2.宣戦布告

 半日かけて諒が作ってくれたリストのおかげで、私が昨日、みんなに宣言した「情報収集やります!」は、完了したも同然だった。

 でも本当に重要なのは、むしろそのリストの中身だった。

 

「なにこれ! A組ばっかり……それもすっごく成績上位者だけじゃない!」

 リストを眺めながら大声を上げた私に、諒が慌てて「声を落とせ!」のジェスチャーをしてみせる。

 私はしぶしぶひそひそ声を心がけながら、前の席に後ろ向きで座る諒に、そっと顔を近づけた。

 

「生徒会長ばかりか、他の役員まで、うちのクラスだけで独占しようってこと?」

 諒はもっともらしく頷いた。

「ま、そういうことだろうな」

「なにそれ! それじゃ学校全体がこのクラスの巨大バージョンになっちゃうじゃない! そんなの嫌よ!」

 

 一部の人間を除いては、みんなそれぞれ自分の席に着き、午後からの予習に余念がないクラスメートたちの背中を見渡しながら、私は小さく悲鳴を上げた。

 

 諒は一瞬なんとも言えないような表情をしながらも、次の瞬間にはひどく真面目な顔を作って頷いた。

「俺もそう思う。でもまあ、たぶん……成績の良くないヤツを入れても使えないって言うんだろ……いかにもあいつらが言いそうなことだから……」

 

 そう言って諒が見つめた先に、私も目を向けてみた。

 そこには、会長に立候補するという柏木君が立っていた。

 

 きちんとアイロンのかかった制服に、校則違反にはとてもなりそうにない髪形。

 人が良さそうと言えなくもない顔で、周囲の人たちに笑いかけてはいるけれど、

「あの笑顔は、学年二十位以内の人間にしか向けられないんだ」という諒の注釈を聞き、本気で呆れる。

 

 確かに彼はいつも同じ顔ぶれの二、三人の取り巻きに囲まれている。

 その中に、私が今朝何気なく指差した黒ぶち眼鏡の黒田君がいて、私は改めて、諒がさっき渡してくれたプリントに目を落としてみた。

 

(あった! 書記・黒田秀夫。やっぱり、あの人も生徒会候補の一人じゃない……どうよ!私のカンだって、案外捨てたもんじゃないわ……!)

 ここはしっかり見直させてやろうと、黒田君の名前を指差しながら諒の顔を見上げようとした私は、その時、その名前の上に、とんでもないものを見つけた。

 

「ふ、副会長・勝浦諒⁉」

 思わず大声で叫んでしまい、私が教室中の注目を浴びた瞬間、諒はがっくりと肩を落としてため息を吐いた。

「だからお前は、もう少し声の大きさを落とせって……」

 

 あまりにもいつもどおりのその反応に、なぜだかどんどん頭に血が上っていく。

「い、いったいどういうことなのよ!」

 

 諒に掴みかからんばかりの私の肩を叩いて、背後から現われたのは、(いつの間に後ろを取られていたんだろう!)柏木君――その人だった。

 

「どうもこうも……勝浦君にはぜひ僕の右腕になって欲しいと、前々からお願いしていたんだよ。近藤さん」

 作り笑いの笑顔を向けられたからには、どうやらまだ私も、話す価値のある人間だと認められているらしい。

 でも私を見る柏木君の目は、決して笑ってなどいなかった。

 

「どうやら生徒会選挙についていろいろ調べてるみたいだけど……君たちも同じA組なんだから、当然僕を応援してくれるんだろう?」

 

 私は、ぎゅっと力を入れて、自分で自分の腕を抱きしめた。

 いくら言い方がいやらしいからって、背中に虫唾が走るからって、殴っていい相手といけない相手の区別くらいは、私にだってつく。

 それに今は、決して手を上げたらいけない時だということだって、ちゃんとわかる。

 

 でもそんな覚悟も吹き飛んでしまいそうなくらい、柏木君の声音と口調は、私の全神経を逆撫でした。

「近藤さんもね、今までの成績だったら、ぜひ助力をお願いしたいところだったけど……今はそれどころじゃないでしょ? ……どう? もう一度そこから這い上がって来れそう?」

 

 柏木君の言葉に、取り巻き連中からクスクスクスと笑い声が起こる。

 私は必死に拳を握りしめて、唇を噛みしめるしかなかった。

 

 苦し紛れに目の前にある諒の顔を見上げる。

 諒ははあっと大きなため息をついて、柏木君に向き直る。

 

「俺だってご期待には添えないと思うぜ? こいつと同じで今回はこんな席だからな……」

 顔や身長に似あわず、低くて良くとおる声で、嫌味たっぷりに言い切ってくれた。

 

「いやあ、君だったらすぐに……」

 急いでフォローしようとした柏木君の言葉を右手で制し、きっぱりと言い放つ

 

「俺はお前が作ろうとしている生徒会に入るつもりはない。いくら誘われても、それは変わらない」

 内心チッと舌打ちをしたような表情で、踵を返した柏木に(この際もう、呼び捨てで上等なのよ!)私もなんとか一矢報いたかった。

 怒りでクラクラする頭を抑えながら、椅子から立ち上がる。

 

「ちょ、待て……!」

 諒が慌てて止めようとしてるけど、ここで黙ったままでは気持ちが収まらない。

 私は敢然と立ち上がり、去って行く柏木の背中に人差し指を突きつけ、大きく息を吸い込んだ――!




 

「それで……こいつなんて言ったと思う?」

 

 放課後。

『HEAVEN準備室』で柏木たちとのやり取りをみんなに話して聞かせながら、諒はもう何度目かわからない大きな溜め息を、はあっと吐いた。

 

「次のテストでは絶対にあんたよりいい点数取って、見返してやる! 生徒会選挙だって、貴人はあんたになんか絶対負けないんだからね!」

 ご丁寧に私のものまねまでして、みんなの大爆笑を取ってくれる。

 柏木相手に手を上げることは我慢した私でも、諒相手にだったらいくらだって殴れるってことを、忘れてるんじゃないだろうか。

 

「………………!」

 言葉も出せないほどにぶるぶると怒りに震える私に向かい、順平君はいつものようにひゅうっと口笛を吹いて、大喝采をくれた。

 

「よく言った、琴美!」

「まっ、それぐらいは言い返さなきゃね」

 夏姫も腕組みしながら笑ってる。

 

 渋い顔をしたのは思いがけない人だった。

「あのなあ……俺たちはなにも喧嘩してるわけじゃないんだぞ?」

 部屋の中央近くの指定席に座っていた剛毅が、腕組みをしながらいかつい眉をしかめる。

 

「勝つとか負けるとかって話になったら、ちょっと厄介なことになってくるしな……」

 隣にいた玲二君も、なにやら困惑気味だ。

 

 言葉に出しこそしないが、反対隣の繭香だって、私を見つめる目を見れば、今回の私の言動行動をどう思っているかは一目瞭然だった。

 

 私はしゅんとうな垂れて、いさぎよく頭を下げる。

「あの……ごめんなさい」

 

 私という人間はいつもこうだ。

 感情のままに行動して、あとで決まって後悔する。

 自分だけのことなら、それは自分の失敗で済むけれど、今回のような場合はみんなに迷惑をかけることになる。

 これでは柏木たちのグループに、私たち貴人のグループが宣戦布告したも同然なのだから――。

 

(私は本当に何もわかっていない……諒に言われるまでもなく、本当に馬鹿だ……!)

 うつむく私の背中を、美千瑠ちゃんが優しく撫でてくれる。

「琴美ちゃん。気にすることないわ」

 

 智史君も窓際の席から、「大丈夫だよ」と声をかけてくれる。

 それでも私は顔を上げることが出来なかった。

 

 床を見つめたままの視界が、なぜかふいに暗くなる。

 驚いて目線だけを上げてみたら、あまり大きいとは言えない背中が、まるで庇うかのように私の前に立っていた。

 

「俺の責任だ」

 諒は唐突にみんなに向かって頭を下げる。

 

「一緒にいて止めることができなかった。って言うか……こいつがああ言ってくれてスッキリしたとまで思った……! だから俺だって同罪だ……悪い」

 

 深々と頭を下げる諒の姿に、思わず涙が浮かびそうになった。

 それは絶対に嫌だったので、私もすぐさま立ち上がって、諒の隣に並んで同じようにみんなに頭を下げる。

 

「そんなことない! 悪いのは私だから……!だから私がごめんなさいっ!」

「いや、それはもちろんお前が悪いけど……俺にだって責任はあるって言ってるんで……」

「ない! あんたには全然関係ない! これは私だけの責任だから……!」

「なんなんだ、その言い方っ!」

 

 何かがおかしい。

 確かついさっきまで、いさぎよくみんなに頭を下げてくれた諒の姿に、涙ぐみそうなほどの感動を覚えていたはずなのに、いつの間にかいつもの口喧嘩になっている。

 しかも――。

 

「責任は私が取るから! 一人で取るから!」

「お前なあ!」

 どんどん拍車がかかっていく。

 

 そのやりとりをみんなが呆気に取られたように見守る中、制止の合図をくれたのはやっぱりあの声だった。

「もういいよ、二人とも」

 

 朗らかな声が部屋の出入り口のほうから聞こえて、みんな一斉にそっちに注目する。

 そこに立っていた貴人の、何もかもを包みこむかのように穏やかな微笑みに、私は再び涙が浮かびそうになった。

 

「積極的にしろ消極的にしろ、とにかく戦うことにはなるんだから……要はこんなに心意気のあるメンバーが、うちにはいるんだぞって表明したってことだろ? あっちは今ごろ焦ってるかもしれないよ……」

 冗談っぽく話しながら、しまいにクスクスと笑い出してしまう貴人を中心にして、部屋の空気がどんどん変わっていく。

 

「まあ、お前がそう言うんなら……」

「うん……」

 毒気を抜かれたようなみんなの様子を見ていれば、貴人の笑顔は男女を問わず誰にだって絶大な威力を持ってるんだってよくわかる。

 

 なぜだかますます泣きたいような気持ちになり、私は慌てて叫んだ。

「私、トイレ!」

 

 大急ぎで部屋を飛び出した途端、背後から剛毅の大きな声が聞こえた。

「琴美! お前、女だろ。恥じらいってものはないのか!」

 

 その大声に、みんなの笑い声が重なる。

(良かった……みんな笑ってる……!)

 そう思った瞬間、こらえにこらえていた涙がついに溢れた。



 

 宣言どおりトイレへ行って、私は思い切り顔を洗った。

 だからこらえきれなかった涙はきっと誰にも見られなかったと思う。

 

 私は涙を人に見られることが苦手だ。

 せいいっぱい肩肘張って生きている自分の、化けの皮が全部剥がれてしまいそうだから――。

 

 本当の私は、全然強くなんかない。

 そのことを自分でもよくわかっているから、誰かに弱みを見せたくなんかない。

 だからどんな時でも、人前では絶対に私は泣かない。

 それが誰であっても、渉の前でさえも泣かなかった。

 一週間前、突然のサヨナラを言い渡された時も、涙なんか出なかった。

 少なくとも渉の前では――。

 

 パンパンパンと自分のほっぺたを叩いて、「よしっ」と気合いを入れる。

 これでもう、いつもの顔でみんなの前に戻れると思う。

 でも、ふと心に浮かんだ疑問のほうは、なかなか拭い去れない。

 

(私なんかがみんなの仲間に入って、本当に良かったのかな……もっと適任の人が他にいたんじゃないかな……)

 らしくもなく暗い気持ちでトイレを出ると、廊下のずっと向こうに貴人が立っていた。

 眩しいくらいのいつもの笑顔。

 それを見た瞬間、たった今自分の適性について考え直していたはずだったのに、私はあつかましくも思ってしまう。

 

(あーでもやっぱり、できるならこの笑顔の近くにいたいなあ……)

 

 本当に人生最悪の日。

 どうしようもなくて座りこんでいた私を見つけ出し、立ち上がらせてくれたのは、貴人のこの笑顔だったから――。

 

(迷惑にならないように、自分に出来るせいいっぱいのことをやりたいなあ)

 心からそう思う。

 

「貴人」

 ちょっとぶっきらぼうに名前を呼んでも、貴人はすぐに、「なに? なんでも俺に言って?」というような顔でニッコリ笑う。

 

 そういう人に、いつか自分もなれたらと思う。

 でも今の私には、やっぱり今の私らしくしかすることができない。

 だから――。

 

「私がメンバーに入って……本当によかったのかな?」

 思ったことはすぐに口に出さずには、いられなかった。

 

(そういえば前に、渉に「それが琴美の良いところで悪いところ」って言われたっけ……)

 心の中でこっそり苦笑している間に、貴人はさらっと答えてしまった。

 

「俺は信じてるよ? 自分の人を見る目も、繭香の占いも……」

 そしてまた見惚れるほど鮮やかに、花が咲くように笑う。

 

「他のメンバーだってみんな、俺たちはもともとが友だちでもなんでもない人間の集まりだよ。個性もバラバラで、考え方だってやり方だってそれぞれで、だから一緒にやっていく上では、いろんなことが起こる……でもそれも含めて、俺は今、毎日が楽しくてたまらないんだけど……琴美は違う?」

 

 問いかけられて、果たして自分はどうかと考えるより先に、自然と口が動いた。

「私も! ……なんだか楽しい。本当は最悪のことがあって、ひどい気分のはずなのに……この間から、急にドキドキワクワクしてる……!」

 

 私の返事に、貴人はとても満足そうに笑った。

「じゃあ。これからもよろしく」

 

 長身を折り曲げるようにして私の顔をのぞきこみ、笑う貴人に、私も力強く頷いて笑い返した。

「うん。こちらこそ、よろしく」

 

 貴人の笑顔と前向きな言葉は、どんな気分の時だって私の背中を押してくれる。

 まるで魔法のようだと思った。

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