爪の木立のー

季早伽弥

第1話

 この時期、屋内から外に出る瞬間が好きだ。 

 室内の体感で大体の寒暖は当然見当はつくし、晴れていても風が冷たい日もまだ多いが、踏み出した瞬間、さっきみたいに予想より柔らかな外気に包まれると得した気分になる。

 家のカギを指先に引っ掛け、揺らし歩きながら改めて周りを見ると、地面も頭上も濃淡合わせて絵の具並みに色が揃うんじゃないかと思うぐらい、草木の色が増えている。今まで気にもしなかったが、遅蒔きながら休み中の余裕かね、と思う。

 家の近くの畑脇にある、大量に実ったキンカンに注目しながら歩いていると、背後からベルの音が響いた。

 それ程近くなく、慌てはしなかったが、やすしは反射的に両手を丸め、同時に違和感が頭をもたげた。平日昼間の小道に人けは滅多にない。軽なら十分の幅のある道で注意喚起があたクラクションじゃなくて自転車ベルかよ、と思ったのだ。

 間を置かず、またベルがジリジリ響き「おーい」と今度は声がして、恭はさすがに立ち止まって後ろを見た。

「加田ー」

「岸崎⁉」

 よお、と片手を上げ、岸崎匡直ただなおが昨日も遊んだ友人ダチみたいな顔でのんびり自転車を漕いで来る。意外なこともあるもんだと思いながら、恭は両手をポケットに入れて岸崎が追いつくのを待った。

「あったかいよなー、今日は」

 立ち止まる恭の横で岸崎が喋りながらおブレーキをかけた。

「陽射しけっこう強いよな」

「そうそう」

 部活帰りだろう、シャツは腕まくりして制服の上着はスポーツバッグと一緒にカゴからはみ出している。 にしてものんびり、というより明らかに片足を庇って漕いでいる。何部だったか、

「…通学路じゃないよな」

 思い出せないまま取り敢えず一番気になった質問を投げると、「方向は一緒だろ」と岸崎は笑った。

「阿谷の家寄ってさ、そのまま真っ直ぐきた」

「ああ…」

 国道沿いからこの細い脇道に逸れてすぐに阿谷の家、その先に自分の家、さらに道なりに進むと再び国道に繋がる。繋がるが割と大回りになるため、阿谷の家から引き返して国道に出た方が無難だ。岸崎の家はよくは知らないが、国道を挟んだ反対側の住宅地の筈だから、余計そっちの方がいい。

「なんかさ、気分でこっち通ってみた。加田ん家そこだろ?いま通ったとこ、前ここ通った時、阿谷に聞いた」

 岸崎は体を半分反らして振り返った。

「借家だけどな」

「へえ」

 岸崎は、中、高一緒の同級だが同クラは中学の一度だけだ。

 出席番号が近かったから何度か話した記憶はある。内容は覚えてないが、人当たりよく誰とでも気さくに話す印象で、阿谷達のグループでも違和感なく溶け込むな、と素直に感心した覚えがある。高校でも接点はなかったが、印象は変わってなさそうだった。

「そういや足、痛めたのか?」

 ペダルに乗せた右足首に包帯が見えたので思い出した。

「ああ部活で、軽く捻ったくらいで大したことない」

「ハンドだっけ」

「よく知ってんな」

 中学のハンドボール部が強豪で、岸崎もいたこともついでに思い出す。

「加田こそ手、どうかした?」

 サラリと聞かれたのでつい反応が過剰になった。

「いや最初ベル鳴らした時、両手気にしてたみたいだからさ」

「マジかよ」

 手を丸めただけだ。驚くと、岸崎は偶然偶然と言って笑った。

「どこ行くの」

「コンビニ、昼飯買いに」

 答えながら、立ち止まったままなのに気づいて恭は歩きだした。岸崎は自転車に乗ったまま、左足で地面を蹴って隣に並ぶ。

「にしてもよく俺だって分かったな」

「いくらなんでも分かるって、校内で見かけるくらいはするじゃん」

「そういや、そうか」

 心外そうな岸崎に笑い返そうとして後ろからの車に気付いた。

「岸崎、車 」

「お、」

 狭い道なので車が来ると必然的に端に避けることになる。恭は道端を背に止まった。

「と、  」

 自分と一緒に道の右側にいたため、岸崎もそっちに自転車を寄せようと、うっかり痛めた右足を踏み締めたらしい。痛そうに顔を顰め、自転車が傾きかけたので、恭は咄嗟にそれを支えた。その間に速度を落とした車が脇を通り過ぎて行く。

「悪イ、つーかその爪どうなってんだ⁉」

 自転車の前部分を支えている恭の利き手を目にして岸崎が驚いた声を上げた。正確には右手人差し指の長く伸びた爪を、しまったと思ったが、どうしようもない。

「…ネイルアート…みたいなもんかな」

 よく見えるように右手を出すと、岸崎は一センチ以上も伸びた人差し指の爪の先をまじまじと見た。

 その伸びた爪の部分に、欄間のような複雑な模様の刳り貫きがある。

「うわやべーなこれ…つけ爪、とかじゃないよな、これ自分で彫ったのか?」

 その辺は答えようがないので曖昧に笑っていると、岸崎が爪を空に翳してくれと言い出した。

「マジで穴開いてんのかなって」

 なんだそりゃ、と応じつつ、岸崎の顔の斜め上に自分の右手の平を被せるようにすると、岸崎は再びおおーと声を上げた。

「ちゃんと光が通ってんな、これ゛透かし彫り゛とかいうやつだっけ?マジどうやってんの、加田左利きだっけ  もしかしてそっちもか」

 テンション高めで視線を左手に向けられ怯んだ恭に気付くと、岸崎は乗り出した身体を引いた。

「ごめん、なんか悪かったか」

「いや、こっちは  」

 右人差し指のように模様が刳り貫かれているわけではないが、左手にもやはり長く伸ばした爪が一本ある。今になって見せることに抵抗はなかったが、見た目が異様に悪いので躊躇ったのだ。

「そういや隠してたもんな、あんまり人に知られたくない感じ?」

 気を悪くした風もなく、岸崎は片足をペダルに乗せた。そのまま緩く踏み込むのに合わせて恭も再び歩き始める。相手の気持ちを察するのが早い。そういえばこんな感じの奴だったかと思い出す。クラスで周りに人が絶えなかった。

 それはさておき、事実は話せず嘘もつきたくないから、恭は頭を下げるしかなかった。

「この爪で出歩いといて頼むのもなんだけど、黙っといてもらえると助かる」

「オーケー、俺口は堅い方よ。  にしても、マジにそれどうやってんの、なんつーか、人間業っぽくない出来だよな、あ、これも聞いたらダメか?」

「ごめん、勝手だとは思うけど、話すのがスゲー難しくて…」

「あー…そっか」

 あっさりと了承してくれた岸崎だが、やはり爪の透かし彫りは気になるようだ。嫌な顔はされなかったが、さすがに微妙な空気は免れない。

 と、岸崎は自転車を止めると、乗ったままいきなり前屈みになった。

「紐解けた、ちょっと待って」

 ペダルに載せたまま右の靴紐を結び直す。右足の包帯で紐を緩めていたのだろう。屈めた頭を斜め前辺りから眺めながら恭は結び終わるのを待った。

「それ   」

 顔を上げた岸崎の視点が、無意識に垂らしていたらしい恭の左手親指に止まった。息をのんだ様子に、恭は言った。

「ガタガタでキモイだろ、引かせると思って」

「どうしたんだよそれ、痛くね」

「いや全然。爪のすぐ下のとこ火傷して、皮膚が荒れたのが原因らしい」

 火傷部分は完治しているが、爪の生え際にある薄い皮が、治りかけの逆剥けのように乾燥して丸まってしまっている。そこから伸びた爪は表面が縦筋や凸凹で波打ったように歪み、艶もなくてまるで老人の爪のようになってしまっている。親指の生え際のすぐ下を恭は示した。

「この辺で爪が作られるから、ここ痛めたりするとそういうことあるみたいよ」

「へーそれでこんなになるのか、初めて知った。もう少し見ていいか」

 ざっくり説明すると、岸崎はそのままの姿勢で興味深げに頭を寄せた。割とじっくり観察してから起き上がる。

「…伸びてくる爪が怪我の影響で変形してくるんだよな?爪全体が曲がってるってことは……加田、お前それ一体いつから伸ばしてるんだ?つーか相当ひどい火傷だったってことだよな  」

 察しがいい。手の爪が伸びる速度はひと月で精々3、4ミリだ。

 火傷をしたのは先月で、そのあと塗り薬が合わず、痒みが出て掻きむしったり、不注意でテーブル側面のささくれで何度か指先を擦ったり(これは座る位置と、爪を伸ばしている時の無意識に指を浮かす癖が、火傷のせいでいつもより過剰になったからだろうと母が言った)で、少しは治りが長引いただろうが、それらを加味しても普通なら爪全体がこんな状態になるのはおかしい。

 ただそれがおかしくない理由が自分にはある。一部の爪の伸びが不自然にに早いのだ。それくらいなら話してもどうということもないのだが、母親との約束もあり、無難な返事をする。

「火傷プラス色々あったから、伸ばしてるのは単にこのまま伸ばしたらどうなるかと思って」

「そんだけかよ、まあ分からないでもないけどさ」

 清々すがすがと笑う岸崎に「車来たぞ」と、再び注意を促しながら恭は斜め後ろに数歩後退さった。抜け道にも使われるので、意外と車の通行は多い。

 体を反らして後ろを見、前を向きながら岸崎はハンドルを右に傾けた、拍子に前カゴから落ちた上着が、アスファルトの上でゴツッと音を立てた。

「新品スマホ‼」

「マジかっ」

 ほぼ同時に上着を拾い上げようと二人が動き、岸崎は推し量るにさっきより強く痛めた右足を踏み込んでしまい、右腕を上着に伸ばしかけた姿勢のまま、自転車ごと倒れそうになった。

 恭の方も当然利き手で拾いに掛かっていたので、咄嗟に右手で倒れそうになった自転車を抑え、空いた左手で岸崎を支えようと、伸ばされた右腕を摑んだ。

 その際、車が迫る焦りと数歩下がっていた分、屈みながら前へ出るのに勢いもあった。

 つまり互いに衝突寸前でもあったので、やむない面もあったのだが、左手を出した瞬間に恭は゛爪゛の存在を思い出した。1センチ以上も伸びたそれは完全な凶器だ、やばいと思ったが間に合わなかった。

 左手で摑んだのは岸崎が袖を捲って腕を出していた部分、  五指のうち凶器と化した親指は、肘の内側の若干それた下辺りを、爪が皮膚を突き刺さして捉えていた。

「ゴメン助かったっ、   加田?」

 自転車ごと転倒を免れた岸崎は、体勢を戻そうとして固まってしまった恭の抵抗に遭い、訝しげにその視線を辿り、起きたことを理解すると同時にこちらも硬直してしまった。

「さっ刺さってる   よな?」

 声ごと表情を強張らせる岸崎に対し、辛うじて視界の端で車が他所の家の前に止まったのを見て取った恭は、強いて冷静さを保って口を開いた。

「取り敢えず、起き上がれるか?痛い?」

「……大丈夫、みたいだ」  

 意外と落ち着いた返事を返したので「いくぞ」と声を掛け、恭は腕に刺さった爪はそのままで、右手で支えていた自転車をそっと押し戻した。合わせて腕を摑む左手指も軽く動いたが、皮膚を貫通した爪から伝わる感覚は何もなく、血が滲む様子もない。 

 だから、考えられる理由はおそらく一つしかなかった。

「特に感触もないんだけどさ…やっぱ刺さってるよな?」

 体を元に直した岸崎がまた聞いた。ふと爪の先から押し出される感覚が伝わってきて、何か答える前に恭は反射的に手を引いた。

「わっ、お前声掛けろよ」

 非難した岸崎はしかし、こちらの表情に漸く自らの腕に何の異変も無いことに気づくと、慎重に触ったり動かしたりし始めた。

 恭は岸崎が腕を見回す間、引き抜いた左親指を恐る恐る見た。見ておそらく岸崎以上にパニックし、呆然としていたところに突如その岸崎が顔を向けて叫んだ。

「まさか加田の爪が折れたのかっ」

「はあ⁉」

 思わず間抜け声を出してしまったが、そう考える方が余程自然かもしれない。 現実は、極めて不自然で非常識だが。

 自分の五指は、確かに相手の右腕を摑み、そのなかの長く伸びた親指の爪が腕に刺さった。岸崎が腕に気を取られている短い間に、何度その光景を反復しても、僅かに感じた皮膚の抵抗と共に゛見間違い゛を強固に否定する。なのに簡単には状態を受け入れがたい。

「あれ違う?あ、なんだ無事じゃん  」

 長く伸びたままの爪に気づくと岸崎は表情を緩めた。だがそのまま首を傾げると、さっきの自分と同じ様に、その爪を凝視した。

「俺の爪、歪んでた、だけだよな」

 さっきは歪んでいただけの伸びた爪部分に、今は複雑かつ奇妙な模様の透かし彫りが出来ていた。これこそが自分の混乱の原因だった。

 恐々として問うた恭だったが、ややあって岸崎はいきなり体を折って笑い始めた。

「なんだマジックかよー、マジでビビった。本気でビビったし、やべーそれどうなってんの、つか加田ってそんな特技あったのかよ」

 (…そりゃそうなるよな)何も知らければ単なるマジックにしか見えない。゛普通の反応゛に接し、自分が思った以上に冷静でないことに気づくと同時に解決法も思い出した。ポケットを探って家のカギを出す。キーホルダーに一緒に付けてある携帯用ミニ爪切りの柄をひっくり返すと、岸崎の「まだ続きあんのかよ」とちゃかすのを聞き流しながら、左親指の表面が歪み、突如彫りまで入ったその爪を、刃に入れて挟んだ。

「いっ⁉」

「どうしたっ」

 突然、鋭い痛みに襲われた。何が起きたのか分からないまま、言い様のない激しい痛みで体中から血の気が引き、かわりに脂汗が浮いて震えが止まらなくなった。

「おい加田っ、加田⁉」

 とてもふざけている様には見えなかったのだろう。岸崎の驚いた声と自転車の倒れる音が、ぼやけた耳鳴りの向こうから聞こえた気がした。

 長くても数十秒だった筈だが、痛みが引いて気づくとアスファルトに膝をついており、傍で岸崎がスマホに119と叫ぶのを何とか声を振り絞って止めた。

「大丈夫…」

「加田! 本当か、めっちゃ顔色悪いぞ、どうしたんだよ」

「…わからない、急に指先がスゲー痛くなって 」

「指?爪と一緒に指まで切ったとかじゃないよな」

 自分も咄嗟にそう考えたが、そんな感触はなく、勿論血など出ておらず、爪も伸びたまま変わった様子はない。

「…   」

 ただ激痛が走ったのは柄に力を込め、両方の刃が爪を挟んだ瞬間だったかもしれない。 

 嫌な想像をして、恭は歪んだ爪を改めて見つめた。透かし彫りは木で出来たもの以上に細かく繊細でさっきより綺麗に見えたが、波打った爪のせいもあってやはりどこかいびつさを感じる。爪の彫りをそんな風に感じることは初めてだった。

「  それ、切れないのか?」

「え?」

 発された言葉より、今喋ったのは誰かと思って恭は顔を上げた。

「いや切れる、筈だけど…」

「そうか?」

 当然、発したのは傍で覗き込む岸崎だが、気のせいか空気がおかしく感じた。正しくは纏う空気が、か。

「 でさ、誰だっけ」

「へ?」

 岸崎は立ち上がりながら、面倒臭そうに小さく息を吐いた。

「だからお前はさ、誰?」

 つられて立ち上がった恭はその顔をまじまじと見た。ついさっきまでの岸崎とは、口調だけでなく表情が違う、目つきが違う。人当たりが柔軟かつ気さくな印象が完全消失し、代わりによく言えば落ち着いた、悪く言えば対人温度が結構低そうな雰囲気に変わっている。 それも一目で分かる変わりようだ、まず笑顔が全然ない。

 ハンドボール部に加え演劇部にも入っていたかと思うにも違和感があり過ぎ、困惑したまま恭は答えた。

「…誰って、加田だけど 」

「 ああそっか、加田だよな。 同じ高校の」

 自らに言い聞かせるようにブツブツと呟いた岸崎は、ふと恭の左手に視線を移し、言った。

「ああ、お前が俺の発生源か」

「…ハッセイゲン?どういう意味 」

「まさか分からないとか?状況判断悪いだろ」

 視線は左手の一点を見据えたまま、吐き捨てるように言う。

「…お前岸崎、だよな?」

「岸崎だろ、俺は」

「見た目じゃなくて 」

 岸崎の腕に刺さった爪が、それによって透かし彫りが出来た時に刳り貫かれて生じる爪の断片が、刺された側に残される。

 それがこの別人のような岸崎の原因なのではないかということは、咄嗟に想像できていた。たとえ弱い力でも今まで彫爪ほりづめ(模様の出来た爪を自分はこう言っている)さえできれば百発百中だから、何かは起こる。その程度の自負はあった。

「一応な。但し俺は爪に抵抗するために出てきた゛力゛だから、お前の知ってる岸崎匡直とは違う」

「…ごめん、もう一回言ってくれる」

 何かは起きているようだが、言ってる意味が解らない。

「 取り敢えずもう一度爪を切ってみろよ。さっきからの様子だと切れたら終わり、なんだろ」

 が広げた手の中に自分の爪切りがあった。

「拾っておいた」

 いつの間に落としたのか、記憶にないまま恭は礼を言って手を伸ばしかけ、止めた。

( 分かっているのか?)

 もしそうなら、自分や家族以外でこの爪のことを理解する相手は初めてだ。それが爪の欠片のせいだとしたら、切った後に話を聞ける保証はない。

「なあっ 」

 だが岸崎は話そうとするのを遮るように素早く爪切りの柄を開き、左手を捕らえた。

 今度は恭は摑まれた手を激しく振り払った、岸崎がもう一方の手に持っていた爪切りも勢いよく弾け飛ぶ。 刃が爪に触れるか触れないかだったのに、なりふり構う余裕もない激痛が脳天を貫いた。手の先を強く握りながら奥歯が潰れるくらい噛み締める。そうしないと痛い痛い痛い痛いと呪文のように声が漏れ出そうだった。

 手を振り払われた岸崎は驚いた顔をしたが、すぐに素に返り、飛んだ爪切りを拾って戻ってきた。 

「切ろうとすると、痛みがくるみたいだな」

 さっきと同じく数十秒後、間歇泉が弱まるように痛みが引いてきた恭は荒く息を吐きながら呆然とする。淡々と見守っていた岸崎が聞いた。

「こういう事、前にもあったのか」

「ない」と恭は短く答える。

「 道理でなんかが出てくるわけだ…、それでどうする、このままだとこの体は延々お前のコントロールを受けることになる、違うか?」 

 やはりこの何か異変の起きた岸崎は、自分の彫爪の持つ力を知っている。だがその力がこれまでにない形で起きているのが今の状況で、恭自身分からないことだらけだ。

「それがさ…今まで爪が人に刺さったこと、無くって 」

「何だと」

 鋭い双眸はやはり最前までの自分の知る岸崎のカケラもなく、「どういうことだ」と畳み掛ける声には不思議と険しさまでは感じられなかったものの、結構なプレッシャーだ。

「彫爪の力が使える対象は゛木゛だけで、単に硬度の問題で刺さることはあっても、木以外で彫りが出来たことは一度もない。 だから対人だとどうなるのかさっぱり分からない」

 さすがに口を開けた岸崎に、ついでに透かし彫りの出来た爪を彫爪と呼称する説明を加えている最中、至近弾のごとくクラクションを浴びて初めて間近に迫る車に気づいた。

 迷惑顔のドライバーに頭を下げつつ、恭は急いで脇に避け、岸崎は振り向かず素早く倒れた自転車を道端に引き、二人それぞれ間を置かずに発信した軽乗用車を見送った。

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