妖精の彼女と空中浮遊

多摩川多摩

飛べない人間は、なんだろう?

「旅をしよう」


 俺が彼女にそう言ったことが、話の始まりだった。

 唐突な発言に、彼女は小首を傾げる。

「なにそれ」

 彼女は小さな小さな妖精だった。体は俺の広げた手のひらよりも小柄で、腕も俺に比べると丸太と糸のようだった。

 彼女は体躯に見合った羽をはためかせて、俺の目の前を飛んでいる。風がないためか、その飛行は非常に安定していた。ここは俺の家の中だった。

「言葉の通りだよ。折角の夏休みなんだし、俺と君とで旅に出ようっていうハナシ」

「嫌よ。この暑い中、どうして外に出てかないとダメなの」

「残念だけど、今日の最高気温は27度だ」

 夏休みといっても、すでにカレンダーは九月になっていて、さらには下旬の域へと入り込んでいた。ここ最近の長雨のおかげか、昨日にはもう秋らしい爽やかな陽気が訪れている。

「……暑いったら暑いのよ」

 まるで自分の意見を曲げるのが死んでも嫌なように彼女は呟く。

「じゃあ君を氷の入ったクーラーボックスへと案内しよう」

「殺す気? 殺す気なの?」

 次は刺すような視線をこちらへとぶつけてくる。

「嘘だよ。口からでまかせ」

「知ってる……あんたってどうしようもなく気まぐれで適当だから」

 羽休めのように彼女は机の上に座った。浮いた足をぶらぶらとさせながら、じとりとした上目をこちらへ向けてくる。表情こそ明るくないけれど、機嫌は悪くないのかもしれない。

「正解」

 俺が『旅をしたい』なんて言い出したのも、昨日ふとそうしたいと思ったからだった。それ以上でもそれ以下でもない。


「で、 車も原付も免許もないあんたが、どうやって旅するの?」

「そりゃもう、バイクに決まっているじゃないか」

 俺は窓の外に見えているそれを指差した。

「世間ではそれをバイクではなく自転車と呼ぶのよ」

 あ、ちなみに俺が指を向けているのは通称マウンテンバイクというものだ。つまり、エンジンをかければ進む、というわけではない。

「俺は世界に目を向けてるからね。英語も達者なのさ」

 嘘である。

「はぁ……たかが自転車で、どこまでいけるのよ」

「どこまでもさ」

 俺の筋肉が持つ限り。我ながら、筋力に自信はないけれど。

「とりあえず、海を目指すけど」

「三百メートル南を目指すのね……」

「意外と海が近いのはネックだね」

 といっても、旅なのに目的地を決めるのは如何なものだろう。

 海に行ったあとは、行き当たりばったりでもいいかもしれない。俺にはそれが一番向いている気がした。


「それじゃあ、行こうか」

 俺は寝間着から私服に着替えて、彼女のほうに声をかける。一応財布はズボンのポケットに入れたけれど、それ以外のものを持つつもりはなかった。

「あたしは行くって言ってない」

「そうなの? 俺は完全に君が一緒に来ると思って話していたんだけど」

「そういうところが……もういい」

「やめとく?」

「あんたが一人で旅に行って帰ってこなかったらしんぱ……いや、めんどくさいから。一応付いてってあげる」

 いつだって彼女は上から目線だ。彼女は羽を揺らして、扉のほうへ飛んでいった。


 マウンテンバイクは風を切る。午前十時の風はとても心地よかった。

 最高気温の27度にも達していないのだろう。この夏で一番涼しいといっても過言ではない。10分ぐらい漕いでいても、汗が出る気がしない。視界の向こうには海が見えてきた。

 少し速いスピードで自転車を漕いでいる俺の横に、ぴったりと彼女は付いてきた。体を一直線にし、時に羽をはためかせながら高度を保っている。

「遅くない? また体力落ちた?」

 彼女は俺のほうに視線を傾けて言った。俺も彼女のほうを向く。

「体力の維持は無理だから。高校と違って、大学では体育は取ってないんだよ」

 けれど、なんとなく悔しくて俺はスピードを上げた。

 ――その時、気付いた。いつの間にか、俺が、いや俺の自転車は浜のすぐそこへとたどり着いていることに。

 気持ちも見ている場所も灰色。自転車は灰色の岩の防波堤へと乗り上げる。

 その時、間違いなく俺は飛んでいた。自転車と一緒に1回転をする。

 足からペダル、手からハンドルが抜けていく。自転車が離れる。体は落ちる。落ちる。落ちる。

「嘘でしょ!?」

 どこからか声が聞こえた。聞きなれた声だった。空を飛ぶという彼女の感覚が、少し分かった気がする。

 飛べないブタは、ただのブタだ。じゃあ、飛べない人間は、なんだろう?

 俺は考えに至らないうちに、砂浜へと追突した。旅なんて、始まりすらしなかった。

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