フルコースの途中で
アキラシンヤ
フルコースの途中で
季節の変わり目は唐突にやってくる。老体には厳しい連日の猛暑日が続いた八月の終わり、今晩の風は秋の始まりを告げている。待ちに待った今日という日の夜に季節が変わる事、それはまるで神の祝福のように感じられた。
今、私の目の前にあるレストラン、飛翔の存在を知り、予約したのは三カ月前の事だ。
地元で高級感のある店を検索して辿り着いた。ディナーのみでメニューもなく、一日二〇組限定、値段は時価と、プロポーズするならここしかないと思い、すぐに電話をかけた。
本来なら彼女と共に訪れ、おいしい食事を楽しみ、幸せの約束をする予定だったのだが、過ぎた過去を嘆いても意味はない。むしろ想い出という名のスパイスが今日のディナーに深い味わいを与えてくれるだろう。
現在時刻は二〇時五〇分、予約した時間の一〇分前だ。実は四〇分前から待っていた。
待ち過ぎだとお思いだろうか。
私は思わない。実に、実に長いあいだ、この店へ訪れる日を待っていた。彼女と別れて以来、その想いはより深くなった。
理解して頂けないのを承知で言わせて頂くが、私はこの店に恋にも似た想いを抱いている。愛し、愛された彼女との別れを、恋という始まりで終わらせたいのだ。
もう入っても失礼のない時間だろう。
私は胸を高鳴らせ、狭いドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
ドアのすぐ傍にいた若いウエイターが微笑み、頭を下げてくれた。その声は大き過ぎず小さ過ぎず、正しく教育を受けた者の挨拶だった。
「九時より予約させて頂いておりました、田沢と申します」
「田沢様ですね、大変お待たせ致しました。本日はお一人様で?」
ウエイターは僅かに声を落としてくれた。今の私と同じ状況は時々あるのだろう。
「連絡せずに申し訳ありません。私一人ですが、二人分、お願いできますか。ええ、もちろん無理なら一人分で構いませんので」
ウエイターは慎み深く微笑んでくれた。
「かしこまりました。お二人分のご用意をさせて頂きます。では、こちらへどうぞ」
案内されたのは他のテーブルからの視線が合いにくい角のテーブルだった。私と他の来客、相互への配慮に感謝しながら、私は壁に面する席に着いた。
フランス料理のフルコースを食べるのはいつ以来だろうか。娘の結婚式の時は和食だった。
思い出せないが、まあいい。今から食べるのだから、それでいい。
「食前酒でございます」
ウエイターはグラスに赤ワインを美しく注いだ。ラベルは見えるがイタリア語は読めない。五四と年代だけが読み取れた。
彼女の分もグラスに注ぎ、ウエイターは音もなく立ち去った。
思えばこの店は実に静かだ。時折に場をわきまえた笑い声が聞こえるが、それだけだ。
私の耳も随分と遠くなったものだ。いや、今はそんな事はいい。
ワインはとても深い赤色だ。
乾杯。
声には出さず、彼女がいるはずだった場所にグラスを掲げた。
曇り一つないグラスの向こうに彼女の笑顔が見えた気がした。
グラスを顔に寄せるとまず花の香りがして、葡萄畑の乾いた土が頭の中で見えた。芳純というより濃厚な香りだ。
一口含むと思った通り、様々な香りが最適なバランスで鼻腔を遊び回った。カカオ、黒胡椒、プルーン、私の知らない複雑な香り。まるで優しい悪魔の奏でるヴィオラのようだ。甘い旋律に誘われるまま、すぐにグラスを空にしてしまった。
相変わらずせっかちね。
彼女の声が聞こえた気がした。ここ三カ月は酒を断っていたから、急に酔いが回ったか。
しかしいい気分だ。このままずっと酔っていたい。
「前菜でございます」
出されたのは豚のテリーヌだった。とても薄く切られている。私の手はもう震えがきているから二枚を重ねて口に運んだ。
驚いた。口の中がひんやり冷えたかと思えば、舌の上にはもう何もない。
ああ、今になって分かった。塩を効かせた豚肉のうまさの風味だけが残って、呼吸する度に味がある。空気がうまい。
あなたってば大袈裟ね。
向かいの席に座った彼女が笑っていた。別れた時のやせ細った姿ではなく、出会った時そのままの姿だった。
「仕方ないさ、こんなにうまいテリーヌは初めてだ」
幻覚だとは分かっている。積もり積もった想い出が泡沫の夢を見せてくれているのだ。
彼女にも食べてもらいたかった。食事の幸せは一緒に食べる人がいれば更に大きくなる。
私はおいしそうに食べてるあなたを見ているだけで幸せよ。
涙を堪えた。彼女が最後の食事のあとに言った言葉だ。
「そうかい。じゃあ、遠慮なく頂くよ」
泣くんじゃない。おいしいものを食べている時は笑うものだ。
私はひんやりしたテリーヌを夢中になって口に運んだ。豚肉は溶けたとも分からず消えていく。残るのは口いっぱいに広がる豚肉のうまさだけだった。
彼女は嬉しそうに微笑んでくれていた。
「スープでございます」
まあ、とってもきれいな色ね。
「そうだな。澄みきっていて何の濁りもない。実にうまそうだ」
湯気からしてもう既に鶏とキャベツの豊かな香りを含んでいる。赤みがかった金色、インペリアルトパーズが液体になればきっとこんな色になるだろう。
なるべく波を立てないよう、スプーンで口に運ぶ。
トーンと、ピアノの中音域を叩いたような感覚が舌全体に広がった。これが料理なのだと、これがコンソメなのだと、ずっしりと主張している。
テリーヌとは正反対、澄みきった液体でありながら重い。牛と鶏、キャベツに……そうだ、トマトだ。日本産の味気ないトマトではない、緑色の大きなトマトのうまみだ。
あなたが空輸しようとして無理だったものよね。
「そうだ、あれは本当に残念だった。きみの誕生日に最高のトマトスープを用意してあげたかったんだ」
あら、そうだったの。それは残念ね。
「本当に、本当に残念だ。きみにとって最後の誕生日だと、分かっていたのに」
泣かないでくださいな。そのスープはとってもおいしいんでしょう?
「ああ、うまいさ。実にうまい。きっと昔の私でもこの味は出せなかっただろう」
あなたがそんな弱気な事を言うなんて初めてだわ。
笑え、これだけうまい料理を彼女と食べてるんだ。泣いたら彼女の分までまずくなる。
「そうだな、今だって味だけはちゃんと分かるんだ。私ならこれよりうまいコンソメを作れる」
もちろんよ。あなたは世界で一番の料理人だもの。
ああ、そうだ。肝臓を壊す前まではそうだった。
老いていくのは本当にあっという間だ。どこか一つが駄目になれば次々と別のところも駄目になっていく。
「ヴィアンドでございます」
テーブルに置かれたのは赤みの強いソースの上にステーキが乗ったものだった。
不思議な匂いだ。甘いのは確かだが独特の香りが一つ混じっている。
震える手で一口大に切り、口に運ぶ。
「これは……?」
ソースの甘さが勝っていると思っていたが、肉がしっかりと前にくる。たなびくようにトマトとタマネギのうまみ、ニンジンの甘みが強く出ているが、香辛料の中にあくまでもステーキを主役として際立たせている何かがある。
ゆっくりと咀嚼する。噛めば噛むほどに肉汁が溢れてくる。肉を食べている実感がドーパミンを増やしているのが分かる。ソースは甘く力強いが、フォン・ド・ヴォーと香辛料の他にも肉のうまみを引き立たせるものがある。
また一切れ口に放り込む。ステーキの魅力は肉を食べている実感だ。噛みしめて肉汁が溢れる瞬間は勝利に似た快感を覚える。最初のアタックこそが肉とソースの勝敗を決める。
「これは……醤油なのか」
信じがたいが、醤油としか考えられない。独特の個性が強い上、煮込んで作るステーキソースに醤油を加えるのは難しい。他と比べて鮮度の落ちが極端に早く、たった一日で風味が激減する扱いの難しいソースだ。
あえてナイフを使わず、肉を噛みちぎる。柔らかい肉はそのままでも肉汁を溢れさせるが、一撃で味わうために口いっぱいに頬張って噛む。ひたすらに噛む。圧倒的な存在感、ステーキオーケストラはクライマックスを盛大に奏でている。肉という騎士が統制された多勢なるソースに先んじて攻撃を仕掛けている情景が目に浮かぶ。
うまい。
結局はこの一点、頂点にして揺るぎないたった一つの表現。
うまい。
食事をする度に何が使われているか、どういった仕事がされているか、私はもう考える必要などないのだから、ただ味わえばいい。
何も考えず噛みしめる肉のうまみをただ感じればいい。
ついにそう思えた時、在りし日の彼女が向かいの席に座っていた。
「今のあなた、最高に幸せそうな笑顔だわ」
「当たり前じゃないか。こんなにうまいステーキを食ってるんだ」
口に付いたソースを拭き取る私を、彼女は幸せそうに見つめてくれていた。
「しかも愛しいきみと一緒にだ。これ以上の幸せがあると思うかい」
お医者さんが許可をくれたら一緒にフランスへ行く約束だった。
一緒に凱旋門をくぐり、一緒にエッフェル塔を眺め、一緒に広大な葡萄畑を眺める。
そんな日を夢見ながら、私達は病と闘ってきた。
きみが呼吸器を付けて話をできなくなってからも、地図を広げ、写真を見せて、それだけでは伝えきれない土の匂いや風の匂い、日本とは違う空の色や雨の音を私は話し続けていた。夢を膨らませ、病にうちかってほしかった。
あの時の言葉は、想いは、きみに届いていただろうか。
「もちろんよ。あなたがとっても細かく話してくれたから、本当にフランスへ行ったような気分だったわ」
きみはおかしそうに笑って、私は嬉しくて堪らなかった。
約束は守れなかったと思っていた。
しかし本当は約束通り、一緒にフランスへ行っていたのだ。
きみがいつか行きたいと言っていたパリの街を共に歩いたのだ。
「パンでございます」
「待ってくれ」
彼女から目を離す事なく、ウエイターを手で制した。
「今、大切な話をしているところなんだ」
かしこまりました。そう言ってウエイターは立ち去った。
フルコースは一日に似ている。
食前酒で目を覚まし、前菜で外を歩き、スープで少し休み、メインでその日にやるべき事をする。パンで疲れを癒し、デザートで眠りにつく。
だから、今でなければならない。パンはまだ受け取れない。
私は今日という日にやるべき事をやらねばならない。
「あなただってもう休んでいいのよ?」
いいや、そんな訳にはいかない。
「あなたは十分に頑張ったわ。人生をしっかりと生き抜いたの」
分かっている。私だってもう、分かっているんだ。
だからこそ今しかないんだ。
「きみにこれを、受け取ってほしい」
赤いベルベットの小さな小箱を取り出し、彼女に見えるよう開いてみせた。
私は若かりし日のはつ恋のように胸を高鳴らせ、彼女を見つめ続けた。
返事を待つわずかな時間が永遠のように感じる。
あんまりじらさないでくれ。
早くしないとパンが来て、デザートも来てしまう。
焦りを感じ始めた時、彼女は開いた小箱を私に向けて、
「あなたの手で、私の指にはめてくださいますか」
幸せそうにほほえんで、左手を差し出した。
ああ。もちろんだとも。
私は小箱から指輪を取り出し、彼女の薬指にはめた。
ありがとう。きみに出会えて、本当によかった。
私もよ。最後までずっと一緒にいてくれて、本当に嬉しかったわ。
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