第24話『涙の色』

 僕はどこに向かうべきなのか

 藤堂家でお世話になりながら、その答えをじっくり探してみたいと思う。


 その決意を胸に、夜は静かに更けていった。






 そして次の日……


「じゃ、行ってくるよ」


 そう言うのは、一家の主人であるコウイチさん。

 彼は、街のスポーツジムで、インストラクターの仕事をしているらしい。


「行ってきまーす!」

「……まーしゅ」


 可愛らしい声を響かせ、子供たちは幼稚園に行く。

 風邪の具合も良くなったユリちゃんは、メグル君と手を繋いで、嬉しそうに園の中に入っていった。




 そんなわけで……


 アパートは今、僕とコトノさんの2人きりという状態だった。


「お願い、ガッ君……」


 静かなコトノさんの声。


「は、はい……いきます、コトノさん……」


 真剣な表情の僕に、コトノさんはうなずいた。


「んっ……こ、こんな感じですか? コ、コトノさん……」

「あっ、もうちょっと……そう、いいわ……」


 2人の声は、狭い部屋の中に響き渡る。


「奥まで……入っちゃったのね……」

「コ、コトノさん、ぼ、僕はもう!」

「えっ、ヤダちょっと早いよ!」

「だ、だって……!」

「まだダメ! もうちょっと頑張って!」

「で、でも、もう……もう――!!」

「――あっ、取れたっ!!」


 ドシーン!


 コトノさんの声を受けて、僕は棚を床に下ろす。

 なかなか大きな音が響き渡った。


「ぜはーぜはーぜはー……」

「ありがと、ガッ君! 棚の下に入った指輪、バッチリ取れたわ」


 そう言って、コトノさんは僕に指輪を見せる。


「そ……それは……よかっ……た」

「んもぅ、これくらいでバテないでよ」


 息も絶え絶えの僕に、コトノさんは軽く笑った。


「そ……そんなこと言っても……これ……結構重かっ……」

「頑張れ男の子!」

「んぐっ!」


 パンと勢いよく背中を叩かれ、それ以上言葉を続けることができなかった。


 でも、これでコトノさんの用事も終わったし、夕方までゆっくり自分探しを……


「よーし、ガッ君!」


 物思いに更けろうとした僕に、コトノさんが元気に声をかけてきた。


「どうしました?」

「うん、ついでに家中の大掃除やっちゃうぞー!」

「えええっ、ついでって……何のついでですか!?」

「細かいことは気にしないの」


 そこに浮かぶ満面の笑み。


「働かざる者、食うべからずだぞ」


 うっ……

 それを言われると辛い……


 でも、お世話になってる恩は返したいと思っていたし……

 こういった形でも力になれるなら、それはそれでいいのかもしれない。


 そんなわけで、僕は風呂掃除担当となった。


「小さい子がいると、なかなか大掃除って出来ないのよ~」

「た、大変ですね」


 キッチン周りの掃除をしているであろう、コトノさんの声。

 僕は、少し大きめの声て返事を返した。


 風呂掃除用洗剤には2種類あった。

 浴槽用と床や壁用の洗剤だ。


 僕はまず、床・壁用のものを手に取った。

 汚れがひどいところには、洗剤をかけてしばらく放置。

 それ以外の部分には、ブラシに洗剤をつけて磨き洗う。


 一連の作業をしながら、僕はまた自問自答を始めた。


 自分に何が出来るのか――

 どこに向かうべきなのか――


 流れ作業のように床や壁を洗いながら、そのことを考えていた。


「僕は今、何がほしいのか……」

「ガッ君~」


 名前を呼ばれ、思わず我に返る。

 振り返れば、入り口にコトノさんが立っていた。


「コトノさん?」

「ガッ君がほしいのは、コレでしょ」


 そう言って差し出すもの。

 それは、使い古しの歯ブラシだった。


「あ~、コレ! 助かります!」


 受け取った歯ブラシで、細い溝をこする。


「うん、やっぱり細かいところは歯ブラシだよな~」

「それじゃ、よろしくね~」


 手を振りながら、また持ち場へと戻るコトノさん。


「おおおっ、溝がこんなにピカピカになった!」


 自分探し当初の目的を忘れ、無邪気に喜ぶ僕であった……






 そんな大掃除も午前中いっぱいで終わりを迎えた。


「それじゃお昼にしましょう」


 そう言って、コトノが用意してくれたものは素麺そうめんだった。

 喉越しの良い麺は、ツルツルと滑るように胃の中に吸い込まれていく。

 掃除で汗を流したばかりの僕には、素麺のさっぱり感がとても心地好かった。


「ただいまー」


 そこに、仕事を終えたコウイチさんが帰ってきた。


「お帰りなさい、早いんですね」

「ああ、今日は午前中上がりだからな」


 白い歯を見せて、ニカッと笑うコウイチさん。


「おっ、今日の昼は素麺か……コトノ、俺の分は?」

「向こうにまだ少しあるけど……あなた、お昼食べなかったの?」

「もちろん食べたさ!」

「なんで威張って……それじゃちょっと食べ過ぎなんじゃないの?」

「ははは、大丈夫!」


 ジトッとした視線を送るコトノさんに、コウイチさんはニカッと笑う。


「この後、食後の運動も兼ねて、軽く走ってくるつもりだからさ」






「それじゃ、行って来るよ」


 と、ジャージに着替えたコウイチさんは、嬉嬉として走り出す。


「なんで僕まで……」


 その後ろに、同じようにジャージに着替えた僕が続く。


「そりゃ、1人で走るより、2人で走った方が楽しいからなぁ」

「そ、そうかもしれませんけど!」

「気を付けてね~」


 ベランダでは、コトノさんが手を振り見送ってくれていた。




 コウイチさんは山の方に向かって走る。

 路面は舗装されていたけど、所々ヒビや隆起がある。

 それは、この道が出来てかなりの歳月が経っていること物語っていた。


 その上を快調に飛ばしていくコウイチさん。

 その後ろに続く僕。


「おっ、兄ちゃん、なかなか足が速いじゃないか」

「中学のときは陸上部だったので」


 専門は長距離ではないけれど、走ることはただ純粋に好きだった。




 懐かしいこの感じ……


 風を切る感覚。

 熱い鼓動。

 酸素を乗せた血液が、全身に巡っていく。


 ちょっと前に、野犬に追いかけられて走ったけど……

 当たり前だけど、そのときとは全く違う。


 流れる景色を楽しみながら走るこの感じ――


 陸上部の練習で、学校の外を走ったときのことを思い出していた。


 あの頃は楽しかったな……


 いつも、速く走る為にはどうしたらいいかを考えていて……

 毎日が充実していた。


 でも……


 あの事件があって、僕は陸上を辞めて……

 嫌なことから逃げるこの癖は、思えばあのときからついたのかもしれない……




「どうした、もうバテたかー?」


 不意に静かになった僕を気遣ってか、コウイチさんが振り返る。


「あっ……い、いえ、大丈夫です!」


 物思いに更けっていた僕は、慌てて顔を上げた。


「って……あれ?」


 そこには、先程まで走っていたはずの田舎道はなく――

 周りを高い木々に囲まれた山道。

 僕たちは、いつの間にかそこを走っていたのだった。


「こ、ここは?」

「ん? うちから10キロくらいのとこかな」

「じゅ、10キロ!?」


 それほど長い時間、物思いに更けっていたのか。

 それとも、走るペースが速かったのか。

 はたまた、その両方なのか。


「はあっ、はあっ……」


 現実に戻ったと同時に襲い来る疲労感。

 呼吸が荒くなる。


「ほら、あと5キロくらいだ、頑張れ!」


 笑いながら、コウイチさんは僕の背中を叩く。

 鍛え方が違うのだろう。

 汗はかいているけれど、その息は全く乱れていなかった。


 で、でも、あと5キロくらいなら……

 現役からしばらく離れていた僕だって……


 ……ん!?

 あと5キロ!?


 不意に、嫌な予感を覚えた。


「あ、あの~、コウイチさん……」

「ん、どうした?」

「あと5キロって……」

「うん?」

「アパートまで、あと5キロって意味では……」

「あ~……あっはっは」


 唐突に笑い出すコウイチさん。


「あ……あははは」


 僕もつられて笑う。

 ひとしきり笑った後、コウイチさんは僕を見た。


「もちろん、違うよ」

「ですよね……」


 僕は、がっくりとうなだれた。


「ほら、まだ若いんだし、これくらい大丈夫だろ?」

「これくらいって……」

「兄ちゃんはなかなか素質ありそうだし、この後うちのジムに行って筋トレするのもいいなぁ」


 そう言って軽く笑う。


「お母さん……僕は今日、鬼に出会いました……」


 思わず僕はつぶやいていた……




 その後5キロ走り、更に15キロ走って僕たちはアパートに帰ってきた。


 コウイチさんの予定より時間がかかってしまったことと……

 コトノさんが機転を利かせて、早めの夕食にしてくれたことで……

 ジムで筋トレという鬼メニューが中止になったことは、不幸中の幸いだった……


 その日、夕食と風呂を済ませた僕は、子供たちと遊んでいる間に、いつの間にか寝てしまった。






 そして次の日……

 朝、目が覚めると僕は布団の中だった。


 おそらくコウイチさんが、寝てしまった僕を布団まで運んでくれたのだろう。


「う~ん……ユリちゃんやメグル君と遊んでた記憶はあるんだけどな……」


 本当に、いつの間にか寝てしまった……

 夢も見ていない。

 抱き抱えられても起きなかったくらい、深い眠りだったんだな。


 こんなにぐっすりと眠ったのは、いつぶりだろう?


「ん~~~!」


 僕は、大きく背伸びをした――


 ――その瞬間!


 ピキッ――


「はぁうっ!」


 両足に伝わる痛み、筋肉痛。


「うう……やっぱり昨日はオーバーワークだったよ……」


 僕は、這い出すようにして布団から出た。

 足を見ると、何枚も湿布が貼ってある。


「コトノさん……かな?」


 寝てる間に貼ってくれた湿布。

 これがなかったら、もっと酷い筋肉痛になっていたかもしれない。


「あ、ガッ君、起きたのー?」


 物音で気付いたのか、コトノさんが部屋に姿を現す。

 その後ろには2人の子供たち。


「あれ? 幼稚園は……?」


 尋ねると、コトノさんは笑いながら答える。


「今日は土曜日! 幼稚園はお休みよ」

「ああ、なるほど……」


 どうもこっちに来てから、曜日の感覚がなくなってる……


 僕は頭を振った。


「パパはね、お仕事なんだよー」


 ユリちゃんは言う。

 やはり、スポーツジムのインストラクターともなると、土日はなかなか休めないのだろう。


 それも大変だな……


 僕は、つくづくそう思った。


「気分はどう?」


 そんな僕に微笑むコトノさん。


「あ……はい、筋肉痛が酷くて」

「やっぱり?」

「あ……でも、湿布のおかげで、だいぶ楽です。

 コトノさんが貼ってくれたんですよね? ありがとうございます」

「あはは、気にしないの」


 そう言って手を振った。


「旦那がね、次の日が少しでも楽になるように貼っといてやれって」

「え、コウイチさんが……?」


 驚く僕に、コトノさんは苦笑いを浮かべる。


「なに、もっとガサツな人だと思ってた?」

「あ……い、いえ……」


 心を見透かされたようで、思わず頭をかいた。


「そっか、コウイチさんが……

 だけど、昨日のはちょっとキツかったな」


 うつむきがちに、つぶやく。

 そんな僕の顔を、コトノさんはのぞき込むように見た。


「なっ……!?」


 不意に近付く顔に、胸が大きく高鳴る。


「でも、ぐっすり眠れたでしょ?」

「え……? あ……はい、それはまぁ……」


 確かに、グッスリ眠った。

 こんなに深い睡眠は、一体いつぶりだろう?

 と、いうくらいに寝た。


「いっぱい動いて、いっぱい食べて、いっぱい寝る」


 コトノさんは、人差し指を立てる。


「健全な体には、健全な魂が宿る!」


 その顔は、キリッとして少し得意げだ。

 でも、その顔はすぐに崩れて、いつもの表情に戻る。


「これ、旦那の口癖なのよ」

「そ、そうなんですか」

「うん、昔からずっとそう言い続けてるのよ、あの人」


 そう言って、コトノさんは可笑しそうに笑った。


「ま~、あながち間違いじゃないけどね」

「そうですね……」


 確かにそうかもしれない。

 今の僕は、心身共にスッキリしている気がする。


 もちろん、筋肉痛はヒドいけど……


「ねぇ、ママ~」


 そのとき、2人の子供たちがコトノさんの袖を引っ張った。


「まだ~?」

「あ、ごめんごめん」


 コトノさんは、そんな子供たちの頭に優しく手を置く。


「ガッ君も起きたし、そろそろ行きましょうか」

「えっ!? 行くってどこへ!?」


 脳裏に、昨日の悪夢が蘇る。


「あははは、違うわよ! また走れなんて言わないから、そんなに警戒しないでよ」


 そんな僕の姿に、コトノはお腹を抱えて笑った。


「スーパーに買い物に行くのよ」

「あ……なんだ……」


 笑いすぎて出た涙を拭くコトノさん。

 僕は少し恥ずかしくなって、思わず頬をかいた。


「ねぇねぇ、お兄ちゃーん」


 ユリちゃんが、袖を引っ張ってくる。


「そこのソフトクリーム、すっごく美味しいんだよー」


 その言葉に、メグル君もうなずく。


「お兄ちゃん、早く行こーよぅ!」


 2人の子供たちの瞳は、これ以上ないくらいにキラキラ輝いていた。






「冷たーぃ、おいしーぃ!」


 ソフトクリームをなめながら、上機嫌で歩くユリちゃん。

 それを追いかけるようにメグル君。

 更にその後ろに、僕とコトノさんが並んで道を歩く。


 今はスーパーの帰り道。

 天気も良く、風も気持ち良いので、散歩も兼ねて歩いて来たのだ。


 そして、僕たちの手には様々な色のソフトクリームが握られている。


 眩しい太陽。

 爽やかな風。

 そして、冷たいソフトクリーム。


 昨日とは打って変わった世界。

 この幸せな時間を、僕は満喫していた。


「どう? 美味しい?」


 ふと、コトノさんが僕のソフトクリームを指差し尋ねる。


「はい、美味しいですよ、チョコ味」

「どれどれ、一口ちょうだい」


 そう言うと、コトノさんはパクっと僕のソフトクリームを食べた。


「あっ!」


 こ、これは……

 間接キスになるのでは!?


 不意の出来事に、僕の胸は思わず高鳴る。


「ほんと、美味しい~!」


 でも、コトノさんはそんなこと気にした様子もなく、口の中のチョコレート味を、ゆっくり堪能していた。


 べ、別になんでもないことだろ!

 コ、コトノさんは、純粋にチョコ味を食べたかったんだ!


 くっ……

 落ち着け、僕の心臓!

 興奮しすぎだろ!


「ん? どうした~?」


 不意に、コトノさんが僕の顔をのぞき込む。

 その仕草に、胸が再び高鳴った。


「な、何でもないです!」

「そっか」


 コトノさんは笑うと、僕に自分のソフトクリームを突き出す。


「私のも食べる?」

「えっ!?」


 胸の高鳴りは、もうすでに、とどまることを放棄している。


「美味しいよ?」


 そう言いながら、赤いソフトクリームを差し出すコトノさん。

 首を少し傾げた姿には、同級生にはない大人の色気が見えていた。


「コ……コトノさん……」


 僕は、ゆっくり口を開いた。


「それ……何味でしたっけ?」

「うん、完熟キムチ味」

「……え、遠慮しときます」


 濃厚なキムチの香りが、鼻を刺激的にくすぐる。

 僕の胸は、急激に大人しくなっていった……






 それから数分後……

 アパートまであと半分の距離に差し掛かったとき――


「あーっ!」


 不意にコトノさんは、大声を上げて立ち止まった。


「ど、どうしました?」


 慌てて振り返る僕。


「ゴメン、ちょっと買い忘れ!」


 そう言うと、コトノさんは今来た道を戻り出した。


「えっ、何を買い忘れたんです?」

「新作のビールよ! 今日発売なの!」

「えっ、ビール?」

「そうよ! 発売記念特売に間に合わなくなっちゃう!」


 凄い速さで走るコトノさん。


「ガッ君たちは、ちょっとその辺で待っててねー!」


 その姿は、あっという間に小さくなっていった……


「仕方ないなぁ……」


 僕は、ため息をつく。

 ふと横を見ると、そこには小さな公園があった。


「ユリちゃん、メグル君」


 僕は、2人の目の高さと同じになるように、しゃがみ込んだ。


「公園で遊んでようか」




 元気に公園内を走り回る子供たち。

 ブランコに乗ったり、滑り台を滑ったり。


 ところ狭しと走る2人を、僕は少し離れたベンチに座って眺めていた。


「今年の夏は、色々なことがあるな……」


 恋愛教習所でミサキと再会。

 そして、ミサキの告白と僕の逃亡。


 その後は野犬に追われたり……

 強盗と戦ったり……


 山の中を走らされたりもした。


 今年の夏休みは、色々と忘れられないものになりそうだ。


「そういや、ミサキは免許取れたのかな~」


 僕はベンチに寄り掛かり、空を見上げながらそっとつぶやいた。


 そのとき――


「ガク……?」


 不意に響く声。


 え……

 こ、この声は……!


 恐る恐る視線を戻す。

 僕の瞳に映るもの、それは――


 それは、後藤 美咲その人だった。


「な、な、なんでミサキが!?」

「ガクッ!」


 ミサキはその問いには答えず、僕の名を叫びながらこっちに走って来る。


「う……うわわわわーっ!」


 その迫力に、僕は反射的に逃げ出した。


「ちょ……なんで逃げるのよ!」

「ミ、ミサキが追いかけてくるからだろー!」

「ちょ……ちょっと……待って……よ……」


 苦しそうなミサキ。

 まだ数メートルしか走っていないのに、その息はすでに上がっていた。


 そ、そうだった、ミサキは体が弱いんだった……


「お……お願いだから……待って……」


 胸が、チクリと痛む。

 僕の足は、次第にゆっくりになり……


 そして、静かに立ち止まった。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 背中越しに、ミサキの息遣いが聞こえる。

 僕は、ゆっくりと振り返った。

 彼女は両膝に手を当て、うつむくようにして息を整えている。


「あ、あの……大丈夫?」


 その言葉に、彼女は勢い良く顔を上げた。

 眉間にシワを寄せ、可愛い瞳を細めて僕をにらんでくる。


 思わず、僕は後ずさった。


「行かないで!」


 とっさに僕の手をつかむミサキ。

 その手の熱が伝わってくる。


「今までどうしてたの! どこにいたの!」

「そ、それは……」

「何をやってるの、あなたは!」


 激しく問い詰めてくるミサキ。

 それはまるで、流れ落ちる滝のようだ。


「なんで、試験から逃げたの!」


 だってそれは……


 うつむく僕の手を、ミサキは両手で強く握り締めた。


「一緒に合格するんじゃなかったの!?」

「そ、それは……」

「私と約束したでしょ! ねぇ、約束したでしょ!」


 だって……

 それは、ミサキには好きな人がいたから!

 恋免なんて取っても、なんの意味もないから!


 そう言おうとして、僕は顔を上げた。


 でも……

 声に出すことは出来なかった。


 僕を見詰める大きな瞳。

 そこから流れ落ちる滴。

 涙は頬を伝って落ち、そして僕の手を濡らした。


「ミサキ……」

「心配したんだから……いっぱい心配したんだから……」


 僕の手を握り締める、細い指。

 小さな手。


 でも、確かな温もりがそこにはあって……


 ミサキとの思い出が胸に溢れ、僕はその手を強く握り返した。


 僕は、バカだ!


 ミサキを……

 大切だと思った人を、こんなにも傷付けていたなんて!


 僕の瞳にも、熱いものが込み上げてくる。


 景色が、そしてミサキが涙の色に染まる気がして……


「ミサキ……」


 僕が口を開いた……


 その瞬間――


「あー、ママじゃない女の人だー」


 無邪気に響く声。

 振り向けば、そこにはユリちゃんとメグル君がいた。


「ママ、まだ来ないのー?」

「うん……もうちょっとしたら来ると思うから、それまで向こうで遊んでな」

「はーい」


 僕に促され、ユリちゃんは元気に走り出す。

 メグル君も、その後を追いかけて走っていった。


 再び遊具で遊び出すのを見届けてから、僕はミサキに向き直った。


「無邪気だよね……子供って」


 僕は、目を細める。

 そのとき、肩を震わせながらミサキの口が小さく開いた。


「こ……」

「……こ?」


 次の瞬間、ミサキは僕を激しくにらんだ。


「子供まで作ってーっ!!」


 バチーン!!


 青空の下、ミサキの平手打ちの音が大きく響き渡った……

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