こうして二人は永遠にキスをし続けました。

夏鎖

こうして二人は永遠にキスをし続けました

 水滴が落ちる音が聞こえる。

 ぴちゃん、ぴちゃん。

 どこかで朝露が雫となり、水たまりを作っているらしい。規則的な水音が鼓膜を揺らす。

 僕はその水音だけしか聞こえない森を歩く。日はすでに高い位置にあるのに、この森は薄暗かった。獣すら近づかない魔の森。そこに僕らの居場所はある。

 獣道すらない森の中を歩くのは毎度のことながら一苦労だ。空を覆い隠す木々の葉のおかげで、下草こそあまり生えていないものの、地面を覆い隠す柔らかい腐葉土に旅人御用達のブーツが深く沈む。そのせいでこの森の一歩は草原の一歩とは比べ物にならないほど重い。


「待っていてくれ……マリア……」


 この森に入るとつい君の名前を口にしてしまう。君は必ずあの場所にいるのに、君に会うことを待ちきれない僕の心が、君をただひたすらに求める。

 どれくらい歩いただろう。急に森が開ける。

 そこには花畑が広がっていた。

 咲き乱れる赤、青、黄、紫、白。それが僕を迎い入れる。

 森の中に穴があいたような、そんな場所に足を踏み入れる。

 僕は魔の森にある奇跡のような花畑、その中心へ向かう。花畑に入ってからは花を踏みつぶさないように、慎重に歩く。花を散らしてしまえば、きっと君は悲しむから。

 森の中を歩く何倍もの時間をかけて、僕は花畑の中心に辿り着く。

 花畑の中心には紅く小さな花をつけた野薔薇が直径一メートルほどのドームを作っている。その中の棺のようなベッドに君はいる。

 緑のドームの中にかかんで入れば、君に出会える。


「おはようマリア」


 眠る君に挨拶をする。マリアは綺麗な亜麻色の長い髪を繭のように体に巻きつけるように静かに目を閉じていた。大きな瞳と薄く淡い桃色の唇は閉じられ、陽の光を知らないような白肌は傷一つなく美しかった。

 僕はマリアの傍に膝をつき、優しく手を握る。

 眠っている君のほのかに温かい左手は、僕の右手を握り返すことはない。

 そんなことはわかっている。わかっていてもなお、僕は君に会うたびにその手に触れてしまう。

 亜麻色の髪に触れる。さらさらと流れるその髪は、すくうたびに星が尾を引くようにこぼれ、元の場所へと帰る。


(いつまでもこうしているわけにはいかないな……)


 君を慈しむことはいつだってできる。それよりも早く君を目覚めさせないと――

 君の顔に僕の顔を近づける。そして優しく唇をふれ合わせる。甘く、優しい、そんな痛みが頭の中を駆け巡る。

 次の瞬間、僕に抗いがたい睡魔が襲いかかる。僕は毎回それに抵抗しようとして、できなくて、眠りにつく。

 眠りにつく寸前、君が目を開ける気配がした。

 しかし、僕は君が起きている姿を見ることはできない。

 僕は意識を深い闇の中に沈めた。


 ×   ×   ×



 これは中途半端な呪いを解く魔法だ。

 王子様のキス。

 おとぎ話のような、それでいてどうしようもないほど現実な――

 永遠に続くキスの物語。


 ×   ×   ×



 貴族街は息苦しい。

 煌びやかな衣装を身にまとい、肥えた体を揺らす中年男性。

 華やかな宝石やドレス、化粧のせいで、逆に下品に見える若い女性。

 まだ陽も高いというのに、ワインのボトルを両手に持ち、二歩進むごとにそれを交互に飲む老人。

 金と権力。ただそれだけが支配し、それだけが全てな世界。

 そんな世界に十四年も身を置くと、常に酸欠のような気分になる。

 そして、僕の体調をさらに悪化させるのが他の貴族の態度だ。


「これはこれは! プリス様! ご機嫌いかがですか!」「おはようございますプリスさま!」「ごきげんようプリス様! 今日もお美しいですわ!」「ご機嫌麗しゅうプリス様!」


――プリス様、プリス様、プリス様、プリス様……


 僕が街を歩くたびに、この街に住む貴族たちは老若男女問わず、僕に頭を下げ、へりくだった態度をとる。


(こんなことなら公爵家の長男になんて生まれたくはなかった……)


 もう何度目かわからない溜息をつく。

 僕の家はこの国の公爵の地位を長らく守る名家だ。そして、僕はそんな家の一人息子として生まれた。両親――もとい、教育係から必要以上に大切に育てられ、街の人から媚を売られ続けた僕は、ひねくれこそしなかったが十歳になる前に希望を失っていた。

 この街が僕を駄目にする。

 僕は来年には成人し、ここから少し離れた場所を治める男爵家の次女を嫁として迎い入れ、家督を継ぐことになる。家督を継いでしまえば、後に待ち受けるのは子供を作り、この国の王様に頭を下げ、この場所でふんぞり返り、処理された書類にサインを書くだけの人生だ。


(つまらない……)


 今の生活に不満があるわけではない。衣食住には困るどころか贅沢をしてありまるほどで、勉学も剣術も人付き合いも客観的に見て優秀で、父親譲りの容姿は街のうら若き乙女を魅了しているらしい。

 だけど、僕はそんなことどうでもよかった。

 この息苦しさから抜け出したい。いや、抜け出せなくてもいい。実際、両親の期待を裏切って、何もかも捨てて逃げ出したいとは思わない。

ただ、対等な存在が欲しかった。お互いに気をつかわずに話せる相手が欲しい。

 そんな願いは届かずに、僕はつまらない大人になるのだろう。

 しかし、そんな絶望は君によって打ち砕かれることになった。



 ある晴れた日のこと。僕は妙齢のメイドと城下町にあるマーケットに向かった。

 両親からは基本的に貴族街から出ることを禁止されていたが、公務で席をはずしている時は僕がメイドに「視察」という大義名分を押し付けて、外へ連れ出してもらっていた。

 貴族街を出て中流といった市民が住む街を抜け、城門から城壁に伸びる一本の道を中心に広がる城下町へ。そこで僕を出迎えるのは貴族街にはない、生き生きとした人々の姿だ。

 僕はそんな人たちの賑わいに身を投じることで、浄化された気分になる。

 あの貴族街の息苦しさはここにはない。

 この世界が僕には羨ましい。

 メイドはなじみの店で食材を買いこみ帰路につく。さすがに、彼女も仕事でここに来ているため彼女が帰るとなれば、僕もあの息苦しい世界に戻るしかない。

 様々な職種の人で賑わうストリートを抜ける。

 この時、ストリートの入り口近くの小さな花屋に目を向けたのはほとんど奇跡だったといってもいい。もう、幾度とメイドとともにマーケットに来ていたが、今までその店の存在には気付かなかったのだから。


 小さな花の世界にいる君を見つけた。


 綺麗な少女だった。亜麻色の長い髪、活発な印象を抱かせる大きな瞳に薄い桃色の唇。町娘がよく着ているような質素なブラウスにスカート。淡い緑色のエプロン。

 心臓が大きく脈をうった。

 彼女はどうやら花屋の店員のようだった。彼女の周りには控えめながら美しく、誉れ高く咲く色とりどりの花が束になって飾られていた。

 彼女は何かを言って客引きをしている。

 僕のいるところまでは届かないその声に導かれるように一歩を踏み出す。

 まるで魔法だった。君が僕を呼んでいる。そんな錯覚に陥ってしまって、理性の歯止めが効かずに、とめどなく溢れる何かが僕を花の世界、その中心に立つ君に――


「プリス様」


 その声に、僕は現実に引き戻される。

 メイドが訝しげに僕を見ていた。


「すまない」


 僕は正気を取り戻し、メイドの後を追う。

 ストリートの入り口まできたとき、もう一度花屋を見た。

 まだ名前も知らない君が僕を見ていた。

 君が淡く微笑む。

 僕はそれにどう応じればいいのかわからず、君を見つめ返すだけだった。

 すると、君はにこやかな笑みを浮かべて、僕から視線をそっと外した。

 数瞬の出来事だ。今まで生きてきた内の何千分の、何万分の一の時間だ。

 その僅かな出来事に、僕は生まれて以来初めて胸の高鳴りを覚えた。

 その夜、僕はなかなか眠れなかった。



×   ×   ×



 僕が目を覚ますと、目の前に亜麻色の川が流れていた。


「おはよう、マリア」


 ベッドから起き上がり、僕のすぐ横で眠る君の頭をやさしくなでる。

 君は寝息も立てずに眠っている。

 僕はベッドに倒れ込むように眠る君をやさしく抱え上げ、眠りやすい態勢に変える。

 触れた君の体は柔らかな熱を帯びている。

 生きている。

 ただ、もう会えない。

 生きている君に会えない。

 頭を持ち上げ、長い髪を梳きながら邪魔にならない位置に流す。


「あぁ、魔女よ」


 僕の口から小さな恨み事が漏れる。


「どうして、マリアに会わせてくれないのですか。どうして、目の前にいるマリアがこれほどまでに遠いのですか」


 魔女よ、魔女よ。

 僕は滔々と黒き言の葉を紡ぐ。

 僕たちにかけられた呪い。

 それを解く術はない。



×   ×   ×



 マーケットで見た花屋の少女。

 僕は君のことが気になって眠れなかった。

 もう一度君に会いたかった。

 いや、会えなくていい。以前の距離から眺めるだけでいい。

 亜麻色の長い髪。あの色が瞳の奥に張り付いて離れない。

 君の姿を思い出すだけで心臓が狂ったように暴れだす。

 屋敷を、この貴族街を抜けだし、君にただ会いたい。

 想いが積もった僕はくだらない手を使い、君に会いに行く手立てを整えた。

 僕は分家の次男坊に影武者を頼んだ。

 彼は僕と同い年で、本家に従順な少年だった。そのため僕の言うことにはなんでも従った。顔こそ似ても似つかないが、声は似ていた。部屋に閉じこもって姿を見せなければ、両親やメイドを騙せると考えたのだ。

 僕と彼は密約を交わした。

 お互いに同じ量の砂が入った砂時計を持つ。砂が落ちきるまでに部屋に戻るというのも条件の一つだ。彼を僕の部屋にずっと縛り付けておくわけにはいかないし、何よりあまりにも長い時間部屋に閉じこもっていれば屋敷の者に不審に思われる。

 その日、僕は初めて一人でマーケットに向かった。


「いってらっしゃいませ、プリス様。ご武運を」


 次男坊は恭しく頭をさげ僕を見送った。別に戦いに行くわけではないのだから

「ご武運を」は余計だと思ったが、それにはあえて触れなかった。

 部屋の窓から屋敷を抜け出す。僕の部屋は幸いにも一階にある。部屋から屋敷を出るのは容易だった。

 裏口から屋敷の敷地を出て、貴族街に身を投じる。この時ばかりは誰も僕に挨拶を交わさなかった。というのも、僕は屋敷の倉庫に眠る庭師用の作業着に身を包んでいたからだ。この恰好を選んだ理由はいくつかある。まず、目深帽が顔を隠す役割を果たすこと。次に装飾は抑えているとはいえ、貴族の格好で君の前に現れれば萎縮させてしまうかもしれないということ。最後に、庭師なら花屋の君に近づくのも不自然ではないと考えた結果だ。

 僕は胸の高鳴りを押さえつけるように呼吸を整えると、マーケットに向かって歩き出した。



 マーケットについた僕はさっそく、ストリートの入り口付近にある君の花屋へ――いや、君の元へ向かった。


「いらっしゃいませ!」


 花屋の前に来た僕を君が元気よく僕を迎えた。

 顔が僅かに紅潮するのを自覚しながら、僕は顔をそらす。


(無視したと思われないだろうか。どうして軽く会釈をするなり、微笑み返すなりができない)


 君を前にしてすっかり緊張してしまった僕は、どうすればいいのかわからず花を選ぶふりをして、棚に飾られている色とりどりの花を見つめる。

 しばらく花を見つめていたことを、君はどの花を買うのか悩んでいると解釈したのか、微笑みを浮かべながら僕に声をかける。


「何かお探しですか?」


「そうですね……」


「どなたに花を贈られるのですか?」


 君の問いかけに僕は迷う。


「友達……いえ、親戚に送るための花を……」


「男性の方ですか? 女性の方ですか?」


「男です」


 君の顔が見たいがために花を買いに来た。

 そんなことを言ってしまえばどうなるかわからない。だから、僕は花を送る気もない次男坊に花を送ることにした。


「それでしたらこちらのお花はいかがでしょうか?」


 君が僕に差し出してきたのは、スカイブルーの花が入った筒だった。


「この花は……?」


「ネモフィラという花です。涼しげな色合いでしょう?」


「えぇ。まるで空の青を花に塗ったようです」


「まぁ、素敵な表現ですね」


 君はくすくすと笑う。その笑みは貴族のようないやらしさはなく、無垢そのものだった。


「それではそれを……十本程度花束にして頂けますか?」


「はい、かしこまりました」


 君がにこやかに応じると、一旦店の中に戻り茎を切り、白いリボンでネモフィラの花束を作った。


「おまたせいたしました。お会計は銅貨が五枚になります」


 僕は君に銅貨を渡す。そして、青い花束を受け取った。

 その時、君の指先が僕の手に触れた。

 心臓が大きく脈打つ。顔が熱くなる。

 そんな心地いいような、恥ずかしいような瞬間は、胸に甘いときめきを残して消えていった。


「またのご来店お待ちしています!」


 君が笑顔で僕を見送る。


(あぁ、このまま別れてしまっては、僕はただのお客となってしまう……)


 そう思った僕はとっさに嘘をついた。

 君についた最初で最後の嘘。


「あの……」


「はい?」


「見ての通り私は庭師なのですが……実は最近庭師の見習いとして雇われたばかりで花について詳しくないのです。よろしければ今度お店に来た時、花について教えていただけませんか?」

 

すると、君は目を丸くして僕を見つめた。

 驚いただろうか。それとも、いきなりこんなことを言われて困っているのだろうか。

 焦燥が僕に逃げてしまえと命じる。

 しかし、僕は手汗で掌を湿らせながら君の返事を待った。


「そうだったんですね! 庭師の格好をされているのにネモフィラをご存じないので、少し不思議だったんです」


 君は苦笑いした。そうか、確かに庭師が花の名も知らないのはおかしい。僕は自分の考えの甘さに羞恥を覚える。ただ、君の不審を解き、次に客以外の存在として君に会えるという意味では僕のこの嘘は冴えた嘘であった。


「いいですよ。夕刻は忙しいですが、陽の高いこれくらいの時間帯なら客足も多くないですし私に教えられることでたら」


「本当ですか?」


「はい! 私もお花のことでおしゃべりできるのなら大歓迎です!」


 君はタンポポのような表情を僕に向けた。

 今度は失敗せずに、君に微笑み返す。

 そして、僕たちはにこやかに別れた。

 これはだいぶ後になって君に聞いた話だが、この時ついた僕の嘘はばれていたらしい。どうも、僕の言葉づかいや所作から平民ではないことを見抜いていたらしいのだ。

 でも、君はこの時、僕の嘘を信じてくれた。

 そのおかげで僕は君に会いに行き話をする口実ができた。

 僕の人生でこんなに素晴らしい日はこれ以上ないだろう。



 それから、僕は三日に一度は分家の次男坊に影武者を頼み君に会いに行った。

 僕が君に会いに行くたびに、君はにこやかに僕を出迎えてくれた。


「こんにちは!」


「こんにちは」


 君は僕が花屋に訪れるたびに、元気ににこやかに僕を迎えてくれた。


「見てください! 今日は珍しいお花が入荷したんです!」


「どれどれ――」


 僕は君に会い、少しずつ距離を縮めていくたびに様々なことを知った。

 君の名前がマリアだということ。

 マリアの歳は僕より一つ下だということ。

 マリアの背丈は思ったよりも低く、そのことを気にしていること。

 この花屋の名前が「あなたに咲く花」だということ。

 マリアが好きな花はカスミソウで、その小さな白い花に自分を重ねていること。

 少し前に不幸な事故で両親が亡くなり、頼れる親戚もいないため天涯孤独の身となり、今は一人で花屋を経営していること。

 マリアの元を訪れるたびに、マリアに近づいた気がした。

 でも、僕は自分のことを君にあまり教えられなかった。

 名前と年齢、マーケットがある城下町からは離れた場所に住んでいること、それくらいしか君に教えられなかった。


(あぁ、僕が公爵家の跡継ぎでなければ……)


 何度も自分の出自を呪った。

 例えば僕がこのマーケットに店を構える家の子供として生まれていれば、そうでなくとも僕が公爵家の一人息子で長男でなければ――どれだけよかったことだろうか。家督を継ぐ立場でなければ、領地と民を守る立場でなければどれだけよかったことか。

 星はなぜ、僕を庶民に、せめて次男にしなかったのか。

 運命を呪う。

 しかし、それでもマリアに会えて話せるだけで、僕はどうしようもないほど満たされた。幸せだった。

 マリアを知りタンポポのような笑顔を見せる君の隣で微笑むことができる日々が、愛おしい。

そんな日々がどれほど幸せだったか、それを知ることができたのは――

悔しいことに魔女が僕たちに中途半端な呪いをかけたからだ。



×   ×   ×  



 目を開けると、ベッドにもたれるように君が眠っていた。


「おはよう」


 君に微笑みかけ、優しく頭をなでる。

 ベッドから降り、君をベッドに寝かせた。

 その時、僕は気がついた。いや、気がついてしまった。

 君の頬に涙の軌跡があることに。


「……泣かなくていいんだよ。マリア」


 袖口でそっと涙を拭く。

 あぁ、マリア。

 君は眠る前に何を思って泣いたのだろうか。

 君は今どんな夢を見ているのだろうか。

 切なさに胸が締め付けられ、息苦しくて、それでも僕は何もできない。


「……魔女」


 君から視線を外し、野薔薇の隙間から見える空を仰ぐ。


「お前を僕は許さない……!」


 君の額にキスをして、野薔薇のドームから出る。

 魔女。

 僕らにこんな呪いをかけてしまった張本人は――

 今どこで、何をしているのだろうか。



×   ×   ×



 マリアと出会い一つの季節が流れた。

 そのころになると、僕たちの関係にほのかに甘い香りが添えられることになった。

 僕は自宅の書斎に入り、片っぱしから植物――花に関する書物を読み勉強に勉強を重ねた。

 そんな僕の熱意に君は応えるように、花について様々なことを教えてくれた。

 いつしか、僕と君の時間にはお茶と菓子が出るようになった。

 紅茶も菓子も貴族の家で育った僕からすれば、お世辞にも上等なものとは言えなかったが、君が淹れた紅茶というだけで、君が焼いたという菓子だけで胸が幸せでいっぱいになり、自然に笑みがあふれた。


「お待たせしました!」


 君が紅茶と菓子を乗せた盆を持ってくる。僕らのお茶の時間はお店の脇にしつらえた小さな丸テーブルと二人掛けの椅子で行われる。陽の高い時間にお客は滅多に来ないが、一切来ないというわけではない。客が来た時でも対応できるように配慮してあるのだ。


「今日はローズヒップにスコーンです!」


 君が僕の前に僅かな装飾が施されたティーカップとスコーンの置かれた小皿を並べる。カップの中の紅茶は僅かにピンクのような色合いが混ざり、薔薇の花弁が浮いていた。


「ありがとうございます。では、いただきます」


「はい、どうぞ!」

 君にお礼を言ってから紅茶を一口に含む。花を突き抜ける薔薇の華やかな香り。口に残るローズヒップ特有の酸味。それをメープルシロップのかかったスコーンでゆっくりと喉へと流す。


「おいしいです」


 僕が微笑み、感想を伝えると君は眩しい笑顔を見せる。


「ありがとうございます! プリスさんにそう言ってもらえると嬉しいです!」


 君も紅茶を飲み、スコーンを食べる。その横顔は幸せそうだ。

 僕は早いうちに渡してしまおうと、先日から準備していたものを懐から取り出した。


「あの、マリアさん」


「はい、なんでしょう?」


「よろしければ受け取ってくれませんか?」


 僕が渡したのは綺麗な造花のついた髪飾りだった。

 手のひらに乗ったそれを君は恐る恐る手に取る。


「これを……私にですか?」


「はい」


「どうして……?」


「マリアさんには普段からお花のことでお世話になっています。ほんの気持ちです」


 受け取っていただけますか?

 僕が再度問うと君は頷き、そっと髪に髪飾りをつけた。


「に、似あいますか……?」


 不安げに僕を見上げてくる。


「えぇ、とても。かわいらしいです」


 僕が素直な気持ちを述べると、君はぽかんと僕を見つめた。

 すると、次の瞬間には頬を赤く染め僕に背を向けた。


「あ、ありがとう……ございます……」


 君は亜麻色の髪の隙間から除く耳を真っ赤にしている。


「あの……」


声をかけると、君は僕をちらっと見た後で再び顔をそらした。


(かわいらしい方だ)


 僕は再び紅茶に口をつけた。



 髪飾りを渡した日から僕たちの距離は急速に縮まっていった。

 互いに敬語を使わなくなり、名前も気安く呼び合うようになった。


「こんにちはプリス!」


「こんにちはマリア」


 僕が君のもとを訪れると花が咲いたような笑顔を見せる。僕もそれにこたえるように笑顔になる。

 紅茶を飲み、菓子を食べ、花についての話をする。

 なんでもないささやかな日常の一コマ。三日に一度の、砂時計の砂が落ち切るまでのひと時。

 僕があの息苦しい貴族街で求めたささやかな幸せ。

 それがここにはあった。


「あのね、プリス。渡したいものがあるんだ」


「渡したいもの?」


「うん! この前この髪飾りくれたでしょ? だからお返し!」


 君は髪につけた造花の髪飾りに触れる。その指先は細くしなやかで、折れてしまいそうなほど儚い。

 君は一度お店の奥へ。しばらくしてから、体の後ろに何かを隠すようにして現れた。

 にやにやと笑いながら現れた君は僕の目の前までやってくると、ばっと隠していたものを差し出した。

 目の前に現れたのは、ピンク色のチューリップの花束だった。


「これは……」


「ねぇ、プリス……」


 わかるよね?


「……うん」


 マリアが囁いた。僕はそれに頷く。

 意味は分かっていた。そうでなければ、君はこんなに顔を紅潮させ不安と緊張が混ざった表情をしないだろうから。

 でも――


「マリア。少しだけ待ってくれないか?」


 かっこいい返事がしたいんだ。

 半分本音と半分偽りを君にぶつける。偽りの部分が気付かれないように。


「……うん。わかった」


 僕はすっかり冷めてしまった紅茶を飲み干すと、今日は帰ると言い君に背を向けた。

 君は寂しげな顔で僕に手を振った。

 チューリップの花言葉は「愛の告白」

 植物図鑑で何度も見かけた言葉。そして、君が花と共に告白を考えている客に必ず薦めるという花。


(マリア……僕も君のことが好きだ)


 帰り道、君への思いが溢れて、どうにかなりそうだった。

 マリアのことは好きだ。いや、大好きだ。

 しかし、僕は公爵家の長兄で許嫁もいる。

 そのことを君に説明する必要があった。



 次の日の夜。僕は屋敷の者が寝静まった夜に屋敷を抜け出した。

 なるべく人目につかない道を選び、マーケットを目指す。

 夜も深いというのにまだにぎわっているストリートを横目に、君の花屋にたどり着く。当然だが、店はもう閉まっていた。

 目立たないように、店の裏口のドアをノックする。

 しばらくして君が出てくる。


「こんな時間にごめん……」


「プリス? どうしたのその恰好……?」


 寝間着姿の君は昼間と同じ美しさだった。

 君は貴族の衣装に身を包んだ僕を見て驚いている。


「マリア、君にどうしても伝えなければならないことがある」


 そういうと、マリアは少し悩んでから、僕を家の中へ入れた。

 君の家は質素で調度品はなく、家具も最低限のものだけしかなかった。その代り花瓶に活けられた様々な花が木目調の空間に彩を添えていた。

 マリアは僕を四人掛けのテーブルに座らせる。君と向き合った僕はまず謝った。


「今まで騙していてすまなかった。僕は貴族なんだ」


 頭を下げ、誠心誠意、君に謝罪をする。


「…………」


 君は何も言わない。


「この国のとある公爵家の長兄で家督を継ぐ立場にある。許嫁もいてあと半年もすれば、結婚する予定になっている」


 僕は一度息を吐き、体の中から緊張を追い出した。

 そして、素直な想いを伝えた。


「でも、君が僕の隣にいるのなら、そんなものはすべて投げ出したい」


 今日二回目となる驚いた表情を君は見せた。


「これからどうなるかなんて僕にもわからない。つらく苦しい未来が待つかもしれない。貴族として暮らすことを君に要求することになるかもしれない。二人で花屋を営むことになるかもしれない。どうなるかはわからない」


 それでも良ければ――

 僕は君の左手に淡く口づけをした。


「共に生きてほしい」


 君の瞳から涙が一粒頬を伝って落ちた。


「よかった……断られるかと思って……」


 泣きながら、それでも君は笑ってこう言った。


「プリスと一緒なら、この先何があっても幸せだよ。私もあなたが隣にいるのならすべてを失ってもいい。プリス、あなたのことが――」


 涙を拭いて、君は最高の笑みを浮かべて――


「大好きです」


 君の暖かな手が僕の首に回される。

 ぐっと上半身が引き寄せられ、君と僕の唇が触れ合う。

 頭の中が真っ白になる。苦しい。それでも、君は/僕は唇を離そうとはしなかった。

 甘く、そして少しすっぱく苦い幸せが心を、体を駆け巡る。

 この時の僕らの中にあったのは、幸せと、これからどうなるのかという不安だけだった。

 とてもではないが、魔女に呪われる未来なんて想像できなかった。



×   ×   ×



 目を覚ます。

 僕の隣には君がいる。


(あぁ……あの時望んだことなのに……)


 君が隣にいればいい。

 君に出会い、恋して、想いが通じあってからあれほど望んでいたこと。

 それは叶った。なのに、君は僕と同じ時間に目覚めることはない。

 隣にいるのに、君は果てしなく遠い。

 魔女の呪いによる眠りは、僕たちを――

 壊した。

 君をベッドに寝かせてドームから出る。

 魔の森は闇に覆われていた。

 空には満点の星が輝き、花畑を夜色に染め上げていた。


「プリスよ」


 名前を呼ばれる。振り向くと、そこには仇敵がいた。


「魔女……!」


 黒い外套に身を包み、先がとがった帽子をかぶる女性。見た目からは年齢が判別できないその姿はまさに魔女だった。


「すべて伝える」


「……何?」


「この呪いをかけた理由だ」


 魔女が口を開く――



×   ×   ×



 僕と君の恋物語は早速困難を極めた。

 僕は両親に全てを打ち明けた。

 一般人に想い人ができたこと。

 想い人の――マリアと交際をしたいこと。

 許嫁との結婚の約束をなかったことにしてほしいこと。

 マリアを――将来的に妻として迎い入れたいこと。

 全て話した。

 僕のマリアに対する想いを。

 屋敷の二階、父親の執務室で全てを語った。


「それが、お前の望みか?」


 重厚な輝きを放つ椅子に座る父親が問う。母親は静かに僕を見つめているだけだ。


「はい」


 父親を真っ直ぐ見詰めて頷く。

 しかし、当然――父親は首を縦に振ることはなかった。


「お前は自らの立場が分かっているのか?」


「……はい」


「理解していてなおそのようなことを言うのか?」


「はい」


「プリス。公爵家の長兄――一人息子として生まれた時点で、お前はお前一人のも

のではないのだ」


 父親は億劫そうに立ち上がると、溜息をついて窓際へ移動した。そして、窓の外に広がる貴族街を見つめていう。


「公爵という地位を継ぐ立場に生まれた者は、領地を、人を、財産を、全てを守る必要がある。そして、可能ならば守るものを増やす必要がある。利益を生み、損をさせない、しない義務がある。その町娘と結婚して、何が守れ、何が生まれるのだ?」


「……少なくとも、許嫁と結婚するより僕は幸せです」


「お前は自分一人の幸せのために領地に暮らす全ての人を不幸にするのか?」

 父親は冷たく僕を見つめたまま、現実を紡ぐ。


「許嫁の娘もお前のことを好いている。お前は彼女の気持ちを裏切るのか? 家柄の良い者と結婚することで生まれる利益を捨て、利益を期待している領民を裏切るというのか?」


 そして何より私たちの期待を裏切るのか?

 父親は椅子に戻り、母親に目配せをした。

 こんなことになるのはわかっていた。

 全てを捨てなければ、マリアと共に生きれないことなど。

 でも、何より僕はマリア――君のことが大切だった。


「マリアが隣にいればいい。ただ、それだけだ」


 両親の目を射抜くように見つめて、反応を窺う。

 母親は僕の決意に驚いていた。

 父親は何も言わなかった。

 僕は身をひるがえし、執務室から出た。



 そこからの僕の行動は迅速だった。

 自分の部屋に戻ると、次男坊に手配させておいた旅の荷物を持ち屋敷を後にした。

 陽の高い、いつもの時間に君の花屋に向かう。

 店の前で客を呼び込んでいた君が僕に気付く。

 目が合う。

 君は全てを悟ったように微笑んだ。

 何も言わずに軒先にかかる看板を裏返す。

 家の中に僕を招き入れる。


「少し待っててね」


 君がウインクをした。しばらくして、君は一抱えほどの荷物を持って僕の前に現れた。

 言葉はなかった。

左手と右手がじれったく惹かれあい、繋がる。僕らは外の世界へ飛び出した。

 このとき、僕は知る由もなかった。

 父親がこうなればと分家の長男に家督を継がせ――

 僕を亡き者にしようとしていることなど。



 僕らは王国を旅した。

 幸いなことに僕には有り余るほどのお金があった。しばらくの間は馬車や船に乗って遠くに行くことも、衣食住に困ることもなかった。

 山を越え、川を渡り、遠くへ、遠くへ。

 二人の恋路が誰にも邪魔されない場所へ。

 僕らはいつも手をつなぎ、不器用に想いを確かめあった。

 君の手は温かく、柔らかで、僕の不安を消し去ってくれた。

 僕の手も君の不安を消し去っていればと思う。君を幸せにしていればいいと思う。

 そんなことを願いながら、旅の日々は過ぎて行った。



 二か月に及ぶ旅の果てに辿り着いたのは王国の最北端にある町だった。

 そこは石畳とレンガ造りの家が広がる美しい町だった。

 僕と君はすっかりその町を気に入り、ここで暮らすことにした。

 僕たちは小さな部屋を借りた。

僕は町の食堂で、君は花屋で働き細々と生計を立てた。実家を出てくるときにそれなりにお金を持ってきていたが、長旅の末に残りは少なくなっていた。働かなければ生きてはいけない。君を不幸にしてしまう。君が僕の隣からいなくなってしまう。その想いが体を動かした。

働いて、君と語り、ご飯を食べて、想いを伝える。そんな日々が二週間続いた。



 朝起きて、君と一緒に食事を食べる。パンとスープだけの質素な朝食。そんな朝食でも、君と一緒に食べればどんな高級食材を使った料理より美味しかった。


「「いただきます」」


 二人で手を合わせる。

 朝の会話は大抵、昨日僕が働く食堂に、君が働く花屋に、訪れた客の話だ。

 ものすごく大食いの客がいて、いつも大食い勝負をしては勝利を収める老人の話。

 一週間に一度カスミソウの花束を奥さんのために買っていく、結婚したばかりの警備兵の男性のこと。

 そんなことを話して笑いあう。でも、女性客の話をすると困ったことに君はすぐに不機嫌になるからそれだけはしないことにしている。

 でも、ときどき君が頬を膨らませる可愛い顔を見たくて意地悪をしてしまう。


「そういえば昨日酒場に踊り子の女性客が来たんだ」


 君がパンを食べる手を止める。


「その子がさ、踊りを披露してくれて――」


「むぅー」


 早速、君が右頬を膨らませる。


「その踊りがさ、南の国の――」


「むぅー!」


 左頬も膨らんだ。両方のほっぺたを膨らませた君はまるでリスのようで、思わず笑みがこぼれた。


「ごめん、ごめん」


 苦笑いしながら僕が謝ると、


「好きな女の子の前で他の女の子の話なんてしないでよ!」


 わざとらしく怒ってそっぽを向いた。


「大丈夫だよ。僕が好きなのはマリアだけだよ」


「……本当?」


「本当だよ。大好きだよ」


「もう一回」


「えっ?」


「もう一回……その、好きって……」


 僕に向き直り、上目づかいに、少し恥ずかしそうに君が請う。


「大好きだよ、マリア」


 そう言って微笑むと、君は満開の笑顔で笑った。


「えへへ……私も大好きだよプリス!」


 でも――君は続ける。


「それだけじゃ許してあげないっ!」


「えー……どうすれば許してくれますか? 姫?」


 少しおどけてみる。


「あーんってしてくれたら許してあげる!」


「わかったよ」


 わがままなお姫様だなと、そんなことを思いながら一口サイズにパンをちぎり君の口の前に持っていく。


「はい、あーん」


「あーん」


 ひょいと小さな口がパンを啄ばむ。

 満足そうな顔でパンを咀嚼して飲み下すと、君は魔法にかけられたみたいに元通りの笑顔になった。

 そんな楽しい食事を終えると、僕たちは仕事に向かう。

 部屋を出て町へ。石畳を軽快なリズムで叩いて歩く君とはぐれないように、仕事や学校に向かう人々の間を縫って歩く。

 そして、町の中央にある噴水広場で君と別れる。


「それじゃ」


「うん! 美味しいご飯作って待ってるね!」


 仕事を終えて、家に帰るのは君の方が少し早かった。なので、夜の食事は大体君の作ったものだった。

 お昼ご飯もまだなのに、君の作る夜ご飯を想像しながら職場へ向かう。

 しばらく歩くと、この街では珍しい木組みの平屋に辿り着く。そこが僕の働く食堂だった。僕はここで朝から陽が暮れるまで料理を運んだり、飲み物を注いだりという仕事をする。決して楽な仕事でも、元貴族という糧を活かせる仕事でもなかったが店主や他の店員も世間知らずの僕に優しく、訪れる客も穏やかだった。

 お昼時の忙しさが過ぎ、遅めの昼食を食べにやってくる人が疎らに居座るだけとなった食堂で、僕は店主が作ってくれた賄いを食べる。従業員は客の少なくなった時間に交代で昼食を食べることになっているのだ。


「なぁなぁ、聖夜祭を知ってるか?」


 突然、僕の目の前に腰を降ろし話題を振ってきたのは、いつも酔っ払っているこの店の常連たる壮年の男性だった。


「聖夜祭?」


「なんだしらねーのか? この町に来たばかりじゃ仕方ねーけどな」


 カカカッと喉を鳴らすように笑うと、男性は僕に大げさな手振りを交えて聖夜祭について語った。


「聖夜祭つーのは、かつてこの町を苦しめた魔女を倒した英雄を讃えるための祭りで、その日は朝から夜まで飲んだり食ったり踊ったりのドンチャン騒ぎをするわけよ! 出店もたくさん出てな、子供から老人までみーんな笑顔になれる!」


「へぇー……楽しそうですね」


「だろ? それにその日は貴重な酒も安く飲めてな、本当に最高な一日ってわけよ!」


「お前はいつも飲んでるだろ?」


 調理場の方から店主が鋭い指摘をする。


「そりゃそうだ! ハハハッ!」


 男性は大きな口を開けて笑うと、元いた席に戻っていった。


(聖夜祭……お祭りか……)


 マリアの笑顔がよぎる。一緒に行けたら楽しいだろう。そんなことを考えながら、食事を終え厨房に食器を返しに行くと、寒い地域にも関わらず浅黒く焼けた肌を持つ巨躯の店主が、僕を見て一言。


「行きてーんだろ、聖夜祭?」


「えっ?」


「あの可愛い恋人と行けばいい」


「ど、どうしてマリアのこと?」


「いつも噴水の前で別れて店に来るだろ? みんな知ってんだよ」


 店主が他の従業員に目配せすると、苦笑いや羨望の眼差しが僕に向けられた。その反応に情けないことに頬が熱くなる。


「聖夜祭は一週間後だ。それまでしっかり働けよ!」


 店主が力強く背中を叩く。


「はい!」


 嬉しくてしかなくて、僕はその後いつもの倍元気よく働いた。



 家に帰ると、君が夕食を作りながら待っていた。


「おかえり!」


「ただいま」


「もうできるから待っててね」


「うん」


 席につき料理をする君を眺める。夕飯はすぐに運ばれて来た。僕の前に並んだの

は堅焼きのパンと白身魚を衣で包んで油で揚げたもの。それに塩味の野菜のスープ。特別なものは何一つなかったが、これから話すことが食卓に彩りを添えるだろう。


「聖夜祭?」


「うん。一週間後、この町で行われるんだって」


「へぇー……」


 君は僕がこれから言おうとしたことを察したみたいだ。ニヤニヤ笑いながら僕に続きを促してくる。僕はそれに少し困った顔をしてみせた。


「聖夜祭の日、一緒にデートに行きませんか?」


「はい! 喜んで!」


 弾ける笑顔を見せる君に、僕も笑顔を返す。

 実を言うと旅ばかりで、君とちゃんとデートなんてしたことはなかった。

 だから、一週間後の聖夜祭の日は、君のことを好きになった時の気持ちを思い出してもう一度、もう何度も伝えた好きを伝えようと思っていた。

 でも、それは叶わなかった。



 一週間後。

 待ちに待った聖夜祭を迎えた。

 町は朝から大いに盛り上がり、部屋の中にいても奏でられる楽器の音色が、楽しげに笑いあい語らいあう人々の声が聞こえてくる。それが僕の鼓膜を震わせるだけで、地に足がつかなくなるような、ふわふわとした楽しい気分になる。


「行こうか?」


「うんっ!」


 ずっと旅をしてきたせいで二人ともお洒落などできなかったが、お祭りで何かを買って君にプレゼント出来ればいいと思った。

 扉を開け外へ。

 もう、何回、何十回と繰り返した行為。それを妨げる存在がいた。

 黒衣をまとった人物がそこにいた。


「どなたですか……?」


 君が尋ねた瞬間、僕たち二人を白い靄が襲った。靄はまるで生きているかのように、僕の口の穴、鼻の穴から体の中へ侵入する。

 意識が遠のく。


「ま……りあ……」

 君に必死で手を伸ばす。

 ぼやけた視界に写る膝から力なく崩れゆくマリア。

 それが、僕が最後に見たマリアが起きている姿だった。



 すっかり陽が落ちる頃になって僕は目を覚ました。

 君は、黒衣の人物はいなかった。

 代わりに一枚の紙片が落ちていた。


『魔の森に来い』


 僕は紙片を拾い上げ、書いてある文字を読むと、それを握りしめ、走り出した。

 魔の森はこの町から西へしばらく行ったところにある。魔女が住むと噂される場所だ。

 祭りの後のまだ冷めやまない興奮に満ちた町を走り抜ける。

 街道を超え、未開拓の平野に入り、魔の森へ。

 木をかき分け、傷らだけになりながら、獣一匹寄りつかない森をでたらめに走る。

 そして、野薔薇で作られたドームに辿り着く。

 静かに眠る君を見つけた。


「マリア!」


 君の名前を呼ぶ。

 仰向けに倒れる君を抱きしめる。息はあった。心臓は動いていた。

 そのことに僕はひどく安心して、泣きそうになる。

 そこに、魔女は現れた。

 そして、淡々と告げた。


「お前らにかけた呪いは口づけをすると口づけを受けた方が目覚め、口づけをした方が眠る呪いだ。そして眠っている者は魔の森から離れられない。」


 それだけ言い残すと、魔女は黒い靄となり、霧散した。

 僕は、魔女のかけた呪いの本当の辛さに気がつくのにひどく時間がかかった。

 


×   ×   ×



「呪いをかけた理由だと……?」

 魔女と会うのはあの日――呪いの効力を説明されたあの日以来だ。

 久しぶりに見た魔女の姿に、僕は怒りを抑えられなかった。

 僕とマリアの繋がりを決定的に断った彼女に、どうやったら途方もない怒りを抑えられるだろうか。


「そうだ。知りたいだろう?」


「なぜだ! なぜ僕たちにこのような呪いを!」


 耐えきれず僕は叫んで魔女を睨みつけた。


「貴様の父親に頼まれたのだ」


「……えっ」


「お前が家を捨てたとなると後継ぎは分家の長男しかいなかった。しかし、お前が生きていると家督を継がせることはできない」


 だから、お前を亡きものにする必要があった。


「ならば、僕を殺せばよかっただろう! なぜ、なぜこんな呪いをかける!」


「慈悲だ」


「慈悲……だと?」


「お前と娘に対するな」


 魔女は茨のドームを一瞥した。


「お前たちの、互いを想いあう心に、私は感動した。だから――」


 娘が悲しまないように、お前を殺さずに済むように呪いをかけた。


「呪いをかけられるということは死んだも同然だ。貴様の父親の任務を果たせるうえ、お前を殺し、娘との仲を切り裂くようなこともない」


 魔女は笑った。


「ふざけるな! そんなことをしても誰も幸せにはならない!」


 僕は魔女を突き飛ばした。


「消えろ! 二度と僕たちの前に現れるな!」


 僕は魔女を拒絶した。

 魔女は僕をしばらく見つめると、黒い靄になって消えた。

 呪いの真実なんてどうでもよかった。

 ただ、僕は君と笑って、これからずっと――

 涙が一粒零れ落ちる。

 風にあおられた水滴は月光を反射して夜に消えた。



×   ×   ×



 私は深い森の中で魔法を解きました。

 おとぎ話に出てくる魔女の格好。変身の術で作りあげた黒い外套、先のとがった帽子がかき消え、元の無垢な少女の姿に戻ります。


「ただ、守りたかっただけなのに……」


 呟くと悲しくなりました。

 身分の差を乗り越えて、素敵な恋をして、愛し合うことを決めた二人。

 そんな幸せな二人の仲を引き裂こうとしたプリスのお父様。

 プリスのお父様は――プリスを殺すことを私に命じました。

 私はプリスを殺すことなんてしたくはありませんでした。ずっとマリアと二人で笑っていてほしかったです。

でも、私の生殺与奪権はプリスのお父様が握っています。逆らえば殺されてしまいます。

プリスを殺さずに、私も殺されずに済むように一生懸命考えた結果があの呪いでした。

呪いをかけたと言えば、プリスのお父様の命令は果たせます。この世界では呪いは死と同意義なのです。それに、キスの呪いならプリスとマリアを引き裂くことにはなりません。とても、とても冴えたやり方だと思いました。

 でも――


「プリスは喜んでくれませんでした……」


 私は、冴えたやり方を選択しただけなのに、それなのに失敗してしまいました。これまでも、何度も何度も失敗してきました。でも、こんなに悲しいのはこれが初めてです。

 悲しいのに、もっと悲しんでいる人がいると思うとうまく泣けませんでした。

 私はできそこないの魔法使いです。

 何度も何度も頭の中でその言葉を繰り返して、自分を呪いました。

 誰も幸せにできない私は誰よりも悲しかったです。


×   ×   ×


 僕は君にキスをして――

 君は僕にキスをして――

 繰り返す。

 永遠に。

 キスの呪いを。

〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こうして二人は永遠にキスをし続けました。 夏鎖 @natusa_meu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ