第26話『夜空ノムコウ』

 僕の手をつかんだまま、ミサキは急な下り坂をグングン進んで行く。


「ちょ……ちょっと待って……」


 呼び止める。

 だけど、その足は止まらない。

 真っ直ぐ前だけを見詰めて突き進んでいく。


「うっわっ……!」


 足がもつれて転びそうになる。


「ちょ……ちょっと待てってば!」


 たまらず、僕はその手を振りほどいた。


「な、なんだよ告白って!」


 ミサキの背中に叫ぶ。


「なんで僕が、そんなの見せ付けられなくちゃいけないんだよ!」


 自分でもビックリするくらい大きな声。


「ミサキは……

 僕の気持ちを、分かってないよーっ!」


 心の中に溜め込んでいたものが、濁流のように一気に溢れ出す。


「だいたい、免許は持ってるの!? 免許もないのにそんなこと……」


 その言葉に、ミサキは振り返った。

 そして、僕のことをキッとにらむ。


「な……なんだよ……」


 思わずたじろぐ僕をよそに、ミサキは手にしていたバッグに手を入れた。

 

 しばしの後……


 バッ!


 不意にバッグから引き抜かれたミサキの手が、僕の鼻先へと迫った。


「うわっ!?」


 殴られる――!?


 咄嗟に目をつぶり、体をキュッと固くする。


 鼻をぶつけたときの感覚って嫌なんだよな……

 ジーンとして、涙が止まらなくて。

 鼻血、出ないといいな……


 ――って、あれ……?


 いつまで経っても伝わらない衝撃に、僕は首をひねった。


「もうっ、ちゃんと見て!」


 ミサキの声が響く。


「え……」


 恐る恐る目を開けてみる。

 僕の目に飛び込んできたもの、それは――


「あ……恋愛……免許証……」

「私は誰かさんと違って、ちゃんと取ったんです!」

「うぐっ……」


 思わずうめく僕。


「な、なんかトゲがある言い方……」

「や……だ、だってガクが……」


 ハッとしたミサキは、免許証を胸の前でキュッと握り締めた。


「ごめん……なさい……」


 つぶやくような、小さな声。

 僕から瞳を逸らし、彼女は力無くうつむいていた。


「……ミサキ?」


 ふと、その肩が小刻みに震えていることに気が付く。


「……ミサキ」


 僕は、もう一度声をかけた。


「ガク……」


 ゆっくりと顔を上げるミサキ。

 その瞳には涙が浮かんでいた。


「ミ、ミサキ!?」

「私だって……怖いんだよ……」


 今にも消え入りそうな弱い声。

 その声は、震えていた。


 そうか……

 そうだよな……


 ミサキだって僕と同じ、先のことはわからない。

 だから怖いんだ……


 僕には、その気持ちが痛いくらいわかる。


「……ミサキ!」


 僕は、ミサキの手をつかんだ。


「ガ、ガク!?」

「大丈夫だよ!」


 そして強く握り締める。


「僕が、ミサキを応援するから!」


 不安、そして驚きの表情を見せていたミサキは……


「だから、頑張ろう! ね?」

「ガク……ありがとう……」


 次第に笑顔を取り戻していった。


「ガクの手って、温かいね」

「あっ! ご、ごめん、つい……」

「ううん、少しこうしてて。

 心が、落ち着く気がするから……」


 その笑顔に、少し照れ臭さを覚えた僕は、


「あは……あはははは……」


 笑いながら、鼻の頭を指でこする。

 少しくすぐったいような、不思議な空気がそこにはあった。


「えへへへ」


 ミサキも、僕と一緒になって笑っていた。


「あ……それでミサキ」

「うん?」


 恥ずかしさを誤魔化すように、話題を変える僕。


「今から、どこに行こうとしてたの?」

「うん……ライブハウス」

「ライブハウス?」


 ミサキは、首を巡らせた。

 長い下り坂の先には、夜の街並みが広がっている。


「先輩ね……今日ライブやるんだ」


 ミサキは、僕の手をつかんだまま歩き出す。

 僕も、その横に並ぶ。


「ほら、先輩、ギターやってるから」

「そういえば……前に言ってたね」

「うん……先輩のバンド、今日がライブの日なんだって」

「ライブかぁ……凄いな……」


 人前に立つことが苦手な僕にとって、ステージに上がって演奏するなんて考えられない。

 改めて格の違いを感じさせられた。


 ……って!

 今は暗くなっちゃダメだって!

 ミサキを応援するって言ったんだろ!

 今だけは、明るく振る舞うんだ!


「……あ、ところで!」


 僕は、努めて明るい声を出す。


「ミサキは、そのライブハウスの場所、知ってるの?」


 ミサキはうなずく。


「中に入ったことはないけど」

「そうなんだ。場所は地図か何かで調べたの?」

「ううん――」


 その言葉には、ミサキは首を横に振った。


「私ね……今のところに引っ越す前は、この街に住んでいたの」

「えっ!?」


 僕は驚きミサキを見た。


「ここに、ミサキが……?」


 僕は、ゆっくりと辺りを見回した。

 眼下に広がる街並み。


 ここが、ミサキの育った場所なんだ……


 そう思うと、少しだけミサキの心に近付けた気がして……

 胸の中に、熱いものが込み上げてきた。


 ……って、待てよ!


 僕は、ミサキを見る。


「も……もしかして、その先輩もこの街に住んでるの?」


 少し照れたように、ミサキはうなずく。


「中学の先輩なの……」

「あ……ああ、そうなんだ」


 喜びが半減していく僕であった。


「ねぇ、ガク」


 そんな僕に気付かず、ミサキは笑顔を見せる。


「私、先輩に詩を褒められたって言ったでしょ」


 微笑むミサキ。


「恋免に合格したら、詩に曲付けてもらえるって」

「う、うん」


 試験前夜の合宿所の中庭で、確かにミサキはそんなことを言っていた。


「だから私ね、これ持って来ちゃったー」


 そう言うとミサキは、バッグの中からノートを取り出した。

 ミサキの詩が書いてあるノートだ。


「前にね、先輩が私の為にって歌を作ってくれたことがあったんだけど……」


 ミサキは微笑む。


「私の詩に曲を付けてもらうのは初めてだから、すっごく楽しみなんだー!」


 とても嬉しそうなその笑顔。


 でも、この明るさは……

 もしかしたら自分自身を奮い立たせるために、そう振る舞っているのかもしれない。


 僕よりも小さな体で……

 僕よりも大きな勇気を出そうとしている。


 そう思うと、彼女がとても健気で、いじらしく思えた。

 思わず、ミサキと繋いでいない方の手を、強く握り締めた。


「ねえ……前に先輩が作ってくれた歌は、どんな感じだったの?」


 歩きながら僕は尋ねる。

 ミサキが不安を忘れられるよう、出来るだけ明るい声で。


「うん。とても素敵な歌だったの」


 その想いに気付いたのか、ミサキは僕に微笑んだ。

 そして、夜空を見上げる。


「ピアノのイントロが印象的な、メロディアスなバラードでね……」

「先輩……ピアノも出来るんだ?」

「うん、凄いよね」


 風になびく髪。

 少し風が強くなってきたようだ。


「先輩、文化祭で歌ってくれて……

 私、感動して泣いちゃった」


 ミサキは、髪を押さえながら恥ずかしそうに言う。


「いい歌だったんだね……」


 僕は、目を細めた。


 ミサキの幸せを願うなら……

 隣りには僕じゃない。

 きっと、その先輩が相応しいんだ……


 沈黙――


 不意に訪れた静けさ。

 2人の足音と風の音だけが、闇の中に響いていく。


 ミサキの心に、僕の入る隙間はない……


 もし、僕の想いを伝えたとしても――

 それは叶わないだろう。


 世の中は、一生懸命になったとしても――

 報われないことがたくさんある……


 僕は、短く息を吐いた。


 でも――


「――ミサキ!」


 僕は叫んだ。


「な、なに? ガク……」

「この恋、叶えよう!」


 そう言って、僕はVサインを突き出した。

 驚きの表情を見せるミサキ。


 だけど、それは次第に崩れていき――


「うんっ!」


 そして、最高の笑顔と共に、ミサキもVサインを突き出した。




 僕は、ミサキのことが好きだ。

 だから今だけは、彼女のために一生懸命になろう。


 僕じゃ、彼女を幸せにすることができなくても……

 彼女の恋を、幸せを応援することはできる。


 今まで、色々なことから逃げ出してきたけれど……

 好きな人のために頑張ることができたなら、僕の中で何かが変わる気がする。




「よーし、ミサキ! 気合い入れていけよー!」

「はいっ!」


 僕たちの声が夜空に響く。


 この声、この想いが、夜空の向こう側……

 遥か遠い過去の、あのときの僕に届けることができたなら……


 でも夜空は、この想いに応えることはなく――

 ただ風だけが、僕たちに強く吹き付けている。


 僕は繋いだミサキの手を、少しだけ強く握り締めた。

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