第9話『涙そうそう』

「桜坂中学は、反則のため失格となります!」


 僕たちの競技終了直後、審判員が告げるその言葉。

 騒然とする競技場の中で、僕たちはその意味が理解出来ずに立ち尽くしていた。


「な、何でだよ……」


 うめくような声が聞こえた。

 第1走者の先輩だった。


 その声が聞こえたのか、マイクを持つ審判員は僕たちの方に目を向けた。

 騒然としていた競技場は、不意に静けさに包まれる。

 誰もが、審判員の次の言葉に注目していた。


「反則の理由ですが……」


 厳粛げんしゅくなる審判員の声。

 静けさが、突き刺さるように痛い。


 審判員は、その静けさを味わうように、ゆっくりと視線を巡らせた。

 そして、言葉を続ける。


「桜坂中学の第2走者と第3走者のバトンの受け渡しが、テイクオーバーゾーンを越えて行われました」

「オーバーゾーン……か」


 キャプテンがつぶやく。


 バトンの受け渡しは、テイクオーバーゾーンの中で行われなければならない。

 でも、僕がバトンを受けたとき、バトンはすでにそのゾーンを越えていたということだ。


「よって、規定に基づき失格といたしました!」


 どよめく場内。

 その言葉を受け、すぐに顧問の先生が審判員のところに飛んでいく。

 体はゾーンの外でも、バトンはまだ中だったと抗議しているのだろう。


 でも……

 その判定が覆りそうにないことは、蜂須賀先輩の表情が物語っていた。


 うつむき、唇を強く噛む先輩。

 拳を強く握り、その体は小さく震えていた。


 なんでこんなことになったのだろう……

 僕たちは、あんなにも練習してきたのに……

 そして、練習では上手くいっていたのに……


 ……なぜ?


 決して先輩の足が遅くなったわけじゃない。

 そして、短時間のうちに、僕の足が速くなったとも思えない。


 ――じゃあ、なぜ?


 残された答えは、ただ1つ。


 僕の……

 スタートが早過ぎたんだ……!


 僕のスタートが早ければ、その分、先輩が走る距離は伸びる。

 それはつまり、僕にバトンが届く時間が遅くなるということ。


「あ……ああ……」


 思わず、足がふらつく。

 競技前、先輩が言ってた言葉。


『気負い過ぎるなよ』


 僕をリラックスさせ、些細なミスをしないようにと気遣かってくれた。


 でも――

 僕は、そんな先輩の気持ち、そして先輩の3年間を最悪な形で壊してしまった……


 今思えば……

 僕が走り出したとき、先輩はまだ目標の地点に到達していなかった気もする。

 だけど、先輩たちの走りを見て、僕は自分が抑えられなくなっていた。

 完全に舞い上がっていたんだ……


「ふう……」


 キャプテンがため息をつき、力無く腰を下ろした。

 それも当然だろう。

 中学最後の大会が、こんな結末になれば……

 沈黙が僕たちを支配する。


 ――謝らなきゃ!


 だけど……

 そうは思うけど、声が出ない。


 で、でも……

 このままじゃ……!


「……ごめん!」


 沈黙を切り裂いて、不意に声が響く。

 皆の視線が集まる。

 その声の持ち主は、僕ではなかった。


「は、蜂須賀先輩!?」


 先輩は、深く頭を下げていた。


「みんな……ごめん!」


 な……なんで先輩が……!?


「俺が……梨川の足に追い付けなかった!」


 ち、違う……


「届くと思ったけど……あと少しのところで間に合わなかった」


 違う、違うよ……


「俺の足が、あと少しでいいから速ければ……」


 先輩は……

 先輩は悪くない……


「だから……ごめん……」


 悪いのは僕なんだ!


 だけどその想いは、言葉として外に出ることはなかった。

 頭を下げたままの先輩を、僕は何も出来ずにただ見つめていた……






 大会種目は全て終了し、僕たちは学校へと戻った。

 学校に帰る途中も、そして帰ってからも、僕たちは無口だった。


 キャプテンだけは、部員たちに言葉を述べていたけれど――

 やっぱりその声に、いつもの元気はなかったように思う。


 僕は、現実から逃れるかのように目を背け、うつむくことしか出来なかった。






「お疲れ様~」

「お先でーす」


 後片付けが終わり、1人、また1人と部室を去っていく。


「あ……」


 気が付けば、部室内は僕と蜂須賀先輩の2人きりになっていた。

 先輩は使い込まれた、でも良く手入れされた愛用のスパイクをじっと見つめている。

 そして、しばしの間その目を閉じると、やがてそれを丁寧にバッグへとしまった。


 先輩に、ちゃんと謝らなきゃ……


 おそらく先輩は、あと数分もしないうちに部室を後にするだろう。

 その前に伝えられなければ、僕はずっと後悔して生きていくことになる。


 先輩が、バッグを肩にかけた。

 今、行かなきゃ!


「せ、先輩!」


 狭い部室に僕の声が響き渡る。

 先輩の足が止まった。


「先輩っ!」


 もう一度名を呼び、僕は出口を塞ぐかのように、先輩の前に立つ。


「あ、あの……」


 すみませんでした!!


 そう言おうとして口を開く。


 でも……

 それ以上言葉は出せなかった。


 先輩は、静かに微笑んでいた。

 だけどその目は、涙で赤く染まっていたんだ……


 涙がにじむその瞳を隠すかのように、先輩はそっと目を伏せた。

 沈黙が、再び場を支配する。

 やがて先輩はゆっくりと顔を上げると、言葉を失った僕の肩にそっと手を置いた。


「せ、先輩……」


 先輩に言葉はない。

 そして、僕の横をすり抜けて、部室から出て行くのだった。


 言えなかった――


「うわあああああ――っ!!」


 先輩の赤く腫らした瞳から。

 そっと置かれたその手から。


 先輩の3年間が。

 陸上への想いが。

 そして、叶えたかった夢が伝わってきた気がして――


 何も言葉が出なかった。


「ああああああああっ!!」


 叫びと共に、涙が溢れてくる。


 謝罪することは難しくはない。

 でも、それで僕だけがこの重さから逃れるなんてこと、とてもできやしなかった。


 もしも、先輩が僕を責めていたなら、気持ちはまた違ったかもしれない。

 でも、先輩はそうはしなかった。


 その強さが。

 その優しさが。

 僕の心を更に締め付けるのだった。


「僕は……僕は……」


 涙が止まらない。

 犯してしまった過ちに――

 舞い上がっていた自分に――

 涙が止まらなかった。






 その日、僕は泣きながら家へと帰った。


 それから5日間――

 僕は、初めて部活を無断欠席した。


 そして6日目の朝……


 僕は、陸上部に退部届けを提出した。

 この痛みに耐えられるほど強くもないし、無責任にもなれなかったから……




―――




 100メートル先のゴールを目指して、僕とカズマは大地を蹴る。

 あれから陸上は辞めてしまったけど……

 やっぱり、僕は走ることが好きみたいだ。


 久しぶりのこの感覚。

 それを思い出させてくれたのは――


 僕は、チラリと後ろを振り返る。


 それは、間違いなくカズマだ。


 カズマの足は、想像以上に速かった。

 だから僕は本気で走ることが出来た。

 そのおかげで、過去の記憶が走馬灯のように蘇ったのだと思う。


 でも、それももう終わりだ。

 あと数メートルでゴールになる。

 久しぶりに思い出した走るということ。


 僕は、もう

 これだけで十分だ……


 カズマが、僕を追い抜いていく。

 そして、2人はゴールを迎えるのだった。




 はぁっ、はぁっ……

 と、荒い息を吐く僕たち。


「ガクーッ!」


 そんな僕たちの元に、レイジと数名のクラスメートたちが走り寄ってきた。


「やっぱガクは速いな!」


 嬉しそうに言うレイジ。


「でも、まぁ、最後は残念だったけどね」


 そう言ってクラスメートが笑った。


「いやぁ――」


 僕は息を整え、言葉を続ける。


「カズマの足も凄いよ」


 笑顔を浮かべて振り返る。

 そこには、両手を膝に当て、うつむくようにしながら肩で息をするカズマがいた。


「カズマって、足、速いんだね」


 僕は笑いかける。


 次の瞬間――

 弾けるように起き上がったカズマは、激しく僕につかみ掛かってきた。


「カ、カズマ!?」


 周囲に、騒然とした空気が流れる。


「テメェ……!」

「な……なに……?」

「何で最後、力を抜いた!!」

「えっ……」


 僕の胸をつかむ手に、更に力が込められる。


「テメェは、そうやってまた……!!」


 怒りのこもった目で僕をにらむカズマ。

 胸をつかむ手は、小さく震えていた。


「やめろよ、カズマ!」


 レイジが、僕たちの間に割って入る。


「こらーっ! そこ、何をやっているかーっ!!」


 異変に気付いた先生が、こちらに走ってくるのが見えた。


「……チッ!!」


 カズマは短く舌打ちをすると、乱暴にその手を離した。

 思わず、よろける僕。

 そんな僕に怒りの視線をぶつけると、カズマは背を向けた。

 そして、苛立ちを隠そうともせずに歩き出すのだった。


「あいつ……ガクに勝ったのに、何で怒ってんだ?」


 誰かのつぶやきが聞こえた。


「大丈夫か、ガク?」

「う、うん……」


 僕はつかまれた胸を押さえながら、校庭から去っていくカズマの背中を見つめていた。


 でも……

 その背中は、何故か寂しそうに見えたんだ……

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