場所

樹杏サチ

第1話


 もしかしたら、私は記憶喪失なのかもしれない。

 そう感じる瞬間がある。

 自分の名前も、場所も、家族のみんなの顔だってわかる。もちろん、好きな食べ物だって自分で把握している。脂ののった秋の秋刀魚。それとほんの少しの白米があれば何も言うことはない。

 そうではなくて。

 自分でも気づかないうちに、記憶をすり替えられているのかもしれない。仕事もせず、お布団にくるまりながら、ぼんやりとしているとふと感じる疑問。違和感は、いつも唐突にやってくる。

 もしかしたら、私の居場所は別の場所にあるのかもしれない。

 一日中、家の中に居るのを咎められるわけでもなく、好きな時に起きご飯を食べ、眠くなったら時間を問わず眠る生活。晴れた日は、目の見えなくなってきているお祖母ちゃんの隣で、一緒に景色を眺める。お茶のすする音。台所から届く料理をする気配。庭に咲く、金木犀の香り。

 不満なんてない。平和そのものの日常。

 けれど思うのだ。

 ここではない、遠い国の知らない場所。――本当は知っているはずの異国の暮らし。そこが自分の本当の居場所だとしたら?

 足元に蜘蛛を見つけるたび、跳ね上がるほど慌ててしまう弱虫の私だけど、本来の私はもしかしたら、悪い敵をやっつけることだってできるほど強いのかもしれない。記憶を失くしてしまっているだけで、魔法だって使えたのかもしれない。普段、眠くて眠くて仕方がないのは、失くしてしまった記憶の欠片を夢の中で手に入れようとしているのだろうか。早く本来の私に戻ればいいと思う。そうしたら、お祖母ちゃんの目だって、私が魔法で治してあげられるのに。

 

 秋が過ぎ、冬が来る。

 やがて春が訪れ夏になる。そうしてまた、秋が来る。

 何度も、何度も。

 私の疑問も、季節が巡るように、ぐるぐる回る。

 何度目かの秋のある日、お祖母ちゃんは倒れてこの世を去った。

 ひとりで座る縁側は、雲もないような晴れた日だというのに何故か寒かった。ぴたりと寄り添う体から伝わる、お祖母ちゃんの温もりはもうどこを探しても見つからない。

「おばあちゃんがいないと寂しいわね」

 いつの間にか、お母さんが隣に座っていた。

 笑うと目尻に寄る皺が、お祖母ちゃんにそっくり。

 うん、と私が返事をすると、お母さんは嬉しそうな、でも寂しそうな笑顔で頷いた。

「そっか。うん、寂しいよね。わたしも寂しいわ……」

 家の中に漂う気配は静かだ。

 台所から聞こえる水を流す音も、まな板を叩く包丁の音も、いまはしない。

 お祖母ちゃんがすするお茶のかわりに、お母さんが鼻をすするのが聞こえる。

「おばあちゃんのかわりに、わたしの話し相手をしてもらおうかな」

 うん、と私はまた答えた。

 魔法はやっぱり使えない。記憶だって戻らない。

 でも、今はそれでもいいかな、と思う。

 もしかしたら、私はとても偉い人の血が流れていて、誰からも頼られ頭を下げられるくらいの存在かもしれない。家来なんかもたくさんいて、私が命じたらなんでもやってのけちゃうんだ。でも、今は魔法や家来よりも、お母さんの傍にいたい。

 記憶を取り戻しちゃったら、私は本来いるべき場所に戻らなくちゃいけないでしょう?

 だから、いらない。

 贅沢を言えば、秋刀魚と白米があれば完璧だ。

「今日のお夕飯は秋刀魚にしようか」

 お母さんは立ち上がり、台所へと向かう。

 私もその後を追い、自分の思いが通じたような気がして嬉しくて思わず声をあげた。

 ナーオ、と鳴く私の頭を撫でるお母さんの手は、とても温かかった。

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場所 樹杏サチ @juansachi

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