顕巨鏡

岬の子 (X年6月)

「岬ちゃーん、どこ行くの?」

「島村くん、模試は受けないの?」

「岬ちゃんこそ、どうして?」

「わたし、就職だもの。大学に行くお金がないの。わたしは親がいなくて、高丘養育園という施設[注1]で暮らしてるの。施設の職員の人たちがよくめんどうをみてくれるから、これまで、親がいなくて不幸だと感じたことは、あんまりなかった。でも、高校卒業とともに、養育園を出ないといけないんだ。それからは、衣食住にかかるお金は、自分でかせぐしかないんだ。

養育園から大学に行きたい子のために、学費や生活費を出してくれる人もいることはいる。でも、数が少ない。医者とか学校の先生になる人が優先なんだ。わたしも、理科の先生になりたいと思うことはあるけれど、教師という仕事がつとまるかどうか、自信がない。同級に、必ず教師になるという決意がかたい子がいてね、その子が優先されるのは無理もないよ。」

「残念だなあ。

理科の実験の時間の岬ちゃん、目が輝いてる。

理科がきらいだったぼくが、岬ちゃんを見て、もしかしたら実験はおもしろいんじゃないかと思って、三年生の物理をとることにしたんだよ。成績はよくないけど、むかしのぼくよりはだいぶ進歩したんだ。岬ちゃんは、もう、理科の先生の役割をしてるんだよ。」

「そんなこと言われると、あきらめられなくなっちゃうじゃない。うまく就職できて、何年か働いて、貯金ができたら、大学へ行けるかもしれないな。それをはげみに生きていこうかな。」

「もっと早く、なんとかならないかな。」

「島村くん、学校にもどらなくていいの?」

「模試よりも、岬ちゃんのことを考えたいんだ。」

「それなら、T岬に行こう。バスに乗って。」

- - - - -

「まず展望台にのぼろう。三方が海で、見晴らしがいいから。」

- - - - -

「あそこに建物があるよね。これからあそこに行きます。」

- - - - -

「この建物は建てかえられているけど、18年前にもここに建物があって、1階にトイレがありました。

ある朝、掃除の人が、女子トイレで泣き声がするので、見てみたら、生まれたばかりで裸のあかんぼがいたの。その人がたまたま養育園を知っていて、養育園に電話をかけたらしいの。そういうときは警察の捜査も必要だから、養育園の人が警察に電話して、助産婦[注2]さんとおまわりさんがいっしょに来たの。

それで、わたしは養育園で保護されて、仮に「岬の子」って呼ばれていたんだけど、1週間たっても親の手がかりがないので、養育園で出生届を出すことになって、そのまま「岬」っていう名まえになったの。

わたしの母親は、ここでわたしを生み落として、立ち去ったらしいの。手押し車、というよりも、車つきの買い物袋のようなものの車のあとがあったけど、遠くまではたどれなかったんだって。

岬の崖から身投げしたんじゃないか、って考えるよね。でも、その痕跡はなかった。あそこで身投げして痕跡が残らないことはまずありえない。波打ちぎわまでおりて、海に身をまかせたなら、あとかたなく消えることもあるかもしれない。でも、たぶん、歩いて人里に帰っていったんじゃないかと思う。子どもをかかえては生きていけない事情があったけど、子どもを生み落として身軽になったら、生きていけたんじゃないかな。もしかすると、こっそりわたしを見守ってるかもしれない。でも、大学に行くお金を出せるほど豊かではないんじゃないかな。

父親のことは、もっとわからない。わたしが生まれたことも、もしかすると母親が妊娠したことさえ、知らないんじゃないかな。もし自分の子がここにいることを知って、助けてくれたら、と思うこともあるけど、暴力をふるうような人だったら困るな、とも思う。」

「ここにはたびたび来るの?」

「うん。海が見たいときも来るし、わたしがなにものか考えたいときも来るよ。」

- - - - -

「うちも、あんまり豊かじゃないんだけど、ぼくが大学に行けるだけの貯金はしてくれてるんだ。

でも、ぼくには、岬ちゃんの理科の実験のような、大学でぜひやりたいっていうものがない。

ぼくが大学に行くよりも、岬ちゃんが大学に行ったほうが、世界のためになるような気がする。

うちの親に、ぼくの代わりに岬ちゃんを大学に行かせてほしいって頼んでみようと思う。」

「そうすると、島村くんは高卒で就職することになるんだよね。給料、安いよ。」

「同じ経験年数だと安いけど、経験年数を4年多くできるから、負けないよ。」

「そういう仕事が見つかるといいけど。

あ、わたし、もう島村くんの好意に甘えたくなってる。でも、島村くんのお金じゃなくて、親ごさんのお金でしょう? 親戚でもない よその子のために使うなんで、考えられないんじゃない?」

「簡単じゃないと思うけど、頼んでみるよ。

今度の日曜日、うちに来てくれないかな。H病院前のバス停まで来てくれれば、案内するよ。時間は、うちの親のつごうをきかないといけないけど、いちおう、午後2時としておいて。変えることがあったら、あした学校で会ったときに言うからね。」


[1] この施設は今のことばでいう「児童養護施設」と「乳児院」をあわせもっている。

[2] 今のことばでは「助産師」。

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