ゾンビさん、お大事に。

丸尾累児

起:「そもそもゾンビって、生きてるんですか?死んでるんですか?」

 一樹いつきが向かったのは、I大学の辺境にも等しいゼミだった。

 扉を開けると、白衣を着た1人の女性が事務机に向かって座っていた。



「こんにちはー」



 一樹がそう挨拶すると、とっさに女性が振り返った。

 胸元には「奥原」というネームプレートが掲げられている。その女性、奥原真紀助教授から挨拶を返されると同時に一樹は別の反応を示された。

 それは一樹の存在そのものではなく、一樹が顔の半分をすっぽりと覆う大判のマスクを着用していたことである。



「あら? 一樹君、風邪?」



 すぐに女性から問われる。

 一樹はその問いに「ええまあ」と短い答えた。



「どうも昨日の帰りに雨に打たれたのがいけなかったみたいで」

「そりゃあ災難だったわね。傘は持ってなかったの?」

「午後から降るなんて予想もしてなかったから持ってこなかったんですよ。それがまさかあんな土砂降りになるなんて……」

「確か昨日は講義が終わって、すぐにバイトじゃなかった?」

「そのまま行きましたよ。でも、更衣室に入ったときはずぶ濡れで下着やらなんやら途中で立ち寄ったユニクロで買え揃えるハメになっちゃいました」

「……あらまあ。それはご愁傷様としか言い様がないわね」

「次からは、忘れずに鞄に折りたたみ傘を入れとくよう心がけますよ」

「それが賢明だわ」

「ええ、おっしゃるとおりで」



 クシュンッ――。

 とっさにクシャミがすると同時に鼻水が垂れた。一樹は胸ポケットにしまい込んでいた携帯ティッシュを取り出すと、マスクを外して鼻をかんだ。

 女性に移すと迷惑だと思ったが、風邪の辛さばかりはどうにもできそうにない。

 そんな思いを抱きながらも鼻をかむ。ティッシュは丸めて近くにあったゴミ箱の中に投げ入れた。

 女性が語りかけてくる。




「しかし、そんな状態では今日のゼミに参加するのは無理じゃない――帰って休んだ方がいいわ」

「もうすぐレポートの提出ですし、休むわけにも行きませんよ」

「だが、身体を壊しては元も子もないじゃないの」

「とはいえ、これ以上遅れるわけにもいきませんし」



 と言いつつ、女性の背後に近づく。

 机の上にはブックスタンドに挟まれたファイルの数々と1台のノートパソコンが置かれているのが見えた。

 ノートパソコンのディスプレイには、仄暗い街路を逃げ惑う女性の姿が映し出されている。

 一樹は画面を一目すると、女性の左側を回って奥に備えられた多段式のロッカーへと向かった。

 そこは荷物置き場になっていて、個人の荷物が置けるようになっている。一樹は自分のロッカーの鍵を開けると、首から提げていた鞄を手に持って押し込んだ。

 それから、背中越しに真紀と話をする。



「……映画見てたんですか?」

「昨日借りたばかりの映画をね」

「何見てるんです?」

「ナイト・オブ・ザ・リビングデッドっていう古い映画よ――知ってる?」

「ああ、ゾンビ映画の走りになった映画ですね」

「よく知ってるわね」

「高校の同級生で、その手の映画好きがいましてね」

「たまにいるわよねぇ~そういう子」

「一度、強引に勧められてみたんですよ」



 カチャと音を立て、アルミ製の扉が閉まる。

 一樹はロッカーの鍵を閉めると、真紀の側に歩み寄った。そして、近くにあったパイプ椅子を広げて腰掛ける。



「真紀さんは、ゾンビ映画が好きなんですか?」

「ゾンビ映画って言うより映画全般ね。教授も映画が好きだから、アナタたちがいない時間なんかによく話をするわよ」

「へぇ~教授も好きなんですか」

「映画監督になりたかったらしいわよ。でも、そんなに実力があったわけじゃないみたいだから、諦めてそのまま研究者になる道を選んだんですって」

「それは知らなかったな……。ところで、今日は教授いないんですか?」

「用事があって出かけてるわよ。まあ、今日のゼミは各自に与えた課題の追い込みだし、教授の手を借りることはないでしょうし」

「一番まとめに苦労してるんですけどね……クシュンッ!」

「大丈夫?」

「うぅ……。なんだか寒気までしてきました」

「医者には行った?」

「いえ、帰りに寄っていこうかと。でも、レポートは取りまとめておきたいですし、こうして馳せ参じたわけです」

「熱心なことはいいことだわ。でも、今日は無理せず帰りなさい」

「いえ、そういうわけにはいきませんから」



 と、強気ぶる一樹。

 ところが、その熱心さは真紀の横に置かれたノートパソコンに目移りしてしまう。そこには一時停止された映画のワンシーンが映し出されていた。

 一樹が気になったのは映画の内容ではない。不意に思い立ったゾンビにまつわる『あること』だった。



「あの、真紀さん」

「なあに?」

「ゾンビって、風邪引くんですかね?」



 突拍子もない質問――それは、ゾンビが風邪を引くかどうかというモノ。

 当然、真紀は首をかしげていた。一樹の質問の意図がわからなかったのかもしれない。

 しかし、それ以上にゾンビが風邪を引くという現象が起こりうるかわからなかったからだろう。



「さあ? どうかしら?」



 だから、曖昧な返事をかえされた。

 それでも、訊ねてみたくなった一樹は言葉を投げかける。



「たとえば、町全体がゾンビに汚染されて人々がゾンビ化したとします。でも、ゾンビを駆除できる方法は殺すことしかなくて、銃やら鉄パイプやらで倒さなきゃいけない」

「映画によくあるワンシーンね」

「もし、ゾンビが風邪を引けるなら、この風邪をきっかけに様々な万病を起こして倒せるんじゃないですか?」

「だけど、一樹君。それは、ゾンビが『生きている』という仮定を得られた場合じゃないかしら」

「……ええ。ですから、そもそも『ゾンビが医学的検知から生きているか、死んでいるのか』ということを定義付けようと思うんです」



 一樹の提案に真紀の表情が変わる。

 それは、興味深いテーマだったからだ。美味しそうなスイーツを前にニンマリとした笑顔をするが如く、顔に笑みがこぼれていた。



「面白そうね」



 真紀が身体の向きを変えて、一樹と真っ向から向き合う。

 一樹は、真紀が乗る気になったところで語り出した。



「じゃあ、まずこの場合におけるゾンビは生きていると仮定しましょうか」

「根拠は?」

「簡単ですよ。人間が死んだ場合って、時間経過による腐乱だとか死後硬直なんてことが起こりうるじゃないですか」

「確かにゾンビ映画には、それらが起きない理由を説明していないわね」

「腐乱については、ある程度後付けけがされていることは希にあります。ただ、腐乱した場合は皮膚がただれ、血液が腐敗によって形状を保てなくなった血管から吹き出たり水風船みたいに膨らんだというような現象が起こっても不思議ではありません」

「つまり、一樹君が言いたいことは『そうした現象が起きていないからゾンビは生きている』という仮説ね」

「その通りです――真紀さん」

「けど、死んでいたらどうするの? 風邪を引くことだってあり得なくなるわよ」

「それは、いま説明した腐乱や死後硬直といった現象が起きることを想定し、逆に起きない理由を説明しなきゃいけなくなりますよね?」

「ゾンビウィルスが万能だからって、理由じゃダメってこと?」

「ですね。そうなったら、あまりにもゾンビウィルスが有能すぎる」

「確かに有能すぎるわね。身体的機能を維持したまま、人間の意思を殺すなんて『明確な死』と言えるモノじゃない」

「まあ、曖昧な設定にツッコミいれてる俺たちもどうかしてると思いますが……。それでは、この話のネタが尽きてしまいます」

「フフッ、そうね」

「だから、あえて『生きている』と仮定して話をさせて欲しいんです」

「なるほど。確かに面白いわね」

「それと、なぜゾンビが筋肉や歩行の平均感覚を維持していることについても着目してみましょうか」

「言われると、そこは矛盾してる。腐乱が起きるってことは、少なくとも肉類は屍肉化していてもおかしくないわ」

「そこを正して、この議論は成立すると思いますので、そのあたりについても整理していきましょうよ」

「なら、まずホワイトボードにまとめてみてくれるかしら?」

「了解です」



 と言って、一樹が立ち上がる。

 向かった先は、事務机の脇に置かれたホワイトボードだ。黒色のペンを取り、綺麗な字で語って見せた仮説を白色の板に書き散らす。

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