第16話『つないだ手』

 ――朝。

 爽やかな朝。

 清々しい空気の中に、小鳥たちの歌声が嬉しそうに響く。

 眩しく降り注ぐ木漏れ日に、僕はそっと手をかざした。


「ん~、いい天気だ!」


 足取りも軽く、食堂へと向かう。

 朝食を乗せたトレイを持ち、席へと着く。

 今朝のメニューは、スクランブルエッグとサラダ。


「ちょっとナッシー、またニヤニヤしてるよ?」


 そう言いながら、例のように隣りに腰を下ろす彼女、樟葉くずは 莉緒りお

 リオさんは、いぶかしげな瞳で、僕を見つめてきた。


「いい加減、ニヤニヤは止めなって……」

「やあ、おはよう、リオさん!」

「え……!? あ、うん……おはよ」


 絶対、反論されると思っていたのだろう。

 穏やかな僕の反応に意表をつかれたのか、彼女はポリポリと頬をかいた。


「な、なぁ……なんでそんなご機嫌なん……?」


 口元に手を当て、そっと尋ねてくるリオさん。


「ふふふ、関西弁になってますよ、お姉さん」

「ちょ、調子狂うな~」


 リオさんは悲鳴を上げた。


 上機嫌の理由、それは……


「ガク、おはよ」


 そのとき、可愛い声が響く。


「おはよー、ミサキ」


 僕は笑顔で振り返る。


 上機嫌の理由、それはもちろん、この人。

 夕べのミサキとの出来事が原因だった。


 夕べは色々なことがあった。

 色違いだけど、お揃いのジャージ。

 これからのお互いの呼び方。


 そして……

 今夜、また会うという約束。


 こんなにも明日を待ち遠しく思えたのは久しぶりだ。

 幼い頃は毎日が楽しくて、訪れる朝を心待ちにしながら眠りについた。

 その頃の感覚を、ミサキは思い出させてくれた。


「ミサキ、そこ空いてるよ」


 僕は、向かいの席を指差す。


「え……でも、いいの?」


 チラリとリオさんの顔を見るミサキ。


「ああ、こちら樟葉 莉緒さん。大学生だって」


 次に僕はリオさんに向き直る。


「彼女はミサキ。高校のクラスメートなんだ」

「「ど、どうも……」」


 僕の紹介に、2人は同時に頭を下げた。






 それから学科と実地の教習を受け、昼食。

 そして午後の教習を受け、夕食と入浴。

 夜は、忙しかった1日を振り返り、訪れる明日に備える。

 皆が、ゆっくりと体を休める時間帯。


 だけど……

 僕の夜はまだ終わらない!


「ミサキ、早く来ないかな……」


 昨夜の中庭に立つ僕の姿。

 そう、今まさにミサキと待ち合わせなのだ。

 今にも走り出したくなるような、ワクワクした気持ちが胸の中に広がっていく。


 デートの待ち合わせをしているカップルは、いつもこんな気持ちだったのだろうか……


 その感覚に酔いしれて、笑顔で夜空を見上げた。


「星が綺麗だな~」


 見上げた空いっぱいに広がる星々。

 吸い込まれてしまいそうなその空に、思わず感嘆のため息が漏れた。


「ガク、お待たせ!」


 そのとき、不意に僕を呼ぶ声。

 視線を落とす。


「やあ、ミサキ」

「ゴメンね、待った?」

「いや、今来たとこ」


 お約束とも言えるこの会話。

 それを僕が、しかもミサキとしている……


 そう思うだけで、嬉しさのあまり卒倒してしまいそうだ。


「す、座ろう!」


 なので、今日は僕からミサキにベンチを薦めた。

 昨日と同じ、ミサキが好きだと言っていたヤマボウシの花が良く見えるベンチだ。


「今夜は、星が綺麗だよね」


 まずは、無難な話題から入る。


「この辺は明かりが少ないから、星が良く見えるよね」


 ミサキは、優しく微笑んだ。

 その笑顔に、毎度ながらこの胸は高鳴りを示す。


 ただ、今までとは決定的に違うことがあった。

 それは、この高鳴りは嫌な感覚ではないということ。


 今までは緊張の方が先立っていたけれど……

 今は話せる喜びの方が、遥かに大きい。


「僕、こんな星空、プラネタリウムでしか見たことないよ」


 そのせいか、言葉も滑らかに出てくる。


「ガクって、よくプラネタリウム行くの?」

「うん、子供の頃さ~……」


 ミサキも、話に楽しそうに乗ってくれる。

 一見すると、一方的に僕が話しているように見えるかもしれないけれど……

 実はそんなことはない。


「そうそう、この前、マキちゃんがね……」


 ふとした瞬間に、ミサキの方からも話題を提供してくれる。

 ときには聞き手、ときには話し手。

 その心地好さと楽しさに、僕のテンションは、上がりっ放しだった。




「ふぅ……」


 ひとしきり喋り終えた僕たち。


「ねぇ、なんだか喉が渇かない?」


 ミサキのその言葉で、自販機に向かうことにした。


「2時間くらい休みなく話してたもんね」


 僕は、そう言って笑う。


「ガクと話すの楽しいから~」


 え……


 明るく応える彼女。

 その笑顔が、僕の胸に深く刻み込まれる。

 そのさりげない言葉の1つ1つが、僕の胸をくすぐるのだった。


「あ、私、これにしよう」


 彼女は、りんごジュースのボタンを押し、落ちてきたペットボトルを取り出した。

 そのキャップに手をかけると、ゆっくり息を吸い込み……


「んしょ!」


 息を止めると同時に、気合いを入れて一気に回す。

 彼女はよっぽど非力なのか、キャップを回すのが下手なのか。


 そんな彼女が微笑ましくて――


「あはははは!」


 僕の口から、思わず笑い声が漏れた。

 ぷうっと頬を膨らますミサキ。


「ああ、ごめんごめん! 今度からは開けてあげるね」

「もうっ、今開けてよ!」


 見れば、キャップはまだ見事に閉まったままだった。


「まだ開いてなかったんだ……」

「なかなか手強くて……」

「よし、僕がやっつけてやる!」


 その言葉に、ミサキの顔に笑顔が浮かぶ。

 僕はペットボトルを受け取ると、キャップに手をかける。


 はあっ!


 と、心の中で気合を入れると、キャップは抵抗することもなく素直に開いてくれた。 


「――はい」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 小さなことだけど、ミサキの役に立てたことが嬉しかった。


 その時ふと、頭に昨日のミサキの言葉が蘇る。


『もう……私がいなくても大丈夫だね』


 あれって、どういう意味だったんだろ……


 僕は、チラリとミサキを見た。

 ミサキは、嬉しそうに喉の渇きを癒している。


 聞いてみるか……


「あ、あのさ……」

「ん?」


 首を傾げて僕を見る彼女。


「えっと……」

「あ~、ガクも、これ飲んでみたいのね?」

「……え?」


 ミサキは、ペットボトルを見ながら深くうなずく。


「や……そ、そうじゃなくて……」

「いいよ、一口あげる」


 僕にペットボトルを手渡すミサキ。


「や、あの……」

「美味しいよっ」


 そう言って、彼女は微笑んだ。


「う、うん……」


 僕は、開いたままのペットボトルの口を見つめた。


 これ、さっきミサキが飲んでたけど……

 こ……これは噂の間接キスってやつでは!?


 ミサキは、くりくりした瞳で、飲むのを待っている。

 思わず、僕はツバを飲み込んだ。


 お……落ち着けって!

 こんなの何でもないことだろ!

 普通に飲めばいいだけじゃん!


 ゆっくりと、ペットボトルを口に近付ける。


 そう、その調子!

 そして、飲んだら、


「美味しかった」


 と言って、ミサキに返すんだぞ!

 これはミサキのなんだから!


 ミサキの……

 の、の、の、飲みかけなんだから!


 手が激しく震えだす。

 興奮のあまり、意識が飛びそうだ!


 そんな精神状態では、震えるこの手を停止させることが出来なくて……


 ジャバジャバジャバ!


 震えた勢いで飛び出したりんごジュースは、僕の顔を激しく濡らした。


「きゃっ!? ちょ、ちょっとガクッ!」

「うわぁ、ゴメン! ちょっと暑くて!」


 変なことを口走る。

 慌てたときに、わけのわからないことを言う癖は、もうずっと治らない……


「も~、何それ~」


 でも、その言葉に笑ってくれるミサキが、何よりの救いだった。


「はい、これ使って」


 そう言って、ミサキはハンカチを差し出してくれた。


「あ、ありがとう」


 ハンカチを受け取り、濡れた顔を拭う。


 あ……いい香りがする……


 はっ!?

 や、やばい、このままではますます興奮してしまう!


 ……と、今までの僕なら大慌てだっただろう。


 でも、今日は違う。

 なぜなら昨夜、ミサキに落ち着くための呼吸法を習ったからだ!


 吸って……吐いて……吸って……吐いて……

 すーはー、すーはー、すーはー……


 うん、ハンカチの香りが胸いっぱいに広がっ……てえ!?


 僕は、慌ててハンカチを顔から遠ざけた。


「大丈夫? ガク」

「くっ……これは魔性のハンカチだ……」


 こ、このままではらちが明かないので、無理やり話題を切り替えることにする。


「……あのさ! 昨日、『もう、私がいなくても大丈夫だね』って言ってたけど……

 あれってどういうこと?」


 僕の言葉に、まるで何かをかばうかのように、ミサキは胸に手を当てた。

 うつむくその顔が一瞬曇った気がして、僕の心臓が大きく脈を打つ。


「あ、あれは……」


 でも、次の瞬間――


 ミサキは勢い良く顔を上げた。


「あれね、特に深い意味はないよ」


 笑うミサキ。

 その顔は、いつもと変わらない笑顔に見える。


「ほら、リオさんみたいな明るい人がいたら、合宿も上手くいくねって意味だよ!」

「え……そうなの?」

「そうだよー! だってガク、彼女のこと好きなんでしょ?」

「ち、違うよ!?」


 驚きのあまり、声が裏返りそうになった。


「なんで僕が……!?」


 それを、なんとか抑えて尋ねる。


「だって……いつも一緒にいるし、2人とも楽しそうだし……」


 楽しそう!?


 僕の頭には、リオさんにツッコミを入れているか、からかわれている記憶しかない。

 あれが、楽しそうに見えているのか……


「と、とにかく違うよ!」


 僕は、頭を左右に振った。


「第一、彼女には好きな人がいるんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。その人に告白されて、付き合うために免許取るんだって言ってた」

「そうなんだ……

 そういう目的があるなら頑張れるし、試験もきっと上手くいくね」


 ミサキは、感心したようにうなずく。

 そして、私も頑張ろうと、小さく拳を握る。


「だから、ガク!」


 不意に振り向くミサキ。


 え……!?


 ミサキは、僕の手に両手を重ねてきたのだ。


「一緒に頑張ろうね!」


 戸惑う僕に、ミサキはそう言って微笑んだ。


 僕がこの合宿に参加した理由――

 それは、伯父さんからの誘いがあって……

 そして、母さんに強引に押し切られて……


 だから、ただ何となく参加しているという感じだった。


 でも――

 こんな僕にも、やっと目的が見つかった……


 僕は……


 ミサキが好きだ!


 この想いはもう、止めることは出来ない。


 この合宿で免許を取ったら……

 僕は、ミサキに告白しよう!


 手に重なる温もりが優しくて――

 僕を見つめるその瞳に、胸が高鳴って――

 そして、笑いかけてくれるミサキが嬉しくて――


「うん! 一緒に頑張ろう!!」


 僕は、その手を強く握り返した。


 ミサキの白く小さな手。

 それは、もう少し力を入れたら、簡単に壊れてしまうのではないかと思うほど。


 でも、伝わる温もりは確かなもので――

 僕は、この手をずっと繋いでいきたい。


 そう、心に強く思ったんだ……

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