次の日の嘘。
望月和哉
坐礁
「全てを亡くして、残ったものは嘘だった。」
死のうとして向かった先は青森県だった。
自死のイメージが酷く冷えるところであるとか、海の見えるところであるとか、そういった考えから出た行動だと思う。
東京からの新幹線で見える景色はだんだんと低く、そして時間とともに暗くなっていった。
八戸に着いたのは夜の7時半過ぎ、僕が想像していた場所とは程遠い優しい灯りのついた街がそこには広がっていた。
「死にそびれたかな」ふとそう思った、怖くなったわけじゃない、場所を間違えてタイミングを逃したのだと言い聞かせて手ぶらのまま宿を探す。よく考えれば死ぬ方法すらも考えず飛び出してきたんだった。
ひたすらに日々を孤独に消化して記憶のない7日のセットを捨てていくことに疲れを感じて部屋着のまま新幹線のチケットを買ったのだ。
時計も携帯電話も家に置いてきた、遺書なんて立派なものではないけど誰もいない部屋のテーブルに簡単な書き置きは残した、きっと誰かが見つけることだろう。
そうしてるうちに駅からしばらく歩いた先にある古いビジネスホテルにたどり着いていた。こんなホテル普段なら使おうとも思わないけれど今日ばかしは話が違う、どうせ最後なのだからなにも気にする必要などないのだ。
誰もいないフロントには呼び鈴が小さく肩を窄めて待っていた。控えめに彼を鳴らすと奥から目元に深く皺の入った老婆が出てきた。
「ご宿泊ですか?」彼女は乾いた唇を小さく開け僕に問いかける。「いまからで大丈夫ですか?、予約とかはしてないんですけど…」
「大丈夫ですよ、一泊でよろしいですか?」「ええ、たぶん。」
思わず出た曖昧な言葉だった、なにしろ僕にはこの先に予定などないのだから。
「承知いたしました、三階の奥の302号室にどうぞ、お荷物は?」そう聞かれ僕は思わず自分の手を見る、そうだった、なにも持っていない。僕は死にに来たはずだったのだ。「いえ、大丈夫です。それじゃどうも。」
扉を開けて待っていた場所は外観からは想像できないような小綺麗なヨーロッパ調の部屋だった。壁こそはタバコのヤニで黄色く変わっているが、小さな窓や綺麗に整頓された種々の小物たちはその居心地の良さを演出してくれていた。窓を開けてみる。冷たい風が部屋を吹き抜けてここが日本の、極東の地の北に位置していることを思い出させる。夜は一層更け、街は光を無くし始めている。
少し火照った体を冷ますのには丁度良い夜風だ、ちょっとだけベッドに腰を下ろして虚空を見つめる。思い出さなくて良いありとあらゆることが優しい灯りの中で鮮明に映し出されていく。
僕はなにを望んでいるのだろう。覚めることのない夢に追われ、感情の渦が足を引っ張る。忘れていった筈の人々が澱んだ目で僕に繰り返し繰り返し問いかける。 ”なぜ生きているの?”
朝だった。
暖かな日差しが部屋を包み込み、宙を舞う埃がキラキラと光っていた。なぜだかそれが僕を酷く孤独に、惨めにさせた。憂鬱な気分とは裏腹に1日は今日も鮮やかに産声を上げてしまっていた。
…いくら死にたくても、孤独でも惨めでも昨日の朝から何も食っていなければ腹は減るものだ。生きていくことを思考が拒んでも身体は今日を、明日を生きていくことを望んでいる。別に今すぐに死ぬこともないしこのまま空腹に苦しんで死ぬこともない、とにかく外に出てみよう。
外に出てみると磯の香りが微かにする。
海を望むこの街では朝早くから市場の活気あふれる人の声が飛び交っていた。よく考えたら今まで一度も市場というところに足を踏み入れたことがなかった、山間の小さな町で生まれ、そこで育ち、大学、就職と上京こそはしたもののこんなにも近くで海をちゃんと見たことも市場というものに近くで触れたこともなかった。そこは文字通り全く知らない世界だった。不思議なものだ、新しいこと、進むことをやめようとした途端にこの世界は新しく鮮やかな景色を見せてくれる。
小さな食堂に入ってみる、早朝だというのになんとも賑やかな空気だ。注文を済ませ朝食にありついていると隣に座っていた中年の男性が話しかけてくる、服装を見るとどうやらこの市場に来ている漁師のようだ。「あんた見ね顔だなぁ、どっからきたの?」
「東京からです。」
「へぇ、おやすみかなんかかい?」
「まあ、そんなとこですかね。」
なんとも答えづらいことをずかずかと聞いてくるもんだ。どんな顔をして良いのかわからなくなる。
「そうかぁ、まあなんにしろ若いってのは良いもんだなぁ、うまいもん食って楽しくやれや、生きてりゃなんでも良いことあるもんよ。」
”生きてれば良いことがある” 今の僕にはあまりに突き刺さる言葉だった。返す言葉が出てこない、返事がしどろもどろになる。
「あ、はい、ありがとう…ございます。」
会計はその男性が済ませてくれたようだ。会釈と少ない感謝の言葉を済ませ店を出る。
本当は迎えるはずのなかった僕の新しい1日目が始まる。暮らしの中で坐礁した”僕”にゆっくりと沈んでいくための時間が。
時計の針が10時半を指す頃、僕は再びホテルの部屋にいた。もうそろそろチェックアウトの時間だ、どうするべきだろうか。預金がないわけではない、暫くここにいてゆっくり終わりを迎えるのも悪くない。
でも思ってしまう、 新しい表情を見せはじめたこの世界をもっと見てみたい。
チェックアウトを済ませた僕は青森県の端の駅、蟹田で青函トンネルを抜ける電車を待っていた。女々しいのはわかっていた、迷いのせいにして曖昧を弄んでいる自分を悔いながら恐怖に背を向けていることも。
風が吹いた、青い列車が項垂れる僕を連れて行くためにその口を開けていた。
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