忘却のカーニバル

桑原 樹

プロローグ



 二週間前のことだ。いつも通り、友達と学食に来ていた。


 昼間の、学生達でごった返す食堂。喧騒に負けじと少し大きめの声で注文する。


「日替わりお願いします」


「じゃあ、俺はカツ丼で」


 彼が重たいメニューを頼むのが少し意外だった。僕は彼がサバの塩焼きや、サケの塩焼きや、サンマの塩焼きや、とりあえず塩焼きを食べているところしか見たことがなかった。ひょろりと背が高く、少し陰鬱な顔つきの彼は、そんなイメージがぴったりだった。


 しかし、彼の前には重厚感を纏うカツ丼が湯気をたちのぼらせながら鎮座している。あのつゆだくのカツが、揚げ物の歯ごたえを捨て、代わりに到達した神秘的な味わい。噛んだら、サクッ、ではなく、じゅわっ、なのだ。想像しただけで、なぜ僕はあれを注文しなかったのだろうかと後悔の念が押し寄せる。

 

 僕の前にあるのは平平凡凡な野菜炒め定食だ。これはこれでおいしいし、コスパを考えると逸品なのだが、やはり見劣りしてしまう。


 そんなことを考えていると、小さくおなかが鳴った。周囲の喧騒にかき消されただろうが、少し恥ずかしい。そそくさと手を合わせた。


「いただきます」


 うまい。見劣りするなんて思ったのが失礼なくらい、うまい。やはり、空腹は最高のスパイスなのだ。


 ふと、視線を感じた。彼が眉を顰め、呆れとも驚きとも非難ともつかない複雑な表情をしていた。


「……なにか?」


 この感覚はなんだろうか。喧騒が遠い。二人きりの空間にいるような気がする。


「お前さ、心の底からいただきますって言ったこと、ある?」


「は?」


 彼は至極真面目な顔をしていた。何を聞かれているかよく分からないまま、僕は答えた。


「ない……と思う」


「本当か? じゃあ、昨日の夜は何食べた?」


 質問に脈絡がない。いよいよ混乱してきた。


「……覚えてない」


「そうか……実はさ……」


 曰く、先日、彼女が振舞った手料理に『いただきます』を言わず喧嘩になったらしい。どうして、そんな事を言えないのかという彼女に彼は持論を語った。結果、彼女は家を出ていき、街中で捕まえ、説得するも失敗、今日に至ったそうだ。


 それっきり彼は何も言わずにカツ丼を食べ始めた。結局、僕に何を求めていたのだろうか。野菜炒めは温(ぬる)くなっており、少し味が落ちていた。




さて、時は変わり現在。突然だが、「大造じいさんとがん」という話をご存知だろうか。僕は国語の教科書で読んだあの話の冒頭部分がいまだに忘れられない。


 囲炉裏の薪が弾け、心地よい音を立てる。鉄瓶から昇る湯気は、猟師の影とともにゆらゆら揺れる。山の麓の古小屋の風景は、実に老いた猟師の不思議な話を聞くに相応しい。


 しかし、今、ぼくがいる所はそんな風景の対極にある。


 人工物であることを主張してやまない鉄筋コンクリートのアパート。その一室の友人の部屋の中。外は梅雨らしく何の変哲もない雨模様である。昼間からカーテンを閉め切り、蝋燭を灯したのは良いが、これは少し明るすぎる。カーテンの遮光性もいまいちだし、隙間から光が漏れこんでいて……やはり明るい。夏だから怪談、という発想に異論は無いが、いかんせん風情がない。


 そして、何故か机の真ん中に鎮座しているタコ焼き器が、残念な状況に拍車をかけている。蝋燭の火は机の端で慎ましやかに揺れ、主役の座を奪われたことを拗ねているようにも見える。


 そんな全く雰囲気のない部屋で、彼は語り始めた。


「ここに身の毛もよだつ怖い話を期待して来た面々には申し訳ないのだが、生憎、俺はあまり怪談というものに明るくない。しかも、実につまらないことに、今から話すのは実にありきたりな怪談だ。似たような話を聞いたことがある、という人は少なくないかもしれない。しかし、これは俺の話せる唯一の怪談であるから、どうかご容赦願いたい。では、ありきたりな話らしく、ありきたりな語り出しにしようか。」


 これから話すのは、とある友人から聞いた話だ。

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