桜うらうら
樹杏サチ
第1話
私は、桜の木の下で拾われました。
見頃の季節を終え、木の下には散ってしまった花びらが引敷物のように地面を覆っています。ちょうど通りかかった
村長は、私に「さくら」という名前を与えてくれました。皺だらけの指を握る小さな手も、頬を桃色に染める様子も、なにより桜の木の下で初めて私を見つけたときは、桜の精かと思って、息をのんだそうです。そんな背景があり、村長は迷うことなく名無しの私に命をくだすったのです。
還暦をとうにすぎた村長は、それはそれは不器用に、しかし大切に育てました。妻と死別し、子供を抱えたことなど一度もない村長にとって、子育てはとても難しかったと言います。私が赤ん坊の頃など、泣き出してはうろたえ、隣の家のおかみさんに、今度は村長が泣きついたのだそうです。そんな村長を見てため息をつくおかみさんの呆れた表情を想像するのは易いです。
そうして、私はたくさんの人々の手で育ててもらえたのです。
私はなんて幸せ者なのでしょう。
しかし、ややあって物心がついた頃でしょうか。村の者たちは、私を見てあからさまに怯えた目を向けるのです。なかには面と向かって心ない言葉を吐き捨てる者もいました。すれ違い、距離が開いた途端、こそこそと口に手をあて陰口を囁かれることなど、日常茶飯事でした。
けれども、悲しい顔はできません。
なぜなら、暗い顔をした私を見て、今度は村長が悲しい顔をするからです。背の曲がった村長は、とても小さいです。ですが、悲しい顔をした村長は、もっとずっと小さく見えてしまいます。私は、自分が陰口を言われるよりも、祖父であり父であり、そして母でもある村長が小さくなるその姿が一番悲しいのです。
なによりも、みなが不気味だと顔をしかめる私を、「やっぱりさくらは花の精じゃ!」と子供のように目をきらきらさせてはしゃぐものだから、よけいに私は悲しんでなどいられません。
初めは偶然だと思いました。
茎は乾き、花は茶色く枯れ、葉っぱはくたりと頭を下げるようにしおれてしまった花に、私は触れたのです。
可哀想に。昨日まではあんなに元気よく咲いていたのに、と。私は無理かもしれないと思いながらもたくさんの水をあげ、眠る前に枕の隣で手を合わせて祈りました。
すると、どうしたことでしょう。
次の日、花を見てみると、昨日あんなにも死にそうになっていた花が、見事咲いているではありませんか。乾いていたはずの茎はみずみずしい緑色で、葉っぱもぴんとお日様に向かって伸びています。茶色くなってしまっていた花びらは、まるで生まれたばかりの赤子のように元気よく、朝露を受けてきらきら輝いていました。
ぽかんと大きな口をあけたままの私は、さぞ間抜けな顔をしていたことでしょう。
あいた口がふさがらないとは、まさにこのことです。
しかし、私は自分が触れたから花が生き返ったとは、そのとき全く考えになかったのです。周りには同じように白い花びらをつける花々がたくさん咲いています。たまたま見間違えてしまっただけでしょう。もしくは、水やりをして、昨日は見つけることができなかった蕾が花開いただけ。そう思っていたのです。私は花に触れ、話しかけるのが大好きです。その日も、また違う日も、私は花に触れました。元気な花にも、枯れそうになっている花にも。
すると、やはり次の日、枯れそうになっていた花はなにごともなかったかのように、すっかりと元気になっていたのです。
そうして、小さな村の中で、私はいつしか指をさされる存在になってしまったのです。
拾われた日から、ちょうど十八回目の春のことでした。
育ての親であった村長が泉下の人となり、日々ぼんやりと過ごしていたときです。頼る者もなく、親しくしてくれる友人もおらず、ときおり村長を思い出しては涙をこぼしていた私のもとに、ひとりの男性が訪れてきました。
男性は、村長の息子だと告げました。
はて。確か村長に子供がいるという話を聞いたことがなかったものですから、おそらく相手にとても失礼な表情をしていたことでしょう。感情が顔に出やすいと、生前よく村長に諌められたものです。首を傾げ、私は尋ねました。
「私に用向きとはどのようなことでしょう」
「はい。婿としてあなたをお迎えにあがりました」
手にしていた竹ぼうきを、思わず手から離してしまいました。庭の桜が花びらを落とし始めたので、掃除をしていたところでした。慌ててほうきを拾い、屈んだ先で男性を見上げると、彼はにこにこと人のよさそうな笑顔を浮かべていました。
「お迎えにあがったと言っても、なにもここから連れ出そうということではありませんのでご安心ください。わたしがこちらにご迷惑になります。もちろんお金の心配はご無用です」
村長の遺品を受け取りに来たのでしょうか。それとも、血の繋がらない私をここから追い出しに来たのでしょうか。そんなことばかりを思い浮かべ、次に答えるべき言葉を探していた私は、ついに言葉を失ってしまったのです。
本音を言うと、正直戸惑っておりました。一生独り身でいる覚悟でありましたし、なにより、いま初めて会って会話という会話もなしに、
ですが、どうして私が断れましょうか。
命を失うはずだった私を育てあげてくだすった村長の、その息子だという彼の言葉に、了承するしかなかったのです。
彼は、とても不思議な方でした。
人づきあいが苦手で、なかなか他人と馴染めない私の心をいとも簡単に解いたのです。
温和な性格のおかげでしょうか。それとも、ゆっくりと間を置きながら話す、その口調のおかげでしょうか。もしかしたら、笑うと目尻に皺が寄る様子が、村長を思い出し安堵できたからかもしれません。どちらにせよ、私はいつのまにか彼に惹かれていったのです。彼も、私が少しずつ笑顔を見せるようになってくると、それまで以上に穏やかに微笑んでくれました。
そんなある日のことです。
私は朝いちばんに、庭に咲く桜に話しかけるのです。それは村長が生きている頃からの習慣でした。昨日あった出来事、今日これからの時間をどう過ごすか。何を食べて、何を感じて、いちいち報告をしていたのです。自分が桜の木の下で拾われたということもあり、なぜか親近感にも似た感情を桜の木に抱いていました。私には、妹などいませんが、日ごろ桜の世話をしていたせいか、可愛い妹のように思っていたのです。私よりもずっとお年寄りで、村長よりもずっと長生きの桜に向かって妹などと、他人が聞いたらきっとお腹を抱えて笑うでしょう。
その日も、朝起きて一番に庭に出ると、私は桜の太くごつごつした幹に触れながら、語りかけました。「おはようございます。今日はいいお天気ですね」「聞いてください。昨日は私の話に旦那さまがたくさん笑ってくださいました」などと、いつものように他愛ない言葉を並べていると、すぐ後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきました。驚いて振り向いてみれば、旦那さまが縁側に腰をかけていたではありませんか。いつもならばぐっすりとお休みの時間なので、まさか聞かれているなどと思いもよりません。桜の木に話しかけるなどと、ご近所では子供っぽいなどと囁かれているのも知っています。そんな姿を見られた私は、さぞ耳まで林檎のようになっていることでしょう。ですが、彼の表情から、ご近所の方が私を嗤笑するような色はいっさい浮かんでいませんでした。
「さくらさんは、とてもお優しいのですね」
「そんなことはございません」
「いいえ。この桜の木が病気になってしまって、もう花も咲かないでしょうといわれた晩、さくらさんは寝ずに語りかけていたと聞いております」
「どこでその話を……」
「
不思議なことで、そう息を吐くように言った直後、彼はとても悲しそうな顔をしたのです。もうこの世にいない村長を思ってのことだったのか、それとも今後の出来事を想定して顔を曇らせたのかは、そのときの私にはわかりませんでした。ですが、そのときの表情が、とても強く心に残っていたのは言うまでもありません。
普段の姿とかけはなれた旦那さまの様子に、私は言葉を探していると、先に旦那さまが口を開きました。ちょっと照れたような仕草に、私の鼓動が早くなります。
「少し話しすぎましたね。今日の朝餉はなんでしょうか。楽しみです」
そうして、普段の他愛ない会話に戻っていきました。
しかし、私は気づかなくてはいけなかったのです。
普段は、私が起こすまで絶対起きてこない旦那さまが珍しく早朝目を覚ましたことも、毎日決まった朝餉しか出さない私に、さも楽しみだというように訪ねてきた言葉にも、今思えばどれも違和感しかないというのに、愚かなことに、微塵も疑いを抱いていなかったのです。
その晩、私は目を覚まして、隣にいるはずの姿がないことに気づきました。厠に立っただけかと思いこむには、あまりにも胸騒ぎが強すぎたのです。
敷布団にそっと手を触れてみれば、夜の空気に負けず劣らず冷たくなっていました。辺りを見渡してみましたが、旦那さまの気配すら感じません。しんと冷たい空気が漂い、障子からうすく入り込む月明かりがやけに不吉に感じました。私は、今にも駆けだしてしまいそうな心臓な音を聞きながら、しばらく布団の上でひとり座っていたのです。ですが、旦那さまの姿はいっこうに現れません。それどころか、もう二度とお姿を見ることができないのではと、不安と恐怖に立ち上がりました。
廊下を出て、炊事場に向かって足を進めます。喉の渇きを覚えて、水を飲みに出たとも考えたのです。けれども、私の足は炊事場に向かう途中、庭の見える縁側――昼間、旦那さまが座っていた場所が視界に入り、足を止めていました。
月の光が強い夜。
桜の花びらが、ゆるやかな風に揺られて、ひらひらと地面に落ちます。なぜか、その一枚一枚が、桜の涙に見えたのです。ぼんやりと光り輝くその明かりは、月の明るさではありません。あのごつごつした幹も、まだ落ちていない桜の花も、全てがぼんやりと光っているのです。その木の真下に、旦那さまはいらっしゃいました。
「さくらさん」
旦那さまは、振り返らず静かに私の名を呼びました。桜の花を見上げながら、布団に入ったときと同じ姿、夜着のままでした。
「わたしはさくらさんに、いくつも嘘をつきました」
そこでようやく、振り向いたのです。表情は穏やかに微笑んでいらっしゃいましたが、目が泣いているように思えました。月の光や、輝き続ける桜の光を受けて、そう見えただけかもしれません。
「嘘、ですか?」
「はい。嘘、です」
頷き、私が何も言わないのを見ると、ゆっくりと手招きをしました。「おいで」と、いつもの調子で囁きました。
「わたしは、さくらさんに何度も助けられました」
嘘をついたという話と、どんな繋がりがあるのでしょう。全然違う話題に突然変わったようにも思えて、無意識のうちに眉が動きました。そんな私の様子を見て、旦那さまはやはりいつもと同じように、唇に優しい笑みをのせたのです。
「今朝、桜の木の話をしたでしょう。この木が病気になったとき、さくらさんが寝ずに励まし続け、風が強くなればあなたの体で包み込むように温もりを与えました。――そんな話を」
「村長さまは、そんなことまでお話になられたのですね」
「いいえ。村長からは何もお話しは伺っていないですよ。話したこともございません。……嘘とは、そういうことです」
目を伏せ、いつもからは想像できないほど沈んだ表情を浮かべました。そのとき、桜の花びらがひらりと、一枚旦那さまの髪の上に落ちました。
「わたしがこれ以上さくらさんと一緒にいれば、逆にさくらさんを不幸にしてしまいます」
「――何を仰っているのですか」
「わたしは、あなたに助けられたこの桜です」
旦那さまは、ほっそりとした、私のいつも見てきた指を桜の太い幹に這わせました。その瞬間に、風が旦那さまの髪にのった花びらをさらい、ゆっくりと地面に落としていきます。その様子を、ただじっと見つめていました。
「ひとりになってしまったさくらさんが、元気になるまでと決めていたのですが、やはり来るべきではなかったみたいです」
「……旦那さまは、もう私と一緒にはいられないということなのですか?」
「わたしがいれば、さくらさんが結婚することも、子供を生すこともできません」
「私はそれでも構いません。結婚なら、旦那さまが初めてお会いになったとき、婿にと仰ってくださったではありませんか」
「あれも、間違いでした」
首を何度も振りました。涙で前の景色が滲みましたが、必死に旦那さまを見つめました。ぼんやりとした視界の中で、旦那さまが駄々をこねる子供にするような顔をしました。
「大丈夫です。わたしはいつもこの庭にいます。今までのように話しかけてくだされば、きっと答えます。こうしてお話することはもうできませんが、言葉がなくとも今までだって会話はしてきたでしょう」
旦那さまは、そうして大きな手を私の頭にのせると、まるで子供をあやすように、ゆっくりと撫でてくれたのです。そんなことをされたら、涙など止まるはずもないことを、旦那さまはわかりません。
「お元気で」
最後は、はっきりした口調でした。
俯いていた私が慌てて顔を上げたときには、もうそこには誰もいませんでした。
頭を撫でる手も、ときおり私を厳しく叱るその口も、そのあと日差しのような眼差しを向けてくれる眼も。なにひとつ、残してはくれませんでした。
ただ唯一、桜の花びらが、ずっと舞い続けていたのです。
「旦那さま、つい先日、私のことを気に入った、と言ってくれる殿方が現れたのですよ」
桜の花はすでにありません。来年の開花に向けて、桜の木は長い休暇に入るのです。花びらを落とした桜の木は、少し寂しさを感じますが、昔ほど悲しくはありません。まだ村長が生きている頃は、桜の花びらが完全に落ちきってしまうたびに、涙を流したものです。枯れてしまった、死んでしまった、と村長を困らせていました。
「けれど私はまだ旦那さまと一緒にいたいのです」
姿を消して、二年と少しの時間が過ぎました。
旦那さまがいなくなってしまったあの後は、毎日泣いて、畑仕事もさぼりがちになっていたのです。庭の花が咲いたと、語りかける相手がいないではありませんか。作った夕食を、おいしいと頬をゆるませながら食べてくださる方がいないではありませんか。そんな孤独を感じるたびに、私は桜の木の下で、ただぼんやりと過ごしたのです。しかし不思議なことで、桜の木の下で過ごすうちに、なぜだか励まされているような気になったのでしょう。一方的に私が語りかけているだけなのに、ふと、旦那さまの落ち着いた、少し間のある喋りを耳元で聞いたような気になるのです。
そうして、私は二年間、なんとか人間らしい生活を続けてきました。
けれど、他の殿方を迎え入れるには、まだ私の中に存在する旦那さまが鮮明すぎるのです。
「もう少しだけ、一緒にいてくれますか?」
おでこを幹にくっつけ、抱きつくように幹に触れると、辺りに静かな風が吹いたのです。そして一枚、花びらが私の髪の上に落ちてきました。
桜の木に、花はひとつも咲いていないのに。
落ちてきた花びらを指先で拾い、私はそれを栞にでもしようかしら。そう考えながら、部屋の中へ戻っていったのです。
桜うらうら 樹杏サチ @juansachi
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