かせたって、海君の欄にはなんにも書けないよ……?」

 

 自分で言ってても、おかしくなる。

 氏名。

 住所。

 年齢。

 電話番号。

 何を聞かれても見事なまでに、私は本当の彼のことを知らない。

 

 海君はニヤリと笑って言った。

「真実さんと一緒でいいよ……」

 

「そう……?」

 大きくため息を吐きながらも、彼が言ったとおりにする。

 

(海君の本当の情報なんて……いまさらだ。サヨナラを目の前にして、いまさら教えてもらっても……もうどうしようもない……!)

 自分に言い訳するように、心の中で何度もくり返す。

 

 私が海君のことを何も知らないからこそ、私たちのサヨナラには大きな意味があった。

 あとになってやっぱり会いたくなっても、追いかけていく術も、彼を探す術も私にはないのだ。

 

 彼が確かに私の隣にいたという証拠さえ、私には何一つ残らない。

 

(これって……もう本当に、もう二度と会えないサヨナラだね……)

 

 そう思うと、やっぱり心は切ないけれど、実に海君らしいと思った。

 何も教えてもらえず、それでもこんなに私が好きになった人らしいと思った。

 

 だから彼が言ったとおりに、乗船票には私と同じ連絡先を書いて、誕生日なんかも適当に記入した。

 

 けれど全部書き終わって、提出したところで、

(でも……海君の体調としては、船で旅なんてよかったのかな……?)

 と思わずにはいられなかった。

 

 よくいろんな施設や器具なんかで、『ご利用いただけないお客様』の但し書きを見ると、大抵『心臓の疾患』と書いてある。

 これまで、自分には関係ないと見逃してきたその項目が、急に大きな意味を持って目の前に立ち塞がる。

 

 できないこと。

 行けない場所。

 きっと海君には私が思っている以上にたくさんの制約があるはず――。

 

(海君はこれまでずっと、その限られた世界の中で生きき来た……そしてこれからもその中で生きていく……!)

 そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。

 

 考えこんだまま動かなくなってしまった私を、その海君が優しく見下ろす。

「……どうしたの?」

 

 心に湧いた疑問をどうすることもできなくて、そのまま彼に問いかけた。

「海君……船で移動なんてしてよかったのかな……?」

 

 私の言葉の意味がよくわからなかったらしくて、海君は少し首を傾げて私の顔をのぞきこむ。

 

 私は必死に問いかける。

「海君、大丈夫なの……? 本当にいいのかな?」

 

「ああ……」

 ようやく私の言わんとしていることをわかってくれたらしく、海君はニッコリと笑った。

 

「大丈夫だよ。それで直接どうこうってことはない。結局俺の場合は、どこにいても何をしてても……いい時はいいし……ダメな時はダメになるだけだからさ……」

 明るく元気な声は、まるでその内容の重さに伴っていない。

 

「いつ『もしも』ってことになっても、とっくの昔に俺の家族は覚悟してるし、俺だって納得してる……あっ! でもちゃんと真実さんには迷惑かけないようにするから……!」

 放って置くといつまでも続きそうな海君の話に、私はたまらず叫んだ。

 

「海君!」

 手を伸ばして彼を抱きしめる。

 心がどうしようもなくズキズキする。

 

 海君がどんな気持ちで笑いながらこんな話をするのか。

 私にはわかる。

 わかりすぎるくらいにわかるから、これ以上聞けない。

 ――言わせたくない。

 

「ゴメン。海君もういいよ。ゴメンね……」

 

 私の声に海君はふうっと小さく息をついて、私の体を抱きしめ返した。

「俺こそゴメン……」

 

 その声が――悲しいくらいに切ないその声が――海君の本物の声だと思った。

 

 だから私は、せいいっぱいの想いをこめて誓う。

「私が守る。海君のことは、私が守るから……」

 

 海君が大きく目を見開いて、いかにも面白そうに私の顔をのぞきこんだ。

「真実さんが?」

 

 私の上に降ってくるように聞こえる海君の声は、驚きに満ちている。

 と同時に、隠しきれない喜びに満ちているように聞こえる。

 

「そう……私が!」

 だから私は、抱きしめる腕に力をこめた。

 大好きな海君の全てを、これ以上はないほど愛しく感じた。

 

「守ってあげる……」

 笑みを漏らした私に、海君もニッコリと微笑んだ。

 

 この上なく魅力的なその笑顔を輝かせて、

「へえ……楽しみだな……」

 ゆっくりと首を傾げて、また私にキスをした。

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