期間限定幽霊彼女

大場鳩太郎

第1話

「やあ少年、プールの水が気持ちいいね」

「嘘ばっかり。先輩は何も感じないでしょう」

「こういうのは気持ちの問題なのさ」


 いつものように先輩が、靴下を脱いでプールサイドに腰掛けている。

 時折、水のなかに踝まで突っ込んだ素足を蹴ってみせるけれど、水飛沫が散ることは、決してないし水面も波たつこともない。


 それはそうだ。

 何故なら彼女には実体がない。

 彼女は夏場の学校内を彷徨う、幽霊なのだから。


 遡れば去年の夏のこと。

 頭の出来がよろしくない僕は、現国英語数学科学日本史地理と全教科補習を受けるはめになり、貴重な休暇を、入れ替わり立ち替わりする教師とのワンツーマンに費やすことになってしまった。


 茹だるような猛暑の中、そんなことの為だけに登校するのは非常に虚しい。

 そう考えた僕は水泳部もなくほぼ無人となっている屋外プールを貸し切ってやろうと思い付き、職員室から鍵をこっそり失敬した後、プールサイドに忍び込んだ。

 そこで先輩に出会ったのだ。


「あの時はどこの不法侵入者かと思ったよ」


 先輩がおかしそうに笑った。


「真っ昼間からプールに入り浸る幽霊もどうかと思いますけどね」


 僕は言い返してやる。


 何でも彼女はこの学校の生徒で、僕の二つ上の先輩なのだという。

 一学期の終業式の帰りに、夏休みになったことにうかれ過ぎた不注意から交通事故に遭い、『それきりずっと夏休み(本人談)』なのだそうだ。


「私は、初夏【ハッカ】って名前だろ。そのせいか夏が好きで好きでしょうがないのさ」


 夏場しか出てこれないのはそのせいだろうか、と僕は考える。

 幽霊であるくせに彼女は夏休みの間しかその姿を現せることができない、まるでファミレスの期間限定メニューみたいな存在だ。


「……」


 僕は思い出す。

 去年、二学期が始まった途端、先輩は姿を消してしまった。


 それから僕は彼女のことを必死で探し回った。

 彼女の名前と、二人で交わした会話の内容だけを手がかりに昔の住所を調べたり、秋になり緑苔が生え始めたこのプールのなかを潜り、変わり者扱いされたりもした。

 結局は徒労に終わったのだけれど……。


「でもいいじゃないか、こうしてまた補習を受けることになった君と、再会できたわけだし」

「それはそうですけどね」と僕は苦笑する。


 実を言えば今年も補習というのは真っ赤な嘘だ。

 これでも僕は受験に向けてぼちぼちと勉強をやり始め、授業にも余裕でついていけるまでに成長しているのだ。


 けれど、こうしてまた先輩と再会を果たせたのは、勿論、彼女がいるかもしれないという期待と共にプールを訪れたからに他ならない。


「一年中あなたを探してました」


 何て言えるわけがないヘタレな僕は「また補習ですよ、まったく」となんて笑いながら、こうして彼女に会う為だけに足げく登校する日々だ。


 他愛もない話をしていると、どこからか正午を報せるサイレンが鳴り響いて、何となく会話が途切れる。


「……」

「……」


 それから何かを話すわけでもなく暫くの間、二人でぼんやりと、プールの水面が映す青空をゆっくりと流れていく大きな入道雲を眺めた。

 今日は八月三十一日で、今年先輩と会える最後の日だ。


 先輩は水飛沫がちるわけでもないのにまた水面を蹴る真似をしながら、ぽつりと「寂しくなるねえ」と呟いた。


「来年も会いましょうよ。留年しますから」と僕はたわごとを言う。

「期待しているよ少年」と先輩はすこし困ったような笑顔をみせた。


 先輩はどうだか知らないけれど、僕はたぶん恋をしている。

 彼女のことが好きで好きで仕方がない。

 でも抱きしめたり、手を繋いで学校の外をぶらついてみたりすることができなくて、それが酷く辛い。


 いやそんなことはできなくてもいいのだ。


 せめて明日になっても、また彼女がこのプールサイドで蹴れもしない水面を蹴ってくれていれば、それだけでいい。


 でもたぶんそんなことすらきっと叶わない。


 そのことが無性に悔しくなって、不覚にも目の前が滲んでくる。

 そんな情けない顔を見せたくない僕は慌てて制服のまま、プールに思いっきりダイブした。


 次に水面から顔を出すと、彼女が「びっくりするじゃないか突然なんなんだい?」とけらけら笑った。


「……先輩」

「ん?」

「おれ、先輩が好きです」


 長い長い沈黙。

 困ったような泣きそう先輩がそこにいる。

 彼女は躊躇いがちにゆっくりと何かを告げようとして、俯いて、また顔を上げる。

 いつもの毅然として、超然とした先輩は見る影もなく、ちいさな迷子の子供の様だ。


 でも僕は救いの手を差し伸べない。

 今日という夏の日を苦しいくらいに熱く感じながら、いつまでも、ただただひたすらに、彼女の返事を待った。

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