二重奏
千里温男
第1話
少年は磯の小岩に背をもたせかけてサザエの貝殻で作った笛を吹いている。
足元に砕ける波の音に合わせて無心に笛を吹いていると、すぐ近くから、
「キュッキュッ」と別な音が調子を合わせて来る。
少年が不審に想って小岩を見上げると、そこに、まだあどけない髪の短い女の子が座っている。
女の子が小さな唇を動かすたびに
「キュッキュッ」と音がする。
海ほおずきを鳴らしているらしい。
女の子の黒い瞳がじっと少年を見下ろし、少年は魅せられて女の子を見上げる。
女の子は、少年を見つめたまま、海ほおずきを鳴らし続ける。
少年も再び小岩にもたれて貝殻笛を吹き始める。
貝殻笛と海ほおずきの音色が仲良く呼びかけあうように鳴り続ける。
沖ではふたりの二重奏を育むように夏の名残のうねりが繰り返し繰り返し揺れている。
やがて、遠くの方から誰かの声が聞こえてくる。
声は次第に近づいてきて、
「ミオ、ミオー」と聞き取れるようになる。
母親が女の子を呼んでいるらしい。
少年は、ひとり取り残される寂しさを予感して、女の子を見上げる。
女の子は小さな唇から手のひらに海ほおずきを出すと、
「あたしミオ。5歳よ」と名乗る。
少年は慌てて、サザエの貝殻笛をくわえたまま、
「ぼくはリウ。9歳だよ」と答える。
女の子は海ほおずきを載せた方の手のひらを差し出し、
もう一方の手を少年の貝殻笛の方に伸ばす。
海ほおずきとサザエの貝殻笛を取り換えると、女の子は小岩の向こう側に降りて姿を消す。
そうしてふたりは別れる。
夏は去り、秋は去り、月日は去り、何年も過ぎて行く。
少年はその磯に幾度も幾度もやって来る。
あの日と磯は変っていないように思える。
けれども、あの女の子を見つけることはできない。
*
リウはカリブの一つの島の磯にしばしばやって来るようになっていた。
あの日の磯にどこか似ているような気がするのである。
月の光のやわらかな宵のこと、
リウは、誰もいない打ち寄せるナミの音も静かな磯で、
打ち上げられた流木の根元に独り腰掛けて新しく作ったオトメダカラの貝殻笛を吹いていた。
リウの思いを秘めた笛の音がさまようように謎の海サルガッソの方へと流れて行く。
ふと気がつくと、すぐ近くから聞き覚えのある貝殻笛の音が寄り添って来る。
月日は経っていても、自分が作ったあのサザエの貝殻笛の音色を忘れることができようか。
はっとして振り向けば、いつの間にか、同じ流木の向こうの端に美しい影がある。
ゆるやかに波打って腰まで流れる髪、滑らかな白い肩、満月を見上げるような乳房…
あの日のあどけない女の子の俤を残して…
今は美しく成長したミオに違いない。
自分を見つめる黒い瞳、何よりもそのサザエの貝殻笛。
忘れたことのない懐かしいミオ、ミオに違いない。
どちらからともなく、ふたりは流木の真ん中あたりに並んで腰掛けていた。
ミオはリウの胸に下がっている古びた紐をつまんだ。
14年の歳月は海ほおずきのペンダントを今にも擦り切れそうな紐だけにしてしまっていた。
ミオは、リウがそんな紐を大切にしているのを面白がって、それを指先で彼の胸にコロコロと転がした。
リウはくすぐったそうにただ笑っている。
それから、オトメダカラの貝殻笛とサザエの貝殻笛を取り換えた。
ふたりが二重奏を始めようとした時、突然現れたいかつい影が、
「何だお前は、ミオに何をしているのだ!」と怒りの声を発した。
「違うのよ、お父さん。一緒に笛を吹いているだけよ」とミオが言い訳する。
それを聞き入れようともせず、父親は
「おーい、みんな来てくれ。変な奴がミオにくっついているんだ」と大声で呼んだ。
呼び声に応えてバラバラと集まって来たたくさんの影にリウは殴られ打ち倒された。
父親と大勢の影たちは嫌がるミオを連れ去って行った。
リウはただ独り月明かりの波打ち際にぼんやりと倒れていた。
やがて、のろのろと立ち上がると、壊れて落ちているオトメダカラとサザエの貝殻笛を拾おうとした。
その時、父親たちから逃れて来たミオが転がるようにしてリウの脚にすがってきた。
ミオは
「わたしを背負って逃げて、速く!」とリウを急き立てた。
躊躇している暇は無かった。
「いたぞ、こっちだ」と大声が響いたからである。
リウはミオを背負って夢中で森の中に逃げ込んだ。
森の奥へ奥へと走った。
どれくらい走っただろう。ここはどこだろう、そう想いながらも、リウはなお走り続けた。
「もう大丈夫よ、追って来ないわ」と言うミオの声が耳元で聞こえた。
リウはほっとして速度をゆるめた。
自分の体にすがっているミオの腕の力が弱くなっているような気がする。
リウは草の上にゆっくりと膝をついてミオを下ろした。
ふたりは、木立に囲まれた柔らかい草の上に乾いて疲れた体を横たえて休めた。
一休みしてから、もっと見つかりそうのない深い茂みを探して、その中で朝まで過ごした。
日が昇ると、リゥは再びミオを背負って森の中を歩いて行った。
日が高くなったころ、澄んだ涼しそうな泉に行き当たった。
ふたりは歓喜して泉に飛び込んだ。
乾いた体が心地よく潤って、今までの疲れが癒されていくようであった。
ふたりは声を上げて笑いながら水の中で戯れた。
底まで潜ったり水をかけ合ったり体をすり寄せ合ったりして戯れた。
ひとしきり水遊びをたのしんでから、泉のほとりの草むらに並んで横たわった。
しばらく休んでから、また泉の中で戯れあった。
そうして時間の経つのも忘れていつまでも水遊びを楽しんでいた。
そのうちに、ふたりはこの泉が小さな川にそそいでいることに気が付いた。
川は海に続いているに違いない。
ふたりは、その川を伝って、自分たちを引き裂く追っ手が来ることを恐れた。
「もっと遠くへ行きましょう。つかまる心配のない遠い海へ行きましょう。
そこでふたりで援け合って生きて行きましょう」とミオは言う。
リウもそう思った。
明日、朝早く出発しよう、そう決めて、ふたりは並んで草に寝転んで空を見上げた。
月が、無数の星たちが半魚人と人魚の未来を祝福しているようである。
そうでなければ、あんなに美しく輝くはずがない。
(おわり)
二重奏 千里温男 @itsme
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