10
ヴァレッドの私室は白い壁紙に高級そうな赤いカーテンがよく栄える一室だった。家具は黒檀で統一されており、重厚な雰囲気をその場に醸し出している。ヴァレッドはそんな私室の奥にある広い寝台に半ば無理矢理寝かしつけられていた。その顔は不機嫌と言うより、どこか恥ずかしさを押し殺しているような表情で、寄せられた眉からは想像もできないほどに耳を真っ赤にさせていた。そんなヴァレッドを寝台に押し込んでいるのは勿論ティアナである。
「俺は健康だと、何度言ったらわかるんだ!」
「心配してくださっているのは嬉しいですが、私は大丈夫です! 用事は他にありませんし、私はあまり病気にかからない質なのですわ! そんなことよりヴァレッド様はご自身の心配をしてください!」
「俺は君の心配をしているわけではないし、本当に大丈夫なんだ! もしかして君が病気にかからないのは『馬鹿は風邪をひかない』ってやつじゃないのか!?」
「あら、私だって夏頃には風邪を引きますわ。暑いのは苦手ですの」
「『夏風邪は馬鹿が引く』の方か!」
「とにかく、ヴァレッド様は此処でお体を休めてください!」
いつになく強引なその様に、ヴァレッドは仕方なく体を寝台に横たえた。ティアナはヴァレッドのその様子に満足げに頷いて、くるりと身を翻す。
「では、失礼しますわ」
「なっ……」
「どうかしましたか?」
「……いや」
あまりにもあっけなく身を引いた未来の妻の姿にヴァレッドは眉を寄せたまま恥ずかしそうに視線をそらせた。ヴァレッドは別段ティアナにこの場に残って欲しいと思ったわけではない。しかし、彼は何故か、彼女が此処に残って甲斐甲斐しく自分の世話をはじめるのではないかと、そう思いこんでいたのだ。そして、その予想が外れたことが猛烈な恥ずかしさとなって自身に降りかかったのである。
「ヴァレッド様、失礼しました」
「あぁ」
きまりが悪そうにそう一言だけ返して、ヴァレッドはティアナの後ろ姿を見送った。彼女の背中が扉の奥に消えてから、ヴァレッドは寝台の端に起きあがり、その場で頭をかきむしる。
「何、振り回されてるんだ……」
そう一言吐くと体の力がふっと抜けた。もう一度、仰向けの状態で寝台に体を横たえると、ゆっくりと眠気が這い上ってくる。頭の片隅で今日の仕事量と明日の仕事量を計算して、今日はもう休んでしまおうと決定したところで瞼がゆっくりと降りてきた。微睡んできた意識の奥で不意に蘇ってきたのは、もうあまり顔も思い出せない母親の姿だった。
◆◇◆
母と子だけが住むには広すぎる屋敷の中で、その子供は部屋の隅に縮こまるようにして膝を抱えていた。食事は満足に与えられていたし、衣服だって溢れるほど与えられていたが、その子供が持っている物はそれだけだった。その子の母は彼をいないもの、もしくは、小間使いとして扱うだけで、母親としての愛情を注ぐことなく、毎夜男を連れ込んでは彼らが寝るはずだった寝台で事に及んでいた。母のあられもない声を耳を塞いで耐え抜く。そんな夜はもうすでに日常と化していた。
その母親は自分を着飾るのが好きな女性だった。クローゼットの中には高価なドレスが溢れていたし、化粧品だって化粧台に乗り切らないぐらいには所有していた。貴族の子供として生を受けたのに、彼女に与えられた地位は公爵の妾という大変不名誉な物だった。その鬱憤を晴らす為なのか、彼女の金使いは凄く荒かった。一度着たドレスに二度と袖は通さなかったし、宝石だってありったけ買い込んでは吐き捨てるように部屋の隅に転がしていた。それを拾って元の位置に仕舞うのは毎回その子供の役割で、一つでもなくなると、母親は激高してその子供を殴った。自分の子供だというのに、まるで親の敵を見るような目でその母親はその子を見る。そんなことも日常茶飯事だった。
ある夜、その子供は高熱に見舞われた。朦朧とする意識の中で、彼は唯一の肉親である母親に助けを求めた。彼女は自分をないがしろにはするが、決して命を奪おうとはしない。彼女にとって自分の命は価値がある。子供ながらにそう気づいていたから、その子は母親に助けを求めた。もうすでに、そこには母と子としての絆は無かったが、それでもその子供は母親が自分を助けると信じて疑わなかったのだ。
『死ぬんじゃないわよ! この役立たずがっ!』
そう言って投げつけられたのはいつも食べている麦のパンで、彼は絶望に打ちひしがれながらそのパンをかじり、這いつくばって水場に行き、喉を潤した。二、三日そうしているうちにだんだんと熱は引いてきたが、代わりに胸の奥にはどす黒い靄が生まれた。
それはとてつもない嫌悪感だった。
「馬鹿な奴だ。女なんかに少しでも期待するからだ」
ヴァレッドは過去の映像を眺めながらそう言った。目の前には嫌悪感に顔を歪める子供の頃の自分がいる。思い起こせば、この時初めて女性に対して嫌悪感を持ったのだ。
「まぁ、別にあの頃だって、あの女が甲斐甲斐しく世話をしてくれるとも思っていなかったんだがな」
ヴァレッドは諦めたようにそう笑い、滑稽な子供の頃の姿を片腕でかき消した。何度も何度も繰り返し見た夢はもうすり切れそうなぐらいで、曖昧な部分も多い。けれど、あの高熱を出したときの絶望感は、いつまで経っても色褪せなかった。
子供の頃の自分が掻き消え、白い煙になって辺りを覆うと、その煙からいい匂いが香ってきた。鼻腔を擽るのは夢にしてはあまりにもリアルな食べ物の匂いだ。かぼちゃのような野菜の甘い香りがする。
おかしいな、と思ったときにはヴァレッドの意識は覚醒していて、緩やかに瞼を開けると鈴の鳴るような声が耳朶を打った。
「あら、お気づきになられましたか? 体調はどうです? 食欲はありますか?」
「は? ティ、ティアナ!?」
視界の端に映った人物を思わず二度見してヴァレッドは固まった。その手にはお盆に乗ったスープが揺らめいている。ヴァレッドが慌てて起きあがると、彼女は嬉しそうに寝台の傍らに膝を突いた。スープはいつの間にかサイドテーブルの上に置いてある。
「お体の調子は?」
「……大丈夫だ」
「食欲はおありですか?」
「まぁ……」
「よかった!」
今にも跳ね上がるんじゃないかというぐらい喜んで、ティアナはそろそろとスープを差し出した。
「私が作ろうとも思ったのですが、失敗してしまって……。これは料理長さんに作っていただきました。なので、味は保証つきですわ! 私も少し味見しましたけれど、とっても美味しかったです!」
「……状況が掴めないんだが、なんで君が此処にいるんだ?」
そのスープを受け取りながら、ヴァレッドは訝しげにそう聞いた。その言葉にティアナの顔色は一気に悪くなる。
「ヴァレッド様っ! 記憶が不確かなのですか!? それほどまでに体調が……。すみません。私が気づかなかったばかりにっ!」
「いや、記憶は確かだ。君が変な勘違いを起こして俺を寝台に押し付けた事も、そのくせ、あっけなく出ていった事もちゃんと覚えている。俺が聞きたいのは何で出ていった君が今ここに居るのかだ。まさか俺の看病をするために戻ってきた訳じゃないだろう?」
『何が目的だ』と言外に言いながら、疑いの眼差しをティアナに向けると、彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。
「そのまさかですが?」
「は?」
「私はヴァレッド様の看病をするためにここにいるのですが?」
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