うひ山ぶみ(現代口語訳)

ハコ

『うひ山ぶみ』現代口語訳


 世間には様々な学問の系譜があり、それは実に多種多様で一括りにはできない。その品々をあげていけば、まず神代記を大本と考えて学ぶ道がある。それを神学と言いそれを学ぶ人を神道者という。

 また官職や儀式や律令を重んじて学ぶ道もあり、様々な故実や装束について学ぶ道もある。それらを有識ゆうそくの学という。

 また六国史その他の古書、さらにもっと後世の書物までを独学で読んで学ぶ道もある。この道の中にもさらに細かく様々の分野がある。

 また歌を学ぶ道もある。その中にただ歌を詠むだけの人もいれば古い歌物語などを読み解いていく人がいる。

 大方の学問には様々に細かい分野があってそれぞれが好きな道を選んで学ぶ。またその学び方も人それぞれだ。教える師の心によっても変わるし、学ぶ弟子の心によっても様々に変わる。


 学問を志して入門する学生の中には、その時点で進みたい道をすでに決めている人も居る。そういう人は勉強方法も自分でしっかり決めている事が多い。

 しかし自分の望む道がしっかり決まっていないという学生もまた多い。そういう場合は当然勉強方法もはっきり定まらない。そういう時は詳しい学識者とよく相談し、何を学ぶべきか決めれば良い。

「初心者は何を読んで勉強すれば良いでしょうか?」などと質問される事は多い。これは初心者のもつ当然の疑問なので、その進路の選び方をしっかり教え、きちんとした勉強方法をも伝えてやるべきだ。間違った形の学問に落ちないよう、またできるだけ早く一人前の学者になれるよう、つまるところ最大限本人の為になるように、一から懇切丁寧に導いてあげる事が肝心だ。かかる労力は同じでも学び方によって得る成果の大小はやはりあるものだ。


 そうは言っても学問は「これが他より優れている」と簡単には決められないものだ。なので基本は本人が好む道を選ばせてあげる事だ。いくら初心者だといっても学問を志す者だ、何もわからない子供ではないのだから「少しくらいは興味がある」と思える道は必ずあるものだ。

 そもそも人にはそれぞれ好きな事と嫌いな事がある。生まれつき得意な事も苦手な事もある。嫌いな事や苦手な事を無理にやらせたところで人より少ない成果しかあげられないものだ。

 これは学問を選ぶ時にも勉強方法を伝える時にも同じことだが、決まり切った道をただ押し付けて「これさえやればよろしい」とだけ教えるのは教師にとって容易い事だ。しかし決まり切った方法で全員が必ず同じ良い成果を出すとは限らない。それどころか悪い結果を出す事さえある。どう転がるかはやる前には分からない。分からないのだから、本人の望むままにさせてやるのが一番良い事だ。


 私の思うところ、学問というものは長年諦めず怠けずに励んで取り組む事が一番大事だ。勉強方法などどんな風だってよい。それは大した問題ではない。どんなに良い学び方を与えたところで怠けてしまって続かなければ意味がない。

 そして人間には才能が秀でている人とそうでない人がいる。彼らの出す成績はだいぶ差が出るが、才能の有る無しは生まれつきなので本人の力だけではどうにもできない。だけど大抵の場合、たとえ才能が無い人でも諦めずに続けていればその分だけの前進が確実にある。

 また、晩学の人でも努め励めば思った以上の成果を出す事がある。忙しくて勉強する時間が取れない人が思った以上に成果を出す事だってある。

 だから自分に才能が乏しいと感じている人や、もう高齢だからとか仕事が忙しいからという理由で学問を諦めていた人達もあきらめずに学問の道を進んでみてほしい。とにもかくにもやってみれば意外とできるものだと思って欲しい。思い煩って諦める心が実は学問の一番の敵なのだ。



 ――学問についての大要は概ね上の通りだ。どの学問を選ぶべきと強いて言う事は出来ないし、勉強方法も「これをすれば絶対うまくいく」などと伝える事は出来ない。

 「思うままにやってみるべきだ」というのが一番良い答えなのだが、質問してくる初心者にそれだけ言ってもどうしたら良いのかわからず、かえって勉強嫌いにさせてしまうかも知れない。だからやむをえずこの私、本居宣長が「これが良いのではないのかな」と思う事を一通り教えてみようかと思う。

 もちろんそれも人の心次第である。私はこれが良いのではないかと思うが「それは誤りだ」と思う人も居るだろう。だから押し付けるような事は言わない。私の意見を参考にしたいと思う人のために書いてみる次第である。



 まず学問には様々な種類がある。いずれもとても大切でありどれも学ぶ価値がある。全ての学問を残さず学べたとしたらこれほど素晴らしい事はないだろう。

 だが人間の一生は短く残念だが全ての学問を究める事はできない。全てを究める事ができないのならば、せめて一番探求したいと思う分野を定め、必ずその深淵に至って見せるという高い目標を立てて学問に励んだ方が良い。そしてそれ以外の分野も力の及ぶ限り学んで究明できればなお良い。


 人が一番に探究するべき学問が何かといえば、それは「道」である。それは天照大神の道である。天皇の天下たる事を明らかにする道である。

 これは世界のあらゆる国に通用する真実の道であり、我が皇国にのみ伝わっているのであるが――その「道」がどういう道かといえば『古事記』『日本書紀』に描かれる神代上代の諸々の記録にはっきりと記されている。

 なので記紀は何よりも大事な書物である。繰り返し繰り返し丹念に読み込まなければいけない。

 だから初心者はまず私の書いた『神代正語』を何十回も読んでまずは古語に慣れてみて欲しい。その次は『直日のみたま』『玉矛百首』『玉くしげ』『葛花』などを記紀と一緒に読んでもらいたい。そうすれば記紀の記述に大事な「道」が備わっている事を大まかにも納得してもらえる事だろう。

 それらの本を早めに読んでおく事はヤマト魂をしっかり固め、漢意からごころ(外国風の考え)に陥らない自衛手段でもある。道を学ぶ者はまず第一に、漢意や儒意(儒教風の考え)を洗い落とし、ヤマト魂を固める事を意識するのが大切なのだ。

 記紀はどちらも大事な書物だが、道を学ぶためには特に古事記を重視するべきだ。日本書紀を読み解くには実はコツがあり、文字通りに読むだけでは古人の心を見誤る。そこを誤読してしまうと必ず漢意に染まってしまうだろう。

 その次に大事な書物は『古語拾遺』。やや後世のものだが記紀を読むうえで非常に助けとなる。できるだけ早く読んだ方が良い。

 そしてその次に大事なのが『万葉集』。これは歌集だが道を知る上では非常に大切になる書である。よく読んで参考にするべきだろう。

 道を知ろうと知る人はまず上記の書物をよく読む事だ。しかし日本書紀よりも後の時代の書物にも学ぶべき事は沢山ある。『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『文徳実録』『三大実録』、これに日本書紀を加えて「六国史」と呼ぶ。これらはいずれも朝廷の正史である。必ず読んでおくべきだ。六国史の代々の天皇の宣命(勅書)は古語の参考になるのでことに注意して読んでほしい。

 さらに『延喜式』『姓氏録』『和名抄』『貞観儀式』『出雲国風土記』『釈日本紀』『令』『西宮記』『北山抄』ついでに私の『古事記伝』。これらは古学を学ぶ人々には必ず読んでおいてもらいたい書物だ。


 しかし初心者がこれらの書物を一気に読むのは難しい事だろう。巻数が多い大著などは後回しにして短めの書から手を付けるのも良いかも知れない。延喜式の祝詞や神名帳などは初心者が読んだところでほとんど意味が分からないはずだ。

 先ほどあげた書物は順番を守って読まねばいけないなどという事はない。手元にある書物からでも良いし気が向いた書物からでも良い。

 そしてどの書物を読む時にも言える事だが、初心者は別に書いてある事のすべてを理解しながら読んでいく必要はないのだ。まず大雑把に流し読むだけでも良いから目を通し、そして他の書物も読む。あれこれと色々なものを読んでみてから最初に読んだ書物をまた読み返してみると良い。そうすれば最初は難しく感じた事が少しは分かるようになっている事に気が付くだろう。

 そうやって書物を何度も色々読むくせをつけていけば、それ以外に読んでみた方が良い書物の事や勉強の方法などもだんだん自分で分かってくるようになるはずだ。それが分かってきた後の事はいちいち細かく教える必要もないだろう。

 心の赴くまま手の届く限りに古典でも新書でも広く読んでゆくのも良いし、必要な物だけを選んでじっくり読むのもアリだ。必ずこころがけておきたいのは言葉遣いや仮名遣いだ。一方で語釈はそこまで重要ではない。


 そして漢籍も一緒に読み解いておく事だ。古書はみな漢字で書かれ漢文を借りて記されている。孝徳天皇天智天皇の時代には万事が中国の制度に基づいて執り行われていた。なので日本の史書をよむ時でも漢籍の知識がなければ意味を読み取れない部分が多い。しかし漢籍を読む時はよくよくヤマト魂を固めておかなければ、聞こえの良い漢風の考え方に簡単にまどわされてしまうだろう。これはよく心得ておかねばならない事だ。

 そしてそうやって見識を深めていくと物事の大筋というものもだいたいは理解ができるようになってくる。その段階まで進む事ができたら古典の注釈を作る事を目指すと良い。物事を説明をできるようになるという事は自分自身の学問の上でも非常にためになる事だ。


 記紀をよく読んだ後は万葉集をよく学ぶと良い。自分自身でも古風を意識しながら歌を詠んでみるとなお良い。全ての人はできれば歌を詠むべきだが、学問を志す者ともなれば詠まないわけにはいかない。歌が分からなければ古代の人々の心を察する事ができないし、風雅ミヤビな心というものも分からないだろう。万葉集にある歌の中でも安らかでのびのびとした歌を選び参考にしながら詠んでみるべきである。長歌にも挑戦してみるべきだ。

 歌にももちろん古風なものや後世風なものがあり、時代ごとの特色がある。古学を志す者が参考にすべきは古風な歌である事は言うまでもないだろう。かといって後世風の歌を毛嫌いするのは良くない。後世の歌にも良い歌はさまざまにあるのだからよく選んで参考にするべきだろう。さらには『伊勢物語』『源氏物語』などの物語をも常に読んでおくべきだ。

 自分自身で歌を詠み、物語の本などを常に読み、古代人の風雅のおもむきを知るのは、歌について学ぶというだけではない。そこで学んだ感性は古の道を知ろうとする学問の上でもとても助けになる知識なのである。

 


  いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも

 (初めての山歩きならば、麻衣のように粗末な私の教えも道標になるのではないだろうか)

  寛政十年(1798年)十月二十一日の夕方に記す 本居宣長

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