第15話『風に吹かれて』

 不意に夜風が、上空の雲を吹き流す。

 月明かりと外灯に照らされた裏庭は、にわかに明るさを増した。


 その明かりの中、1人たたずむ彼女。


「後藤さん……」

「な、梨川くん……?」


 彼女は、驚きの表情で僕を見た。


 やっぱり可愛い……


 そんな表情ですら可愛く見えてしまう。


 上下共に、ジャージに身を包んだミサキ。

 この合宿では、部屋着はジャージでと決められているからだ。


 もちろん学校と違い、指定というものはない。

 僕をはじめ、皆、思い思いのジャージに身を包んでいた。


 ミサキの着る白色のジャージは、その細身の体に良く似合っている。


 でも……

 上も着てて暑くないのかな?


 ここは自然が多く涼しい環境とはいえ、やはり今は夏だ。

 僕は、上はTシャツ、下はジャージという姿でちょうどいい。


 寒がりなのかな……


 そう思ったとき、ミサキの口が不意に動いた。


「あれ……?」

「えっ?」


 その姿に見とれていた僕は、思わず慌てふためく。

 そんな中、ミサキは僕を指し示した。


「それ……」

「えっ、ど、どれ?」

「梨川くんのジャージのズボン……」

「えっ、ズボン?」


 もしかして、穴でも空いているのだろうか!?


 慌ててズボンを確認する。


 でも――

 続くミサキの言葉は、想像していたものとは違っていた。


「それ……私と同じジャージじゃない?」

「えっ……?」


 僕は、ミサキのジャージに目を向ける。


「あ……ホントだ……」


 僕のジャージは、黒地に紫のライン。

 対するミサキのジャージは、白地に緑のライン。

 色は違うけど、それはまさしく同じ型のものだった。


「ぼ、僕、このメーカーが好きで!」

「私も、ここのデザイン好きなんだ」


 そう言って、ミサキは微笑む。


 ミサキが……僕と同じものが好き……!


 その事実に興奮し、胸は激しく高鳴り出した。


「ぼ、僕、本当にこのメーカーが好きで!

 だ、だから、陸上のスパイクとかも、このメーカーで!」


 口から言葉が、滝のように溢れ出してくる。


「こ、ここの道具って、デザインはもちろん、使い心地も本当に良くて……」


 もう、自分でも自分が止められない。


「マークもかっこよくて……

 好きなんです!

 ほ、本当なんです! 僕、好きなんです!」


 もはや、自分でも何を言ってるのか、わからなくなっていた。

 僕の勢いに、ミサキは呆気に取られているようだ。


 はぁう、しまった……

 舞い上がりすぎだろ、僕!


「や……ち、違うんだ!」


 手をばたつかせてフォローに入る。


「中学の頃なんか、『お前は広告塔か!』って言われるくらい身につけてたんだ……

 って、そんな話、どうでもいいか……」


 フォロー失敗……

 僕は、深くため息をついた。


 その瞬間――


「あははっ、やっぱり梨川くんは面白いね」


 お腹を抱えて笑うミサキ。

 どうやら、僕のリアクションはミサキのツボに入ったらしい。


 ま……前にも、こんなことあった気がするな……


 笑い続けるミサキを前に、額の汗を拭った。


「あははは……」


 ひとしきり笑ったミサキは、涙を拭きながら近くのベンチを指差した。


「ねぇ、座ろう」


 そう言って、ミサキは軽やかに歩くとベンチに腰を下ろす。


 な……

 二人で並んでベンチに座る……だとっ!?


「早くおいでよー」

「う、うん、今いく」


 そう言って、僕は平静を装い、足取り軽く歩き……


 あ、あれ、なんだこれ。

 膝も足首も曲がらないぞ?


「梨川くん……おもちゃのロボットみたいだよ?」

「い、今、これがマイブームで……」


 小首を傾げるミサキの元になんとか辿り着くと、僕も習って腰を下ろす。 


「あ~、夜風が気持ちいいね~」


 風にたなびく髪を押さえ、ミサキは空を見上げた。


「ウ、ウン、ソーデスネ」


 そう答えるも、ほてった僕の体は、夜風くらいでは冷ませない。

 心臓の鼓動も、激しさを増したままだ。


「……あ、あそこの木を見て」


 ミサキが、5メートルくらいの高さの木を指差す。

 緑の葉の中に、真っ白い花が枝いっぱいに咲きこぼれている。


「ヤマボウシっていうの。綺麗でしょ? 私、あの花が大好きなんだ」


 無邪気に微笑むミサキ。

 そして、更に高まる胸の鼓動。


 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやば――――い!

 その笑顔は反則だー!!


 僕の心臓は壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、脈を打ち続けている。


「ねぇ、梨川くん……」


 気が付くと、ミサキが僕を見つめていた。

 胸の鼓動が一段と大きくなる。


「な、なに?」

「ちょっと、瞳を閉じてみて」

「え……う、うん」


 な、何だろう……?


 理由はわからないけど、とりあえずミサキの言葉に従ってみる。


「それじゃ、大きく息を吸って……」


 すぅ……


「ゆっくり吐いて……」


 はぁ……


「吸って……

 吐いて……」

「あ、あの……これは一体……?」

「いいから、やってみて」

「う、うん……」


 すぅ……はぁ……

 すぅ……はぁ……


「夜風……気持ちいいね」


 ミサキは、さっきと同じことを言う。


「うん……」


 僕は、うなずいた。


「耳を澄ましてみて……」


 心の奥に響くようなミサキの声。


 そっと耳を澄ますと――

 風が木々の葉を揺らす音が聞こえた。

 優しく吹く風。

 運ばれた草木の香りが鼻をくすぐる。


 心が穏やかになり、感覚が研ぎ澄まされていく……


 これは、先程の僕では考えられなかったものだ。

 瞳を閉じて風を感じていると、人間も大自然の一部なんだと素直に思うことができた。


「……はい、目を開けてもいいよ」


 しばしの後、優しいミサキの声が響いた。

 ゆっくり瞳を開く。


「どう……? まだ、ドキドキしてる?」

「いや……もう大丈夫みたい」


 僕は、微笑んだ。

 落ち着いた気持ち、安定した脈拍。

 先程までの自分が、嘘のようだ。


「私もね……ドキドキが収まらないとき、こうやって深呼吸するんだ」

「そうなんだ……」

「環境が変わって、色々戸惑うことあると思うけど、頑張ろうね」


 どうやら、先程の僕の状態は、慣れない環境下での不安の表れと捉えたらしい。


 本当は、ミサキの可愛さにドキドキしていたのだけれど……


 でも、そんなこと、言えるはずもなく……


「ありがとう」


 僕は、素直にお礼を言った。

 嬉しそうに微笑むミサキ。

 その笑顔に、また胸が高鳴る。

 でも、深呼吸の効果があってか、今回は我を失うことはなかった。


「後藤さんも散歩?」

「うん……ちょっと眠れなくて……」

「そうなんだ。実は、僕もそう」

「梨川くんも?」


 僕たちは、顔を見合わせ笑いあった。


「まさか、こんなとこで梨川くんに会えるなんて、思ってなかったよ」

「僕だってそうだよ」

「初日、梨川くん、遅刻してきたよね~」

「あ、あれは、ちょっと……」


 いたずらな笑みを浮かべるミサキに、僕は慌てて弁解する。


 転んで怪我をした女の子。

 その手当てをしていたら、バスに乗り遅れてしまったことを……


「そうなんだ……」


 ミサキは感心したように、深くうなずいた。


「梨川くん、偉いね~」

「いや……たまたまだよ」


 僕は頭をかく。


「たまたま傷薬を持ってたから」

「ふふふっ、妹さんのおかげだね」

「……確かに」


 僕たちは、また顔を見合わせて笑った。


 ああ……やっぱりミサキっていいな……


 つくづく実感する。

 ミサキと話していると楽しい。

 彼女の元気が伝わってきて、僕まで元気になれる気がする。


 こんな気持ちは、初めてだった。


「あ……そういえば、梨川くん」


 ミサキは、不意に僕を見た。


「ん~?」


 幸せな気分で、ミサキを見返す。

 その口が静かに開いた。


「梨川くんって……本当は自分のこと“僕”っていうの?」

「……えっ!?」


 幸せな気分は、音を立てて崩れ去った。


「ぼ……いや、俺、“僕”って言ってた!?」

「うん、ずっと……」


 しまった――!!


 動揺していたときだろうか。

 ミサキの前で“僕”を使ってしまったらしい。

 人前では自分のことを“俺”と呼ぶことにしていたのに。

 “僕”という呼び方は、少し軟弱なイメージがあったから……


 うぅ……

 親にしか見せたことないのに……!


 思わず頭を抱えた。

 そのとき――


「“僕”、いいよね」


 ミサキは、そう言って笑顔を見せる。


「……え?」


 予想外の言葉。

 僕は驚き、顔を上げた。


「“僕”って……軟弱……っていうか、子供っぽい感じしない?」

「全然!」


 ミサキは、首を横に振った。


「優しい感じがして、梨川くんによく似合うと思う」

「そ……そうなの?」

「うん! 梨川くんは、“俺”より“僕”の方がしっくり来るかも」


 驚きだった。

 まさか、そんなことを言ってくれるとは、夢にも思っていなかった。


「あ……そんな風に思われるの、嫌だった?

 だとしたら、ゴメンね?」

「い、嫌じゃないよ!」


 僕は、慌てて手を振った。


「うん……じゃ……これからは“僕”って言うことにしようかな……」


 微笑みながら答える。

 僕的にも、その方が話しやすいし。


「ふふ……」


 ミサキは、小さく笑いながら立ち上がった。


「梨川くんは、やっぱり優しい人だった」


 そのまま手を後ろで組み、爪先を立てるようにして歩くミサキ。


「実はね……最初、梨川くんって怖い人だと思ってたの」

「えっ……そうなの!?」


 僕は、思わず立ち上がる。


「そうだよ~」


 かかとを軸にし、ミサキはくるっとこちらに向き直った。


「だって、最初の頃って、私のこと避けてる感じがしたから」

「え……!?」

「私、嫌われてるのかなって……」

「そんなことない!!」


 思わず大きな声が出た。


 避けていたのは、君のこと意識するあまりに……


 喉まで出かかるその言葉。

 それを、なんとか飲み込む。


 今の僕に、それを切り出す勇気はない。

 せっかく、2人で仲良く話せるようになったのに……

 そんなことを言って、今の関係が壊れてしまうのだけは絶対に避けたかった。


「うん……数ヶ月だけど一緒にいて、梨川くんがそんな人じゃないこと、ちゃんとわかったから」


 ミサキは微笑む。

 この笑顔を失うのが怖い。


 でも……

 もっと、彼女に近付きたい……


 その葛藤。

 揺れる想い。


 大きく深呼吸をすると、正面からミサキを見つめた。


「あ、あのさ……」

「……うん?」


 ミサキは、首を傾げる。


 もっと近付きたい――


 その想いが、僕を突き動かす。


「ぼ、僕、みんなから“ガク”って呼ばれてるんだ」

「うん、そうだね」

「だ、だから……

 良かったら後藤さんも、僕のこと“ガク”って呼んで下さい!」


 勇気を振り絞ったその言葉。

 心臓は、バクバクと音を立てている。


「ほ、ほらっ、な、“梨川くん”って、他人行儀な気がするじゃん?

 ……友達なのに」


 慌てて言葉を付け加える。

 “友達なのに”と付けないといられない自分が悲しい……


 僕の言葉に、ミサキは少し考える素振りを見せる。


 そして……


「……うん、わかった」


 と、首を縦に振った。


「あ、ありがとう……」


 ほっと胸をなで下ろす。


「でも……そのかわり……」


 ミサキは、人差し指を立てた。


「私も、みんなから“ミサキ”って呼ばれてるから……」

「えっ……それって……」


 ミサキを、驚き見る。


「うん……だから、私のことも“ミサキ”って呼んで下さい」


 そう言って、ミサキは優しく微笑む。


 僕の中で、何かが弾けた音がした。

 2人を隔てる心の壁。

 それが、大きな音を立てて亀裂が走り、そこから温かな日差しが差し込んできた――


「ありがとう……」


 今まで遠い存在だと思っていたミサキを、近くに感じられた瞬間。

 その喜びに、自然と笑みが浮かんだ。


「これからもよろしくね、後藤さ……」


 その刹那、ジロリと僕を見るミサキ。


「……じゃなかった、ミ、ミサキ」

「うん、よろしくね、ガク」


 ミサキは、満足げにうなずいた。

 そして僕たちは、どちらからともなく笑い出す。


 夜風が吹く。

 風は僕たちの笑い声を、周りの山々へと届けるように吹き抜けていく。


「あはははは……」


 ひとしきり笑いあったあと、ミサキは僕を見た。


「それじゃ、そろそろ部屋に戻ろうかな」

「ああ……うん、明日も早いしね」


 僕はうなずく。


「今夜は楽しかった。ありがとう、ガク」

「こちらこそ……ありがとう、ミサキ」

「それじゃ、おやすみなさい」


 ミサキは微笑むと、くるりと僕に背を向けた。

 そして、女子宿舎の方へと歩き出す。

 ミサキの小さな背中が、だんだんと遠ざかっていく。

 その現実に寂しさを覚え、思わずうつむいた。


 ――くっ!


 でも、次の瞬間、僕は拳を握り顔を上げた。


「あ、あのさっ!」


 去っていくミサキの背中に声をかける。

 ミサキの足が止まった。


「あ……明日も、またここで会えるかな?」


 ミサキは、顔だけをこちらに巡らせると、肩口から僕を見つめる。


 そして――


「――うんっ!」


 微笑みを浮かべ、小さくうなずいた。

 そして、また前を向くと、少し早足で歩き出す。


 建物の角まで辿り着いたミサキは、ゆっくりとこちらを振り返った。


「おやすみ」


 そう言って手を振る彼女。

 僕も振り返す。

 そしてミサキは、建物の向こうへと消えていった。


「……やった!」


 歓喜の声が、思わず漏れる。

 こんなこと、他人から見たら、小さな一歩かもしれない。

 でも、僕にとっては大きな一歩なんだ。


「やった――っ!」


 僕は、天に向かって高く手を突き上げた。


 明日、会うという約束。

 それが、こんなにも嬉しくて――

 こんなにも楽しみで――

 こんなにも力をくれるということを、僕は初めて知った。


「僕にも風が吹いて来た!」


 夜空を見上げる。

 そこは、いつしか満天の星だった。


 突き上げたままの手の先で、月が静かに輝いている。

 その月を掴むように、僕は手を強く握り締めた。

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