deceive

藤村 綾

deceive (うそ)

 シンクが真紅に染まってゆく。あたしの右の親指から流れる真紅の血は一向に止まる気配はない。どうしよう。結構深く切ったみたいだ。シンクがシンク(真紅)に。などという冗談を思う余裕があることに少しホッとした。けれど、ティシュで拭いても拭いても血が滲みでてきてしまう。幼い頃、切ったら心臓よりも腕を上げると止血するよ。ふと、思い出し、右手を真上に上げた。ダラダラと真紅の血があたしの腕を伝ってくる。どくんどくんと切ったところが脈を打つ。視界が白く歪む。どうしよう。その場にヘナヘナと座り込んだ。約1時間は血は止まらなかった。体内の血液が出切ってしまったのか、と危惧をした。けれど、1時間の格闘の末なんとか血は止まった。

 リンゴの皮を剥こうとリンゴを握ったのはいいけれど、リンゴが思いの外、つるっとしていて、右手で持っていた包丁で親指を切ったのだ。ほんの1時間前までは普通に顔を洗い、普通に茶碗蒸しを作り、普通にアップルティーを入れ、普通にミスドのドーナツを美味しく頬張っていたのに。今はそれどころではない。先刻までの穏やかな海は払拭され、今は大海原をさまよう屋形船に乗っている気分だった。

 傷に優しいと謳っている透明な絆創膏を貼る。貼っても血が溢れて来てしまうのでさらに重ねてもう1枚巻く。明日、止まってなかったら病院に行こうかな。そんなレベル5くらいのひどい怪我。あたしの体内を流れる血をあんなにたくさん見たのは初めてかもしれない。自分の身体なのに、自分の中に流れる真っ赤な体液。触れることなどはない大事な体液。彼は血ではないけれど、あたしの体液をいやというほど味わっている。そう思うと不思議に感じる。あたしの体液を彼の体内に入れる。彼の体液をあたしの体内に注ぎ込む。唾液を交互に交換し嚥下する。他人の体液なのに全く苦にならず、逆にもっと欲しくて執拗に舐め合ってしまう。

 たくさん血の出た頭でぼうっとそんな瑣末なことが脳裏をよぎる。


「すごいね。それじゃなにもできないね」てゆうか、もともと何もしないか。

 何もしないか、と、言わなくていいことを付け足し彼は普通に言う。

「……」

 週末は互いに仕事が終わってから、会うことになっている。金曜日の夜から日曜日の夜まで彼の家に泊まることがいつの間にか定着していた。週末婚みたいだね。彼はふふっと目を細め小さく笑った。けれど、週末だけあうことにやっと慣れ、週末がいつも待ち遠しくなっていた。付き合って3ヶ月。最初は2日とも開けずにあっていた。離れたくなくて、あたしの方から彼に会いに行った。多分セックスがしたくて行っていた。最初の数回は。けれど、だんだん違うことに気がついた。あたしは彼を、彼の身体ではなく、心を好きになっていた。彼もまた、あたしと同じ気持ちだったと言った。何度も身体を重ねるということは、心も重ねるということなんだ。彼に抱かれる度、せつに感じたこと。 

「なにぃ?なにもしないってさ」

 頬を膨らませ怒ってみたものの、本当になにもしないので、否定も肯定もできず、あたしは肩をすくめた。

「不便だね。パソコンは打てるの?」

「うーん。まあ、なんとか。でも、普段は気がつかなかったけれど、以外と親指って使うんだよね。パソコンって」

 あたしは、彼の肩に頭を委ねそうっと切った親指を撫ぜた。切ってから1週間が経っていた。その実。あんなに大袈裟に騒いだわりに、進化した絆創膏のおかげですっかり痛みもなくなり、血も止まっていた。彼には電話で泣きながら話しをしたから、今夜会ってみて、傷の深さを改めて実感をした風だった。

「じゃあジャンプーとかはどうしたの?」

「あ、してないや。週中に美容院に行って前髪カットしたときシャンプーしてそれっきりしてない。んー、2日してない」

「してあげるわ」

「え?」

 彼が軽口でいう。

 さっき食べたスパゲティーのお皿も洗っていないのに、あたしの髪の毛を先に洗うだなんて。

「いいよぉ。悪いし」

「は?いいよ。いいから。シャワーいこ」

 彼は洗う気満々ですくっと立ち上がった。

 あたしを見下ろし、手を引っ張る。いこ、いこ。

 頷きながらも、ええー、どうしよう。でも、なぁ。無駄な思いがあたしのシャンプーをしてくれるという案を不安要素に変えてゆく。

 シャンプーをする=すっぴんを見られるということになる。彼に会う日はバッチリとメイクを施している。毎日地味な服装と控えめなお化粧の出で立ちで仕事(事務)をしている。お化粧をしないと自分でいうのもなんだけれど、ブスだ。彼とのお泊まりのときもすっぴんは見せてはいない。げげ。どうしよう。

「はやくきてよ」

 彼の声がする。あ、はーい。ちょっと待って。先に俺、シャンプーしてるわ。

 彼の声が聞こえ、うん!と、安堵の声と悟られないよう、急いでスマホを握り、検索をした。

【彼氏 お泊まり スッピン】

 と打ち込む。ものすごい数のワードが引っかかりあたしと同じ悩みの女性がたくさんいることを知る。読んでいたら、なんだかバカらしくなって、洋服を脱ぎ捨て、裸で彼のいる浴室に行った。

「あ、来た」

 あたしは、こくんと首をおり、ねぇ、と、彼に問いかける。

「なに?ここ座って」

「最初にね、ゆっておくけれどね」

「うん、なに?」

 あたしは、椅子に座り、耳を押さえ下を向く。そしてくぐもった声音で続けた。

「スッピンがどブスです」

 彼の気配が固まった気がした。言わなくてよかったのかも。ああ、後悔しても遅い。変なことを言ってしまった。忸怩たる思いに胸が詰まる。

「は?なにいってんの?」

 彼は、んな、ことどうでもいいし、あやちゃんは、あやちゃんだし。

 鼻歌を歌いながらてっぺんからシャワーをかけてゆく。髪の毛を美容師さん以外に洗ってもらったことなどなく始めてなことに気づく。

 大きな手があたしの髪の毛をするすると滑ってゆく。気持ちがいい。美容師さんに洗ってもらうよりも気持ちがいい気がした。長い毛でよかった。顔がうまく隠れてくれる。でも、すっかりパンダ目になっているであろう、目の周りを気にしつつ顔をもたげ、彼の胸に頭をつける。

「こうしたほうが、前流れるよ」

 なんだか、恥じることが恥ずかしかった。彼はおでこから泡を流してゆく。なにも言わずに、もくもくと泡を流す。目を綴じていても彼の温度を感じ、髪の毛を梳いてくれる手がとても愛おしく感じた。

 リンスをし、さらに流して全て終わった。あたしは、シャワーを顔から思いきり浴び、石鹸で顔を洗った。身も心も丸裸になり、隠すものもなくなってすっきりした。

「別に変わらないじゃん」

「え?」

「顔」

「はあ、うん。そう、かなぁ」

 へらへらとだらしない顔を向け笑ってみる。

 メガネがないので自分の顔がぼやけて見える。けれど、ブスさは飛躍しているはず。

「わ!」

 急に目の前が暗くなり、バスタオルがあたしの頭の上でゴシゴシとせわしなく動く。彼は雨に濡れた猫みたいだね。と、笑いをこらえいいながら、あたしの髪の毛を拭く。

 ドライヤーの音がし、今度はドライヤーであたしの長い髪の毛を乾かしてゆく。

「長いなぁ。乾かすのだけでも時間かかるね」

 彼は汗をかきながら、あたしの頭に熱風を浴びせる。とても心地がいい。好きな人があたしの髪の毛に触れる。最高の愛撫だな。と、ふと、思う。

 彼はあたしを猫のように扱う。布団に入っても、何度も頬を撫ぜ、髪の毛を梳く。シャンプーもドライヤーで髪の毛を乾かすのもセックスに似ているところがあると感じる。

 彼はあたしを優しく抱きしめ、猫のように可愛がる。あたしは、猫のように啼き、猫のように丸くなり、彼の全てを受けいれ、愛を享受する。この上ない快感はあたしの全てを解き放ち、あたしの身体も心も全て解放してくれる。


「ねぇ、シャンプーいい?」

あれから、1ヶ月。すっかり傷も癒え、絆創膏もしなくてもいいのに、彼にあう週末だけ絆創膏をしていく。

「いいよ。てゆうか、まだ治んないんだね。よほど深いね。縫ったほうがよくね?」

 シャンプーが大概面倒臭いのだろう。彼は眉間に皺を寄せつつあたしの指に目を向ける。

「うーん、かなりさ、いいけれど、仕事でパソコン打つからさ、なんか、傷が開くみたいでね、でね」

 彼は運転をしながらあたしの話しに耳を傾ける。そっか。シャンプーさ、なくなちゃったから買ってこ。

 あたしは、頷き、彼の方に目を向ける。

 作業着の彼が一番好きだ。

 会社員の彼は作っているものの品質管理と、設計をしている。器用なのもうなずける。

 彼がしてくれるシャンプーがここのところの儀式になっていて、だからあまりお化粧をしなくなった。慣れと同時にお化粧は薄くなります。ネットで検索をしたとき、書いてあったな。ふと、思った。

 当分は指が治ってないって嘘をつくつもりだ。治ったといえば、もうシャンプーはしてくれないだろうから。もう少しだけかわいい嘘を許してほしい。

 ごめんね。


 彼には心で謝罪をしつつ、あたしは見えない舌をだす。

 外はすっかり暗く、まだらに点在する小さな商店街を抜けると彼のうちに到着する。

「お邪魔します」

 から、

「ただいま〜」とゆっているあたしは、彼と同じシャンプーの匂いに抱かれ、彼の腕枕でまどろみながら猫になる。


「あ!シャンプー買ってくるわ。忘れてた!」

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deceive 藤村 綾 @aya1228

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