咲く

逃ゲ水

 何故?と問われれば、分からないと答えるしかない。


 自分自身でも分からないけれど、僕はマンションの屋上、フェンスを越えた僅か数センチのへりに立ち、頬に冬の訪れを感じていた。

 僕は、おそらく死のうとしていた。

 靴はフェンスの向こうに残してきた。遺書はない。自分でも何故死ぬのか分からないのに、誰かに向けて書き残せることなどなかった。

 両親や友達の顔は、浮かんではこなかった。誰も僕を辛い目に合わせたりはしていない。僕も誰かを恨んだりはしていない。僕は何かから逃げるためでも、何かを訴えるためでもなく、それでも死のうとしていた。

 きっと、理由はない。だからこそ死ぬ。


 僕はこの世界に何も意味を見出すことができなかった。同様にこの世界も僕に対して意味を見つけられなかったのだろう。

 存在しても無意味なら、消えた方が完全に無意味になれる。

 そんな気分だったのかもしれない。


 ここは10階建てのマンションの屋上。ここから落ちたら、まず間違いなく死ぬ。

フェンスに絡ませていた指を解いていく。

 親指、人差し指、中指……薬指……………………小指。

 もう、手のひらの摩擦だけが僕の命綱だった。

 この手を浮かせれば、数センチのへりに僕を支えきる力はない。僕はゆっくりと倒れていき、そして地面に花を咲かせる。赤い花だ。きっと歪なその花こそが、僕の残した一つのものになる。その花すらも洗い流された時、僕は完全にこの世から消え去る。


 そして、手を浮かせた。

 その瞬間に、手が掴まれた。


「その命、売ってくれないかしら」

 振り返った僕が見たのは、今まで活発に動いたことのない僕の心が揺り動かされるほどの、美しい人だった。



「命を、あなたが、買うんですか?」

 突然のことに、僕は間抜けのような声で答えた。

 それに対して、女の人は美しく、そして何かを企むような静かな笑顔で言った。

「私は命が欲しいの。だから貴方が今捨てようとしている命を、私に譲って欲しいのよ」

 静謐で妖艶な声は、僕がまさに死の瀬戸際に立っていることを忘れさせるかのように、優しく耳に響いた。

 どうだろう。僕は自分に問い掛けた。僕は、死にたかった訳ではない。だったら、命を売ってもいいんじゃないだろうか。売るというのがどういう意味なのかはまるで分からないけれど。

「分かりました、いいですよ。僕の命、あなたに売ります」

 僕がそう答えると、女の人は綺麗な顔に驚きと喜びの色を浮かべた。とても美しい顔だ。

「嬉しいわ。ではまずはこちらに来て頂戴。大切な命を落とさないようにね」

 僕は、言われるままにフェンスを乗り越えて、そのまま女の人の前まで歩いた。

すると、女の人の手が僕の顔に伸ばされた。血が通っていないかのように白く美しい指が、僕の頬に触れた。

「あなたは、僕の命で何をするんですか?」

 いつの間にか、僕はそう尋ねていた。それほど知りたいことではなかったのだけれど。

 すると、女の人は遠くを見るような目で僕を見た。

「私は、花を咲かせたいの」

「花、ですか」

 僕は、脳裏に僕の命が咲かせるはずだった花を思い描いた。けれど、この人が咲かせる花はもっと美しいだろうという感じがした。

「そう。花が咲くには命が必要なの。それも多くの可能性を秘めた命が」

 そして僕は思った。この人は僕を通してその花を見ているのだと。そしてきっとその花は美しい。何よりも。

 そんな花になれるのならば、この上ない幸せだろう。

「いいですよ。僕の命でよければ」

 そう僕が言うと、女の人の目は遠くの花から僕の顔に戻ってきた。そして、美しく微笑んだ。

「ありがとう。それではこれを持って」

 そう僕に手渡されたのは、軽い石ころのような玉だった。乾いてゴツゴツとした表面からはそれが何か特別なものには見えなかった。

「これは?」

「これは、花の種。命を糧に花を咲かせるの」

 けれど、そう言う女の人の顔は、悲しそうだった。

「駄目だわ。まだ貴方に何か残っているのね」

 悲しげなその顔を見ていると、僕の胸はひどく疼いた。心臓が石になったような気持ちだった。

「僕は、どうすれば……」

「今、貴方の心の中にあるものを、教えて頂戴」

 藁にもすがるような女の人の声に、石になった心臓が震えた。


「あなたが、います」


 僕の言葉が女の人に届いた瞬間、美しい顔の上で喜びと悲しみが交じり合って弾けた。

「そう……そうだったのね」

 そして僕に向けられた笑顔は、凄絶なものだった。

 笑う顔はとても美しく、流れる涙はとても綺麗だった。

 その顔で僕を見つめながら、彼女は別れを告げた。

「それじゃあ、花を咲かせてね」

 そう言うと、女の人はフェンスに手を掛けてひらりと飛び越えた。

 そして僕に背を向けたまま、ゆっくりと倒れていき、見えなくなった。


 僕は、歩けなかった。

 彼女の後を追いたかった。この世界で初めて見つけた美しいものの近くに、死にたかった。

 だけど、それはできなかった。

 僕は膝を着き、手のひらに転がる干からびた種を見つめた。

 彼女は、多くの可能性を秘めた命が必要だと言った。つまり、僕の心に彼女がいては花は咲かないのだ。

 右目から一筋、熱い涙が零れた。

 雫は彼女が触れた頬を洗い、干からびた種に落ちた。

 左目からも、血のような涙が零れ、種に降り注いだ。


 僕は、彼女が咲かせただろう花を思った。

 美しい彼女が咲かせた花は、それでもやはり歪だったろう。

 今や、彼女の美しさはこの種の中、僕の命を糧に咲く花にしかない。

 そして僕はその花を咲かせるために、彼女を忘れなければならない。

 僕も彼女も、その花を見届けることはできない。けれど、僕は花を咲かせなければならないのだ。

 それが僕の生きる意味で、僕の死ぬ意味だ。


 涙で濡れた種を胸に抱いて、僕はうずくまった。

 もう涙は流れない。

 いつしか、体を撫でる風が止んでいた。

 僕は手の中の種を固く握り、ひたすらにここに咲く美しい花を思い描いた。

 それが誰のためであるかを忘れ、頭に浮かぶ誰かを掻き消し、その意味すらも忘れ去った。

 ただ、美しい花を描き続けた。



 10階建てのマンションの屋上、日が暮れて寒風吹き荒ぶそこには、一足の靴と、赤い大きな花があった。

 数メートルに達する大輪の花は、見る者がいればその心を狂わせるほどに美しかった。

 しかし、花は誰の目にも映ることなく咲き、そして一晩のうちに散った。


 後には乾いてゴツゴツとした玉が一つだけ落ちていた。

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咲く 逃ゲ水 @nige-mizu

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