汚水―Fresh water―

「もう、この国は終わりだ」


 僕は源を失い崩壊していく世界に、そう嘆きを残すしかない。

 今日も清々しく、忌々しい青空だ。まるで僕達を嘲笑うかのように透き通っている。あぁ……むしろ祝福かもしれない。


「死にたく、ないよぉ……」


 子供の声が聞こえる。幼く、苦悶の表情が想像できる。その声が僕を責め立てるのだ。水をせき止めた僕を。僕の罪を。僕の愚考を。僕の失策を。

 あの時は沸き立っていたのだ。何かに。僕は、僕の中に何かが膨れ上がって、その後の破滅なども気にも留めずに、やったのだ。水を止めた。止めてしまった。


「水……水……ぁぁ……」


 どこかでゾンビの様に徘徊する男の声が聞こえる。彼らは力無き脚を使って国中を巡り回っているのだ。水を。残っているそれを。源流へ行かないのは、たぶん、もうその考えも思いつかないからだろう。第一、僕は国の人が源流へ向かう姿を見た事がない。

 あの行進こそ僕の終わらないネガティヴ思考の象徴だ。仕方ないじゃないか、そうでもしないと、あの黒い何かを口に入れる事になっていたんだぞ。


「わたしは……わたしは……わたしわたしわたし」


 ある女性が同じ言葉を続けているのが見える。思考する能力さえなくなり、遂には自意識の停滞を抑制するために、自分と言う存在しか見えなくなってしまったのだろう。だから、何度も自分の名前を――恐らく忘れてしまったからそれを一人称に代えて――呼ぶ。

 あれが僕の狂気を塞き止める楔だ。僕がまだ正常な思考を保っていられるのは、皆への罪悪感と、あの狂気に堕ちたくはないと理性が働いているからであろう。


「天竺峠を越えて、揺らめくナイル川の畔で神は生まれ給う。見えぬ顔に私達は、ドットに顔を当てはめて黒く塗りつぶされた顔はまさに闇の様。広がる艶めかしい脚はそれこそ世界を覆いつくし、生まれた利根川ですら墨で満たす。あぁ、神よ、王よ、偉大なる――」


 もう、それ以上を聞く気になれない。僕は耳に手を当てて、かつて挨拶を交わしたあのお婆さんの狂騒から逃げる。あれはもはや意味などない。狂い壊れた脳が垂れ流す電波を振りまくラジオのスピーカーだ。

 あれは――僕に何も影響を及ぼさない。言葉に意味がないんだから当然だ。強いて言えば、壊れた彼女を憐れむ事と、そう思う自分を嫌悪する事だけだ。

 僕は怠い身体を動かして、王様の元へ向かう。もう何も見たくない。何も聞きたくない。せめて、王様に全てを打ち明けたい。彼の意見を聞きたい。僕は、僕は、僕はそう思って、黒い吐瀉物を口からぶちまけながら道を這う。



――――――――Next――――――――



 偉大なる王はいつものようにその廃公園に鎮座していた。黒々しい巨体は、見る者に畏怖を与え、恐怖を浮かび上がらせて、安心さえ覚えてしまう。

 いや――その感情こそ、崇拝に近い何かだと頭が訴えている。水を採っていないから聞こえる幻聴なのか、本音なのか、それさえも解らないけど……僕は、プーさんに声をかける。


「Harrow、もしくはこんちには」

「Hello? プーさん、僕は……」

「いいよ。皆まで言わなくてもいい」


 最初こそ、おかしな口調であったはずのそれは、最後には流暢な言葉に変わっていた。プーさんは、こんなにスムーズな話かたをする人だったか……?


「君が、水を止めた。だから、皆が苦しんだ。最悪な構図だね」

「……そうです。僕が、やりました。でも、こうしないと、あの水の中にいたあれが、国民の中で蠢くんですよ!? だから、だから……こう、しない、と」

「うん。私が頼んだのだ。君自身が、この国に再び苦しみを振りまいた。うん。最高に素晴らしいじゃないか?」


 僕は、彼の言葉の意味が解らなかった。いや、解るんだ。意味が解る。でも、それは、なんというか――まるで、この人が全てを知っているような気がして。なんで、そうなのか、解らない。


「まさか、虚飾にも反逆者が現れるとは。面白いから黙認していたけど、やはり人間は愚かだね」

「……まるで、人じゃないような言い方、ですね」

「人じゃないよ。君も、もうそろそろ真実を認めて見たまえ」


 プーさんの言葉に、僕は急激に走る脳内の稲妻に刺激を受ける。大きく、目が開かれる。頭が重い。僕は頭を地につけて、上を向いてその青などない曇天を見つめた。

 脚の動かした方がインストールされる。およそ八本のそれを上手く使うには人の在り方では不可能だ。人……僕は人のはずだ。何を言っているんだ?


「ぼくわ……ぼくわ?」

「驚いた。言葉を話せるとは。とはいえ、やはり厳しいか……」


 呂律が上手く回らない。人の言葉を話そうとすると、どこか食い違う。

 困惑をする僕は首を振り回す。頭が重いがそれをどうにか胴体で支えて、僕は見たのだ。虚飾が払われた真実を――


「ァ――」

「素晴らしい光景だろう? 空は灰に、地には我が眷属が這う」


 その光景は、僕の住んでいた国などではない。いや、現実を見る。見知った場所は確かにあるんだ。だがそれもどれも風化し、倒壊している物もある。

 そして何より、地を這うそれらはよく解らない言葉を喚いて蠢いている。大きな頭を小さな胴体が支え、脚は八本もあって、口は丸を描いている。あれは――なんだ?

 いや、いや、いあ、答えは解っていた。解るように頭に浸食するこの肉体の常識が伝えてくる。頭足類、タコとかつて呼ばれていた生物を模した機械、それ以下の存在――MエムHエチMエムと呼ばれていた物。


「ァ――ッァァ」

「やっと気づいたか。とっくの昔に、君達は人ではない」


 僕は、自分の腕を見つめてざらついた声を出す。真実を知った。知ってしまった。受け入れるしかないそれを。どうにもならないそれを。

 僕は目が白黒する中、急いで地を這う。あの偉大なる王の元へいたくはなかった。いてしまえば、トルス・ノウと言う人であった人格は消えてしまうかもしれないのだから――



――――――――Next――――――――



 自分が住んでいた家――倒壊しており、屋根もない雨曝しの部屋――の中で、僕は水があったであろう瓶の中を見つめる。黒く蠢く何かに溢れかえっていたそれは、自分達と同じであり、自分達の源であった。

 水は黒の姿をした触手であった。吸盤のついたそれは、握っている自分の腕と同じだ。

 これを失ったから、皆、虚飾の人間世界でも狂い始めたんだ……僕達にとってこの黒い触手は、自分達と存在を維持するための物。僕が人間としての常識を当てはめて拒絶した真実の水。


「は……」


 笑みも浮かばない。もはや笑みを見せる表情もない。先程まで胴体と思っていた部分は集められた顔であり、頭は胴体であるのだから。

 自分がやれる事はもうない――そう、タコの認識が諦めようとするが、人の意識が諦めを知らなかった。まだ、言葉が解る。そのうちに、何かを残さなければならない。

 最後の反逆だ。これこそが、トルス・ノウの最後の仕事だ。人であった記憶による記録。この荒廃した世界の外から、誰かがやって来ることに期待して――僕は慣れつつある黒い触手でペンを握り、白紙の紙に文字を書き綴る――


「ァ――ははっ」


 文字がぶれる。認識の汚染が人としての知性を奪うのだろう。タコは文字を書かない。文字を理解する脳はない。知能は高いらしいが、決して人には勝てない。

 だが書き終えた今となっては、どうでもいいことだ。この記録が、誰かに読まれる事を祈る。せめて、僕がいた証を――そして、あの全ての寄生の主を殺す事を祈る。

 僕は外に出て空を見る。曇天だ。でも、それが真実であり、綺麗であると感じる。この感情だけは、嘘じゃない。この想いだけは、人であると信じて。

 巨大な影が現れる。何かの形をしたそれを見て、残された感情は喜びを形成した。埋め尽くした理性があれを敵と認識しているが、僅かな心はそれが勇者に見えたのだ。

 あぁ――それは――僕が成し得ない未来へ脚を進める――一匹の碧色の狼――











 ぐしゃり

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