亡霊は魔王の娘の懇願を頑なに拒否する

 ベラナベル様を見送り、我は仕事に取り掛かる。

 我は今日も、斧の代わりに包丁を、盾の代わりに鍋蓋を握る。料理は我の仕事である。

 手頃な野菜を手に取り、鏡のように光を反射する銀色のシンクへと移動する。


 そこに、我の姿が映る。


 かつて人間の王に忠誠を誓い、直々に授けられた純白の鎧。胸甲の上を走る返り血は最早、誰のものか判別がつかぬ。左右の袖は、獣に食い千切られたかのように唐突に途切れている。野菜を握るのは、宙に浮かぶ四つの手甲。兜はない。我には頭に該当するものがない。本来肉体があるべき場所には、代わりに黒い炎のような煙がゆらゆらと蠢いている。

 一言で形容するならば――魂が鎧を着ている。

 実際、あながち間違いではない。


 我は一度死んでいる。

 数十年前か、あるいは数百年前か。誰と誰が争っていたのかさえ覚えていない。が、我はかつて、国を挙げた大きな戦争で命を落とした。その時の強い未練が、我の肉体と魂を乖離させたのだ。

 どんな未練があったかなど、今となっては思い出せない。覚えているのは、人間と亜人への強い怨みだけだ。ただし亜人と言っても、『彼ら』は例外である。むしろ『彼ら』は被害者の側で――


 いけない。時間を無駄にしてしまった。早く調理に取り掛からねば。






 それから三時間が経ち。


「おはよう、バルドス……」

 ベラナベル様、眠い目を擦りながらの登場である。我には睡眠欲もなければ、擦る目もないが。魔王の娘とはいえ生身の魔物であるベラナベル様は、休まねば身体が保たない。が、身体という概念を持たぬ我には休息は不要だ。

「おはようございます、ベラナベル様。良い所に来てくださいました」

「毎日同じ時間じゃからな。流石に覚えたわ」

 ベラナベル様は口を尖らせ頬を膨らませ、素直に不機嫌を表現なさっている。

 お気持ちは分かるが、残念ながら、この仕事だけはベラナベル様にしか頼めぬのだ。観念してもらうほかない。


「では、お願いします」

「……うむ」


 船員の食事を作るために配備されたのであろう大きな寸胴鍋。中でぐつぐつと沸き立つ透き通った出汁を杓子で掬い、小皿に取る。幼子のような手のベラナベル様でも片手に収まる小さな皿だ。

 ベラナベル様は少し吹いて冷ましてから、琥珀色の液体を口に含み、じっくり味わって飲み下す。


「どうですか?」

「今日も美味い」

「濃いか薄いかで答えて頂きたいのですが」

「少しだけ、薄いかもしれぬ」

「ふむ。ではもう少し煮詰めましょうか」

 我は再び鍋と対峙する。


「……な、なあ、バルドス?」

「駄目ですよ」

「まだ何も言っておらぬわ!」

 猫撫で声で懇願したくなるお気持ちも、声を上げたくなるお気持ちも痛いほど分かる。しかし、我にはどうすることもできないのだ。

「食事は『彼ら』と共にする。ベラナベル様がお決めになったのでしょう?」

「ひ、一口だけ……」

「一口で我慢できますか?」

「無理に決まっておろうがっ!」

「では完成までお待ちください」

「ぐぬぬ……」

 涙目のベラナベル様もお美しいが、それとこれとは別の話である。

「……まさか、食事の度にこのような責め苦を受けることになろうとは……」

 ベラナベル様は鍋を恨めしそうに見つめる。じっくり出汁をとったスープは旨そうな匂いをこれでもかと発しているに違いない。一口含めばもっと欲しくなるのも自明なこと。

 しかし亡霊である我には、肉体が、頭がない。匂いも味も、鼻と口を持たぬ我にはわからぬのだ。

 故に、味見役はベラナベル様に務めていただくほかない。今後も、末永く。


「せめてお主の料理の腕がもう少し劣っていれば、ここまで苦しむことは……」

「では、次からは少し質を落としましょうか?」

「い、嫌じゃ! それだけは絶対に嫌じゃあっ!!」

「では我慢してください」

「ぬうっ……」


 不機嫌そうな顔は継続しておられるが、質を落とすという発言がよほど効いたのか、ベラナベル様はそれ以上口出しなされなかった。

 完成までの短い間に、腹の虫は三回鳴ったが。

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