第44話『ありがとう』

 全ての音が遠くに聞こえる。

 響いてくるのは、息遣いと鼓動だけ。

 頭の中を、様々な感情が駆け巡っていく。


 これが夢なら早く覚めてくれ!


 僕は強く願った。

 でも、当然ながら目の前の現実は消えて無くなることはない。

 どんなに願っても、腕の中のミサキの苦しみを消すことは出来なかった。


「そう、待機してる救急車を、こちらに回してくれ!

 患者は高校生の女性、心臓弁膜症ということだ」


 1人の警官が無線で救急車を呼ぶ。

 それを横目に、ミサキの父は着ていた上着を床の上に広げた。


「キミッ、ミサキをここに!」


 ミサキのお父さんが僕を呼ぶ。


「キミッ!」

「あ……は、はい」


 2度目の呼びかけで我に返った僕は、その言葉に従い、ミサキを上着の上に寝かせた。


「ミサキ、ミサキッ!!」


 取り乱した様子のお母さんは、必死に愛娘の名前を叫ぶ。

 だけど、返事はない。

 ミサキは瞳を閉じたまま。

 額に脂汗をにじませ、血の気のない顔色で荒い呼吸を繰り返している。


「こ……こんなに酷い発作は初めてだ……!」


 ミサキのお父さんは、吐き捨てるように言った。

 拳が、強く握り締められる。


 僕のせいなのか……?

 合宿所でも、そして今も……

 ミサキに負担を与えていたんじゃないか……!?

 発作の原因を作ったのは……僕なんじゃないのか……


 激しい虚脱感が襲い来る。

 僕は、呆然とその場に立ち尽くしていた。




 ほどなくして、救急隊員が到着した。

 すぐさまミサキは担架に乗せられ、手動式の人工呼吸器がつけられる。


 ダメだ……

 ミサキの顔が見られないよ……


 激しい自己嫌悪の念が僕を襲う。

 顔を上げることが出来ない。


 僕は……

 僕は……


 強くつぶった瞳から涙がこぼれ、手の甲で弾けた。


 そのとき――


 下ろした手に伝わる、かすかな温もり。

 僕は、驚き顔を上げた。

 涙でかすむ目に映った、白く細い指先。

 それはミサキだった。

 彼女は、うるんだ瞳で僕を見ている。

 その口が、静かに動く。


「…………」

「えっ……」


 そして、優しく微笑んだんだ。


「ミサキ、僕は……!」


 僕がミサキの手を握ろうとした瞬間――

 その手は、すり抜けるように下に落ちた。


「マズい! このままでは心肺停止の恐れがある!」


 救急隊員の声が響く。


「車内のAEDをスタンバっておけ!」

「急ぐぞ!」


 ミサキが車輪付き搬送用ベッドストレッチャーで、救急車へと運ばれていく。

 もはや、一刻の猶予も許されない状況だというのは、素人の僕でもわかった。


「ああ……ミサキ……あなた、ミサキが……」


 涙が止まらないミサキのお母さん。


「大丈夫、きっと大丈夫だから……」


 ミサキのお父さんは、泣きじゃくる妻を強く抱きしめた。


「我々も行こう」

「はい……」


 寄り添うように支え合い、2人は救急隊員の後を追いかける。


「ミサキ……」


 僕はゆらりと立ち上がった。

 ミサキが遠ざかっていく。


「何で……」


 思わず言葉が漏れた。


「何で笑えるんだ……」


 だが、僕の問いに答える者は誰もいない。

 僕は姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 今も手に残るミサキの指の温もり。

 それは、ミサキが触れた紛れも無い証拠で……

 ミサキが見えなくなっても、ずっとこの手に残り続けていた……




 その後、僕は警察署に連行されることとなった。


「これだけの騒ぎを起こしたわけだし、署の方で話を聞かせてもらう」


 抵抗する力も意味も無くした僕は、素直に警官に従った。


「お兄ちゃん!」


 涙を流しているエリカ。

 その前を、うつむいたまま通りすぎる。


 今の僕に、口に出来る言葉は何もなかったんだ……




 駅構内から出ると、そこにはクラスメートたち、そして、カメラを構えた記者たちがいた。

 これだけ騒ぎになったんだ、マスコミが来るのも当然だろう。


「テメェ、なに撮ってんだよ!」

「彼を撮ることは、委員長である私が許しません!」

「キャア痛い!

 だ、だ、だ、誰だ、僕を突き飛ばしたヤツはぁぁぁぁぁ!!」


 クラスのみんなが、心ないカメラのレンズから僕を守ろうとしてくれている。


 みんな、ごめん……


 喧騒の中、警官に促されパトカーに乗り込もうとしたとき……


「ガク!」


 背中越しにかけられたレイジの声に、僕は一瞬動きを止めた。


「俺は……走りきったお前を誇りに思うぜ!」

「レイジ……」

「ほら、乗らんか!」


 動きの止まった僕は、再び警察官に促されてパトカーに乗り込んだ。

 ゆっくりと走り出すパトカー。


「ガク!」

「ガクーッ!」


 みんなが口々に僕の名を叫ぶ。

 その声に、思わず後ろを振り返った。

 そこには、必死に車を追いかけてくる仲間たちの姿があった。


「みんな……」


 でも、それも次第に遠ざかってゆき――

 そして、やがて完全に見えなくなった。


「いい友達を持ったな……」


 隣りの警官が言う。


「はい……」


 僕は、ゆっくりと前を向いた。


「僕には……もったいないくらいです」


 さっきまでの喧騒が嘘のように静かな空気。

 パトカーは、ただひたすら警察署を目指して走り続けた。






 それから数時間後、僕は解放された。

 罪状は免許証不携帯。

 罰金は3000円。


 無免許恋愛より遥かに軽い罪だけど、一連の騒動のこともあり、きつく叱られた。


「本当に申し訳ありません」


 迎えに来てくれた両親は、ひたすら頭を下げていた。




「心配したのよ!」


 警察署の廊下に、母さんの声が響く。


「物事には、ちゃんと順番があるんだから!」

「うん……ごめん……」


 うつむいている僕に、母さんはため息をつく。


「もう……あなたからも、何か言ってやってよ」

「うむ……」


 母さんの言葉を受け、父さんが一歩僕に近付いた。

 厳格で無口な性格の父。

 最近は、父とあまり会話をしていない気がする。


「それで……どうだったんだ?」


 父さんは、物静かに尋ねてきた。


「……どうって?」

「想いは、伝えられたのか?」

「うん……まぁ……」

「そうか……」


 父さんはそう言うと、1度だけ僕の頭を無造作になでた。

 そして、きびすを返すと先頭を切って歩き出す。


「あなた、ちょっと! んもう……」


 その後に母さんも続く。


「父さん……」


 久しぶりに感じた父の手。

 それは、昔と変わらず大きくて温かかった。


 赤かった空の端も、静かな紺色に染まる。

 訪れる夜の闇に、街は明かりを点す。

 警察署の外は、すっかり暗くなっていた。

 外灯に照らされ浮かび上がる2つの影。


「ずっと待っててくれたのよ」


 そう言って、母さんは僕の背中を優しく押した。


「ガク!」

「お帰り、ガク!」

「レイジ……マキ……」

「あんな逮捕だったのに、意外と早く解放されたな」


 笑うレイジ。

 その脇腹に、マキの肘打ちが決まる。


「あっ、マスコミのことなら気にしないで」


 地面を転がるレイジを横目にマキは言う。


「未成年ということもあるし、カズマのお父さんが根回ししてくれたから」

「そ、そうそう、だからニュースの扱いはかなり小さくなるはずだぜ」


 脇腹を押さえ立ち上がったレイジも、その後に続いた。


「カズマの親父って、警察の中でも上の方なのな。そのおかげで……」

「ねえ!」


 僕は、レイジの言葉を遮って口を開いた。


「ミサキは!? ミサキはどうなったの!?」


 僕の言葉に、レイジの顔から笑みが消えた。

 二人は顔を見合わせる。

 その後、マキは力無く首を振った。


「わからない……」

「わからない!?」

「病院で緊急手術をしてるみたいなんだけど……」


 一瞬、言葉を詰まらせたマキは、絞り出すように続けた。


「容態は良くないみたい……」

「そんな……」


 全身の力が抜けていく。

 立っていることすらできずに、僕はその場に両膝をついた。


「だ、大丈夫だよ、ガク! きっと助かるさ!」


 レイジが、慌てて僕の背中を叩いた。


 ミサキは、ずっと無理をしていたに違いない。

 苦しかったに違いない。


「なのに……なんで笑えるんだよ」

「……ガク?」

「ミサキは……笑っていたんだ……」


 そして僕は、あのときのことを、ぽつりぽつりと話し出した。


「あんなに苦しそうだったのに……ミサキは微笑んだんだ……」


 僕は手の甲を見詰める。

 そこは、ミサキの細い指が触れたところだった。


 ミサキの微かな声が蘇る。


「小さな声で……『ありがとう』って言ったんだ……」


 涙で世界がにじんでいく。

 僕は、頭を振った。


「苦しかったはずなのに……なんで……なんで……」


 風が吹き抜ける。

 夜の風は頬をなで、僕たちの髪を揺らした。


「きっと、嬉しかったのよ……」


 風の中で、マキは静かに口を開く。


「……嬉しかった?」


 聞き返す僕に、マキは優しくうなずいた。


「ガクは、ありのままのミサキを抱きしめたから。

 そう、心ごと全て……

 あの子は、きっとそれが嬉しかったんだと思う」


 マキは、風に揺れる短めの髪を押さえ、静かに微笑んだ。


「そこには病気も何もない……2人だけの空間があったんだろ」

「レイジ……」

「2人は、やっと繋がることができたんだ」


 目を細めるレイジ。

 その言葉に、僕はうつむいた。


「もし、そうだったとしても……

 ここに、ミサキがいないんじゃ意味がない……

 何が正しいかなんて……僕にはわからないよ……」


 何が正しいか――

 いや、正しい答えなんて求めていない。


 ミサキが隣にいて……

 そっと微笑んでくれる。

 それだけで、僕は満足だったんだ……


 夜は静かに――

 ただ静かに更けていく。




 その後、ミサキは――

 僕たちの元に帰ってくることはなかったんだ……

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