第29話『キセキ』

 静寂――


 薄闇の中、音を発する者は誰もいない。


 僅かに灯った明かりが照らし出す空間。

 それは、なんとも幻想的な光景だった。


 僕たちは皆、一様にステージを見詰めている。

 そこに見えるのは、4人の影。

 この闇の中では、表情を計り知ることは出来ない。

 だけど、緊張感だけは肌を通して伝わってくる。


 果てしない静寂――


 いつまで続くともわからない時に、僕は思わず固唾を飲んだ。


 ――ゴクリッ!!


 予想以上に大きな音が響いた。




 壁の時計が、PM8時半を指す――


 その瞬間、3つの影が動いた。


 激しく掻き鳴らすギターの旋律。

 重低音で響き渡るベースの調べ。

 躍動する命のようなドラムの鼓動。

 客席の誰もが、その演奏に釘付けになる。


 あまりの迫力に、僕は息をすることすら忘れていた。

 そして、僕たちが見詰める中、最後の影が動いた。


 艶やかでノビのある声。

 だけど、力強い声。


 その歌声を合図に、ステージの照明が輝く。

 現れるNOZAELノザエル

 割れんばかりの歓声。

 客席の興奮は、一気に最高潮へと昇り詰めた。


 人々の視線と歓声を一身に浴び、ヒカルさんは高らかに歌う。


「凄い……」


 色とりどりの照明を受けて輝く4人に、僕の口から感嘆の吐息が漏れた。


 さっきやってたバンドも、色々な意味で凄いと思ったけど……

 こうしてNOZAELノザエルのライブを見てしまった今、それはもう霞んでしまう。


 歌、演奏、曲、演出――

 その全てにおいて、圧倒的に抜きん出ているのが、素人の僕でもわかった。


 激しくも壮大なロックの調べに、心底酔いしれる。

 至福の時。


 だけど、その時もやがて終わりを迎える。

 激しく奏でられる楽器たちを背に、ヒカルさんはうやうやしくお辞儀をした。


 僕は、そのとき初めてずっと拳を握り締めていたことに気が付いた。

 握った手は、固まっていてなかなか解けない。


「あれ? このっ!」


 そうやって、ようやく開いた手は汗でジットリ濡れていた。


「す、凄いね……」


 曲が終わったのを確認してから、僕は左隣のミサキにそっと話し掛けた。

 しかし、ミサキからの返事はない。

 彼女は、ただジッとステージを見詰めている。


 いや……

 正確には、ステージでギターを奏でるナオ先輩を見詰めているのだろう。


「ミサキ……」


 憧れだった先輩には好きな人がいて……

 自分にはどうすることも出来ない。


 その苦しみ、悲しみは痛いほどわかる。

 自分を見てもらえないことの悲しみ。

 伝えることの出来ない苦しみは、僕が身をもって経験しているから。


 ――そう……

 今、この瞬間ときも……


 僕がミサキの横顔を見詰める中、2曲目が始まった。

 2曲目は1曲目ほど激しくはないけど、ノリのいいアップテンポのもの。


 目まぐるしく色を変える照明が反射して、ミサキの顔も様々な色に輝いていた。

 大いに盛り上がったその曲も終わると、ヒカルさんは笑顔を浮かべてグルッと客席を見回す。


「こんばんは、NOZAELノザエルです!!」


 再び巻き起こる歓声。


「あ~……」


 その歓声を受け、ヒカルさんの口が開いた。


「やっぱり、ここで喋るのだけは慣れませんね」


 少し恥ずかしそうに笑う彼女に、客席から笑いが起こる。


「ヒカルは、普段だってちゃんと喋れないぞ」


 ベースの人のクールな突っ込み。


「う、うるさいよ!」


 そのやり取りに、店内は爆笑の渦に包まれる。


 ヒカルさんは、MCも完璧だった。

 面白く楽しく喋りつつ、要所要所は締める。

 その話術は、プロのアーティストのライブMCを見ているかのようだった。


「ちなみにMCとは"Masterマスター ofオブ Ceremonyセレモニー "の略のこと」


 ヒカルさんは人差し指を立てる。


「本来の意味は『司会者、進行役』なんだけど、音楽や放送業界の中では曲の繋ぎのトークをこう呼ぶことが多いようです」


 なるほどー!!


 と、人々は深くうなずいた。

 ヒカルさんはその反応を確かめると、ゆっくりと口を開く。


「それじゃ……そろそろ3曲目いくね!」


 客席から、また歓声が上がる。


「えーと、次の曲はバラードなんだけど……」

「待ってたよー、嘔吐感ー!」


 その瞬間、ミサキの隣にいたリオさんが叫んだ。


「ちょ……!!」


 その声に、ヒカルさんは顔を赤らめる。


「ったく、もう……」


 いたずらな笑顔でVサインを繰り出すリオさん。

 ヒカルさんは苦笑すると、再び視線を正面に戻した。


「残念ながら、この曲は私が歌うんじゃないの」

「えーっ!?」


 驚きの声が、客席から響いた。


「悪いな、これは俺が歌うんだ」


 不意に聞こえる声。


「ナオ!?」


 客席のどよめきをよそに、ナオさんはステージの端にセッティングしてあったキーボードのところに移動する。


「この曲は、俺が昔、作った曲なんだけど……」


 その言葉に、ミサキの肩がピクンと揺れた。


「今回、バンドのメンバーの力を借りて完成することが出来ました」


 客席から拍手が起こる。

 ナオさんは、ゆっくりと視線を巡らせた。


 彼の瞳は僕を通り越して――


「今の俺の全てを込めて歌います」


 そして、一点を見詰める。


「聞いて下さい――『キセキ』」


 沸き上がる歓声。


「やったじゃん、ミサキ!」


 僕は、隣りのミサキを突っついた。


「『キセキ』って、前に先輩が作ってくれた曲でしょ?」

「う、うん……」

「今、ミサキのことを見て言ったよね! これは……想いが届いたんじゃない?」


 ナオさんが、ミサキに乗り換えることだって十分考えられる。

 リオさんには悪いと思うけど……

 でも、ちゃんと別れてからなら、乗り換えは法律違反じゃない。


 自分の気持ちを押し殺し、僕は明るく振る舞う。

 だけど、ミサキの表情は曇ったままだった。


「……ミサキ?」

「あ……ううん……」


 ミサキは僕に笑ってみせる。

 でも、心なしか、その笑顔には力がない。


 対照的に、ミサキの隣りのリオさんは元気いっぱいだった。


「ねえ! あたし、ちょっと前に行ってくる!」


 笑顔でそう言うなり、ひょいひょいと人混みを掻き分けて前に行く。

 そして、あっという間に最前列へと辿り着いた。


 その姿を見届けてから、ナオさんの指がゆっくりと動き出す。

 静かなるピアノの調べ。


 それは、どことなく切なくて――

 ナオさんの想いが溢れ出すかのようだった。


 そして、それに合わせてベースとドラムが入る。

 ヒカルさんは、ギターとコーラスで参加するようだ。

 スタンドマイクの前で微笑む彼女は、女神のようにも見えた。


 曲は、深みと厚みを迎えてイントロを奏でる。

 その調べに皆、うっとりと聞き惚れていた。


 ただ1人を除いては……


 ミサキは、僕の隣りで下唇を噛み締めている。


「ミサキ……」


 曲が進むにつれ、ミサキは次第にうつむいていく。

 その表情には、ありありと悲しみの色が浮かんでいた。


 なんで……

 なんで、そんな顔をしてるんだ!


 僕が知らない何かがあるというの!?


 今、僕がしてあげられることは……


「くっ!」


 僕は前をにらんだ。

 そこにはステージが、そしてナオ先輩がいる。


「ミサキ……!!」


 僕は、ミサキの手を握った。

 不意の出来事に、彼女は驚きと戸惑いの表情を浮かべる。

 だけど僕は、それを無視して言った。


「前に行こう!」

「えっ……」

「行くよ!」


 そして僕は、ミサキの手を引いて人混みを掻き分ける。


 この歌は……

 この歌だけは、ミサキは最前列で聴く権利があるんだ!!


 だけど、僕の想いに反して、なかなか先に進めない。


 こんなこと!

 こんなことって――!


 胸の中に焦りと苛立ちが高まって、僕はもう泣きそうだった。


 ステージのナオさんは、ゆっくりと口を開いた。

 静かな歌声が、ライブハウスの中に流れ出す。






『キセキ』


 あどけない顔で笑う 君に惹かれていったんだ

 教室の隅 そっと目で追いかけてる


 色んな言葉が浮かんでは どこかに消えていく

 僕の頭の中 ぐちゃぐちゃに掻き乱す


 言葉に出来ない 溢れるこの想い

 少しだけ踏み出せばいい



 抱きしめたい 溢れる想いのままに


 この僕の胸の中に

 大きな愛が刻まれていく


 この街で 君と出逢えた奇跡

 僕は生涯 忘れはしないだろう






 切なくも優しい歌声。

 ナオさんの想いが、心に染み込んでくる。


 それだけに、焦りの気持ちがどんどん高まっていく。


 早く前に行かなくちゃ!


 僕たちはまだ客席の中程。

 人込みをかき分け、最前列に出るのには、まだ少し時間がかかりそうだ。


「くそっ……!」


 曲は1番が終わり、今は間奏だ。

 2番が始まるまでに、どれだけ前に進めるか……!


 そう思った瞬間、繋いだ手が後ろに引かれた。


「……えっ?」


 振り返る僕。


「……ミサキ?」


 彼女は、うつむき立ち止まっていた。


「どうしたの?」


 僕の問いに、ミサキはゆっくりと顔を上げる。

 その顔は微笑んでいた。


「ミサキ?」


 僕は、その微笑みに違和感を覚え、もう一度名前を呼んだ。

 ミサキは微笑みを浮かべたまま、小さく口を動かす。


「……ゴメンね」


 その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 彼女は、その涙を隠すように拭うと、僕の手を振りほどいた。

 そして、きびすを返すと、人混みの中を走り出す。


「ミサキ!!」


 突然の出来事に、僕は戸惑いを隠せない。


 どうしたんだ!?

 一体、ミサキに何があった!? 


 愕然とする僕が見詰める中、ミサキはライブハウスから飛び出していく。


「なんで……なんでなんだよーっ!」


 我に返った僕は、叫びながらミサキを追い掛けた。


「す、すみません、通して下さい!」


 謝りながら人混みを掻き分ける。

 そして、出口に辿り着いた僕は、勢いよく扉を開けて外に飛び出した。


 だけど……

 そこに、ミサキの姿はなかった。


「ミサキ――ッ!!」


 僕は叫ぶ。

 しかし、返事はない。


 ただただ、僕の声が夜空の雲に吸い込まれていく。


「どうしたんだよ、いきなり……」


 わけが分からない。


「でも……でも、探さなきゃ!」


 ライブハウスの前の道路の脇には、フェンスを挟んで線路が通っている。

 とりあえず、僕はその線路に沿って走り出した。


「ミサキ――ッ!!」


 僕の叫びが虚しく木霊こだまする。


 こっちでいいのか!?


 僕の胸に不安がよぎる。

 だからと言って、足を止めることは出来ない。

 僕は、走り続けた。

 視線の先に、踏切が見える。


「……あっ!!」


 そこを渡る人影。

 走る足に力が入った。


「ミサキ――ッッッ!!」


 そう、それはミサキだった。

 僕の声が届いたのか、彼女は踏切を渡ったところで立ち止まった。


 もうすぐ……もうすぐ追い付く!!


 だけど、僕の想いを裏切るかのように、踏切は警笛を鳴らしはじめた。


 カンカンカン……


 音が、やけに頭に響く。

 僕が踏切に辿り着いたときは、すでに遮断機が2人の間を割っていた。


「ミサキッ!!」

「ガク……」


 振り返るミサキ。

 その声は、踏切の音に掻き消されてしまいそうなくらい弱々しかった。


「どうしたんだよ!?」


 僕は、遮断機越しに叫ぶ。

 ミサキの口が、静かに開いた。


「ガクは……先輩が歌う前のトークで、私のことを見てたって言ったよね」

「ああ……うん、言った」


『今の俺の全てを込めて歌います』

 そう言ったときのナオ先輩は、確かにミサキのことを見ていたはずだ。


 だけど、ミサキは首を横に振った。


「違うの……」

「……えっ、違う!?」

「先輩の視線は、私も通り越していた……」

「えっ!?」


 ミサキの隣りにいた人は……


 そして、僕はハッとした。


「リオさんか……」


 ミサキは黙ってうなずく。


「で、でも、思い出の歌だって! そう言って歌ってくれたじゃないか!」


 だけど彼女は、また首を横に振った。


「それも違う……」

「違うって何が!」

「あの歌……歌詞が変わってた……」

「え……」


 ミサキは、体の横に付けた手を強く握り締める。


「それ……ミサキの聞き間違いとかじゃ……」

「聞き間違いなんかじゃないっ!」


 頭を振るミサキ。


「私が好きって言ったフレーズあるでしょ」


 ミサキが好きと言っていた箇所。


『この街で 君と過ごしてきた軌跡

 僕は生涯 忘れはしないだろう』


 1番のサビのラストだ。


 たとえ遠く離れても、自分と過ごした日々を忘れないと言ってくれてるようで……

 凄く嬉しかったんだと、ミサキは言っていた。


「あそこね……

『この街で 君と出逢えた奇跡』

 に変わってたんだよ……」

「えっ……」

「先輩の中に、もう私はいないの……

 彼はもう、リオさんしか見えてないから……」

「ミサキ……」

「だから、歌詞もリオさんの為に変えたんだよね……」


 彼女は夜空を見上げた。


「あーあ、あの歌詞だけは変えないでほしかったなー」


 悲しげに笑うミサキの顔が、僕の胸に突き刺さる。


「ミサキ、今行くから!」


 でも、僕たちの間には遮断機がある。


「くそっ! なんで電車も来ないのに、さっきから遮断機が下がりっぱなしなんだ!!」


 僕は、苛立ちを隠せずに叫んだ。


「ここ……駅が近いから……」


 左を見るミサキ。

 その視線の先には、小さな駅と電車のライトが見える。


「駅に電車が来ると、遮断機が降りちゃうのよね……」


 いわゆる開かずの踏切ってヤツか!!

 くそっ、こんなときに……


「ガク……」


 ミサキは、僕を真っ直ぐに見詰める。


「私……覚悟を見せてあげるって言ってたのに……

 全然ダメだったね……」

「そんなこと、気にしなくても……」

「ううん……ゴメンね……」


 そう言って謝るミサキは、今にも消え入りそうなくらい小さく見えた。


「で、でも、諦めないで頑張り続ければ……」


 僕の言葉に、ミサキは小さく笑う。


「だめだよ。そんなことしたら、恋免の一方通行違反になっちゃう」

「そ、それは……」

「それに……

 そんな法律なかったとしても、私にはあの2人の中に入っていくことはできない……」


 ミサキは、微笑みながら頭を振った。


「あの2人の笑顔を裂くなんてこと……私にはできないよ……」

「ミサキ……」


 風が僕たちの間を吹き抜けていく。


「ガク……

 ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」


 その風に乗って、電車が走り出す音が聞こえた。


「私ね……本当に嬉しかった」


 電車は、ゆっくりと加速する。

 ガタンゴトンという音が、次第に近付いてくる。


「ガクが、いつもそばにいてくれたから……私は頑張れたの」


 そう言って微笑むミサキは……


 泣いていたんだ……


「ミサキ、今すぐそっちに行くから!」


 僕は、遮断機に手をかけた。


「ダメだよ……

 遮断機が降りたら、渡っちゃいけないんだから……」

「ミサキ!」

「ガク……ありがとう……」


 ミサキの口がそう動くと同時に、電車が僕の視線を遮った。


 そして――


 電車が通り過ぎた後にはもう――


 そこに、ミサキの姿はなかったんだ……


「ミサキ――ッッッ!!」


 僕の叫びは天高く、夜空の厚い雲の中に吸い込まれていく。

 だけど、誰もそれに応えることはなかったんだ……

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