新婚旅行編
01
結婚式から一ヶ月がたち、ドミニエル領が春の麗らかな陽気から、少し汗ばむような夏の陽気に変わり始めた頃、ティアナは城にある薔薇園で頬を染めながらうっとりと息を吐いた。
切ったばかりよりは少し長くなった木蘭色の髪の毛が風に棚引く。大きな飴玉のような赤茶色の瞳は日の光を浴びてきらきらとピンク色に輝いていた。その目尻はうっすらとピンク色に染まっている。
ティアナの手の中にあるのはいつもの刺繍道具ではなく、分厚い本だった。赤い表紙には金色の文字で『魔法使いと異国の姫君』と書いてある。
それは最近、女性達の間で流行っている恋愛小説だった。甘く、じれったい、魔法使いと異国からやってきたお姫様の恋物語は、現在十三冊目まで出ている。『魔法使いと異国の姫君』というのは、そのシリーズ一作目だった。
「何度読んでも素敵ですわ……」
頬を両手で挟み込みながら、ティアナはうっとりとした声を響かせる。膝に置いた本をじっと見つめて、恋をしたばかりのようなため息を、また一つ吐き出した。
「その御本、ずいぶん気に入られたのですね」
「カロル!」
いつの間にか後ろに立っていた侍女のカロルにティアナは弾んだ声を出した。侍女と言っても幼い頃からずっと一緒にいるので、ティアナにとっては姉のような存在だ。
「あら、カロルは気に入りませんでしたか? こんなに素敵な恋物語なのに」
「素敵な物語だとは思いますよ。ただ、私は夢物語があまり好きではないんです。何もかも完璧で優しい男性なんて、現実では絶対に現れないでしょう?」
現実主義者のカロルが呆れ顔を隠すことなく、そう言う。そんな彼女にティアナは笑みを零した。
「じゃぁ、ヴァレッド様に出会えた私って、とっても幸運ですのね」
「……私は完璧で優しい男性と言ったのですが……」
「まさにヴァレッド様のことですわ!」
「どこが……」
思わず否定しそうになった自分の口をカロルは片手で覆う。
一ヶ月前、ティアナの夫になったヴァレッドは、女嫌いの男色家として有名な男だった。軍人のような体躯に整った顔立ちを持つ彼は、外見だけなら女性を引きつけてやまないだろう。しかし、女性とは『話したくない』『触れたくない』『視界の片隅にさえも入れたくない』と公言するぐらいの女嫌いなので、次代を期待される公爵という身の上でありながら、今まで結婚相手が見つかることがなかったのだ。
そんな彼に嫁いできたのがティアナだった。
自分の夫を思い出しながら口角を緩ませる己の主人を、カロルは眉を下げながら眺めた。
どんな相手だろうが、ティアナが幸せそうならカロルはそれでいいのだ。
「この
「ティアナ様、夜更かしはいけませんよ? ……それにしても、そんなに気に入られたのなら、本を持ってきたレオポール様もお喜びになりますわね。その本、貸本屋ではどこもかしこも貸し出し中だそうですから……」
「そうですわね。レオポール様には何かお礼をしなくてはいけませんわ。こんな素敵なお話に出会わせてくれたんですもの!」
「いえ、あの方はあの方で別の企みがあるだけですから、気にしなくてもよろしいかと思いますわ」
レオポールの企みを知っているカロルがそう言う。
「ティアナ様!」
噂をすればなんとやら。薔薇園の入り口からレオポールの声がした。ティアナが視線をそちらに向けると、彼は両手いっぱいの本を持ったまま、駆け足でこちらに向かってきている。
レオポールは二人の側に近寄ると、両手に載った何冊もの本を嬉しそうに掲げてみせた。
「こちらにおられたのですね! ティアナ様がお好きだと言ってたジスレーヌ・ジャクロエ著の本、たくさん見つかりましたよ!」
「わぁ! こんなにたくさん! ありがとうございます!」
満面の笑みで腰を折れば、レオポールは満足げに何度も頷いた。
ジスレーヌ・ジャクロエというのは『魔法使いと異国の姫君』の著者である。彼女の書く物語はその殆どが女性をターゲットにした恋愛ものであった。
彼女の書く物語の一番の特徴は、その舞台背景の描写だろう。まるで自分がそこにいるかのような錯覚を起こす、その正確で緻密な描写は、恋愛場面のトキメキと同じぐらい、ティアナの心を虜にしていた。
巷では旅をしながら作品を書いてるのではないかともっぱらの噂になっている。
「こちらの本は私めが部屋に運んでおきますからね」
上機嫌でそう言うレオポールの脇腹を、カロルが肘で小突く。そして、ティアナに聞こえないぐらいの小さな声をレオポールに向けた。
「ティアナ様に恋愛小説を読ませて、恋愛に興味を持ってもらおうとするのはどうかと思いますわよ? 確かに私も二人の仲をなんとかしたいとは思っていますが、貴方はティアナ様ではなく、己の主人のをどうにかなさったらいかがですか?」
「あんのクソ主人がどうにかなりそうなら、もうとっくにどうにかしています! あの野郎、ティアナ様のことが気になって仕方がないくせに、それを一切認めようとはしやがらないので、私がこうやって動くしかないんですよ!」
額に青筋を立てたまま、にっこり笑顔のレオポールである。そんな器用な家令にカロルもふっと顔を陰らせた。
二人がティアナとヴァレッドをくっつけようとするのには理由がある。
実はティアナとヴァレッドの部屋は、未だにバラバラなのだ。結婚して一ヶ月も経とうかというのに部屋の距離は全く変わっていなかった。もちろん、初夜なんてものは夢のまた夢である。
「このままでは、跡取りが……。私はアンドニ様になんと申し開きを……」
レオポールが青い顔で呼んだ名前はヴァレッドの父親だ。家督を息子に譲った今はのんびりと第二の人生を謳歌している。
「お二人とも互いに憎からず想っているわけですから、いずれなるようになるんじゃないですか?」
「カロルさん……。それ、本当に思ってますか!? あのヴァレッド様と、ティアナ様が、ですよ!? あぁ、私には見える! 互いに良い感じにシワシワになって、のんびりとお茶を飲む、お二人の姿がっ!!」
「……とってもいい未来じゃないですか」
半眼になったカロルが突っ込みを入れると、レオポールが青い顔でゆったりと微笑んだ。
「ここで問題なのは、お二人が『茶飲み友達』止まりってことですよ! そうなれば、子がいないヴァレッド様は死ぬまでここの領主でしょう? そして、私は死ぬまであの野郎の手足! いいえ、手足が悪いわけじゃないんです! 私は私なりにこの仕事にやり甲斐と矜持を持っていますから! ただね、死ぬまでっていうのは辛い!! 良い感じで年をとってきた辺りで引退したいっ! 切実に! 引退してのんびりのほほんと生きたいっ!」
レオポールの必死な訴えにカロルは思わず黙る。もう殆ど私情じゃないか、という言葉はレオポールのために飲み込んであげた。
確かにカロルもこのまま二人の間に子供が出来ないのはマズいと思っている。
カロルとしては別にお家存続などはどうでも良いのだが、子供が出来ないことでティアナが将来責められても困ると思ったのだ。
「協力、してくれますね?」
片眼鏡の奥で暗い緑がきらりと光る。カロルはそれに渋々首を縦に振った。
「お二人とも仲がよろしいのですね?」
いつの間にか話し込んでいたカロルとレオポールの様子を伺うように、ティアナがそう声をかけてきた。話を聞かれていたのではないかと焦ったレオポールが額に汗を浮かばせながら、言葉を発する。
「そ、そうですね! いろいろと仕事の話をしておりました! ティアナ様は本を読み返しておられたのですか?」
ティアナの足の上には本が開いて置いてある。
「はい。このシーンなんてとっても素敵で……」
そう言いながら顔を赤らめるティアナはまさに恋する少女だ。レオポールはそれに大きく頷いた。計画は順調そうである。
「このシーンなんて、まさにレオポール様とヴァレッド様を見ているみたいで……胸が熱くなりましたわ」
「え?」
「やっぱり、お二人は素敵な恋人同士ですわね」
うっとりとそう言われて、レオポールは口角を上げたまま、げっそりと頬を痩けさせた。
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