紅に染まる日

樹杏サチ

第1話

 他人はこれを凡庸と呼ぶのだろうか。

 夜眠れば朝が来て、空腹を感じたら食事を摂る。人として当然の権利を全うするだけの日々を。喜びも怒りもない。ページをめくるように、流れるように過ぎていく一日。

『何もないことが、幸せなことでもあるのよ』

 誰かが慰めのように、そう言った。

 ならば、『幸せ』じゃなくていい。

 いらない、何もいらない。

 都合のいい慰めだけを聞かなくてはならない耳も、願いを吐き出したくなるこの口も。手も足も、何もかもなくなればいい。

 ――命も。

 いつだって、壊したいと願っていた。


 白い光の中、蓮花は目を覚ました。

 夢と現実のはざまを彷徨いながら、何もかもが白い部屋の中を見ていた。壁も天井も、寝台もシーツから出る腕も。そうしてようやく意識がはっきりしてくると、ため息にすらならない息を短く吐いた。

 また一日が始まった。

 けれど、憂鬱ささえ今は感じない。諦めを受け入れてしまった数年前に、蓮花は全てを捨てたのだ。視界に入る、空の花瓶に挿されていた花のように。

 物心がつくかつかないかの頃、蓮花は重症の免疫不全と診断されこの病室に運び込まれた。それから十年ほどの月日が流れたのだという。病室の外で暮らしていれば、今春、高校に上がっていただろう年齢なのだ。

 だが、実感はない。蓮花にはただの数字の羅列でしかないのだ。高校と言われても、学校という世界は本の中での知識でしかなかった。

 ふと、遠くから子供の泣き声が聞こえた気がして病室の入口を見た。だが、締め切られた病室の外から子供の声はもちろん、人の気配すら感じられなかった。

 違う。これは――自分の泣き声だ。

 それは幼い頃の自分。

 まだ何も知らない頃、母の温もりが恋しくてたまらない頃。

 泣いて、泣いて。涙も声も枯れるほど泣いた。母が帰っていってしまうのが嫌で、一人にされるのが嫌で、早く家に帰りたくて。そのどれも叶えられないと幼いながらも悟ってしまったとき、蓮花は泣くことを捨てた。

 当時、毎日のように見舞いに来てくれた両親も、今では月に一度来てくれればいいほうだ。お互い話す話題も見つからず、数分滞在したのちに母は大量の本を置いて自宅へと戻っていく。たったそれだけのために、来なくていいのに。そう告げるだけの気力すらも、今は残されていない。

 寝台に腰を下ろしたまま、テーブルの上に置いてある本を取ろうと手を伸ばしたとき、ふいに窓の外の景色が視界に入った。

 つい先日まで銀色に覆われていたはずの大地は、いつのまにか緑に溢れていた。

 病室の窓から見える景色の中に建物らしいものは何ひとつなく、短く刈られた芝が延々と続いている。ちょうど視界の中央に位置する場所――まるでこの病室の患者の為に誂えたような位置に大きな桜の木が立っていた。

 すでに満開だった。

 いつの間に、と疑問を抱いたが、すぐに自分が数日寝込んでいたことに思い至った。外の景色など見る余裕もなく、点滴に繋がれた腕を垂らしながら天井だけを眺めつづけていたのだったと。たった数日で、これほどまでに変化するものなのか。

 まるで、死に急いでいるようだ。

 蓮花は、喉に何か詰まらせたような息苦しさを感じ、目を閉じた。

 桜の木を見て、初めて息を呑んだ日のことをよく覚えている。

 金色に染まった桜の木。西日が射していた。腹立たしいほど輝かしく、自分が見るにはあまりにも不釣り合いな光景に、視線を窓から逸らそうと思ったそのとき。窓を震わせる風の音と共に、桜の花びらが一斉に舞った。

 息をするのも忘れて見入った。

 やがて風が落ち着くと、高く舞った花びらはゆっくりと地面に吸い込まれるように落ちていく。咲いている花全て落ちてしまったのではないかと危惧してしまうほど、たくさんの花びらが芝の上に絨毯を作った。一瞬の出来事だった。役目を終えた花たちは、今までの輝かしい生き様など覚えていないかのように静かだ。

 不覚にも、美しいと感じた。

 蓮花の胸を叩く鼓動の速さは、病からくるものじゃない。生まれて初めて、言葉の通り本当に初めての感動だった。

 コンコン、と部屋の入口を叩く音で蓮花は我に返った。

 蓮花が入口を振り返るよりも早くに扉が開いた。静寂の中、ガラガラとひときわ大きくその音が響いて、同時に白衣の男性が滑るように入ってくる。後ろ手で扉を閉めると、流れてきた冷たい空気が途絶えた。かわりに鼻につく、ツンとした消毒液の臭いが室内に充満する。

この瞬間が、蓮花はとても嫌いだ。

「おはよう、蓮花さん」

 ベッド脇の見舞客用の丸椅子に腰かけ、マスクの奥から主治医の男性が言った。

 主治医は距離感が遠慮ない。

 身内以外で下の名前を呼ばれるのに抵抗があった蓮花は、恐る恐る苗字で呼んでくれないかと頼んだことがある。だが、主治医は笑顔のまま「せっかく可愛い名前なんだから」と、さもそれが当然と言わんばかりに折れなかった。

 蓮花が自分の名前を嫌っているとも知らずに。

 蓮華草の花言葉のように「あなたがいれば、私の苦しみは和らぐ」と言われる存在になって欲しい。願いが込められた名だと知ったとき、蓮花はすでに病床の上だった。

 ならば、蓮花本人の苦しみは誰が癒してくれるのだろう。蓮花、と名で呼ばれるたび黒い渦が胸の中を泳いだ。

「桜もう満開だね」

 蓮花の視線の先を見て、主治医の男性が言った。

「知ってる? 桜の木の下には死体が埋まってるってよく言われるんだよ」

 迷信だけどね、と目元に皺を寄せて破顔した。

 ――ああ、だから。

 あんなにも美しいと感じたのは。

 自分が望んでいるものが、あそこには在るから。散っていく花びらを見た瞬間から、あのように美しく終わりたいと願っていた。無意識のうちに惹かれていたのは、そこに死が在ったからなのかもしれない。

 風に舞って落ちていく花びらを自分の姿と重ねて、何度羨ましいと思っただろう。

「本当に綺麗だね」

 しばらく窓の外を眺めていた主治医が、ぽつりと呟いた。

 問いかけるわけでも、蓮花からの反応を期待するでもない言葉に、蓮花は何も答えなかった。

 何年か前に初めて主治医がこの病室を訪れてきたときのことをふと思い出した。

 新しい先生だと紹介されたのは、猫背の年若い男性だった。頭を下げたとき、直されていない寝癖が見えた。そのとき名乗ってくれた名前はもう憶えていない。

 次の日、先生は花瓶と一輪の花を持って病室にやってきた。何もない殺風景な部屋は、年頃の女の子には寂しいだろうからと。変な先生だ、というのが第一印象だ。持ってきてくれた花は、食事の世話をしてくれている看護師がみつけ、すぐに捨ててしまった。花粉が体に良くない、と。それでも花瓶を片づけようと思えないのは、生まれて初めて異性から貰った花が、嬉しかったのかもしれない。

 花の挿されていない花瓶を見ても、主治医は何も言わないし訊かない。

 その頃になると、蓮花はすでに他人との会話を疎ましく感じていた。食事や薬の世話にやってくる看護師との挨拶ですら避ける様子に、周りはみな顔を顰めた。変わり者の子だと陰で言われているのは知っていた。

 だが、この主治医は違った。

 診察以外にも、休憩に入るとこのように蓮花の病室を訪れては独り言のような言葉をぽつぽつと残してまた仕事に戻る。

 ただの変わり者なのかもしれない。けれど、蓮花にはその変わり者の主治医の在り方が心地良かった。実の肉親ですら、同じ空間にいるというだけで息苦しさを感じていたのに、主治医のこの男からはその居心地の悪さを感じさせない。

「いつかあの桜、一緒に見に行こうね」

 でも、桜の時期になると決まって言う、この言葉だけは大嫌いだった。


 ****


 消灯時間から数時間は経過したであろう夜中に蓮花は目覚めた。

 締め切られた室内に明かりはなく、窓の外から差し込むわずかな光だけが暗闇に伸びていた。

 日中の、孤独を伴う静けさとは違う静寂が漂っている。

 いつもならば眠っている時間。ふと目覚めてしまっても、まぶたを閉じれば一瞬で夢の中に戻れるのに、今日は違った。やけに目が冴えている。

 体を起こすと冷たい空気が首元を撫でるように触れた。完全に目が覚めてしまった蓮花は、しばらく茫然としたまま窓の外を見た。限られた行動の中、窓の外を眺めるのはすでに無意識だった。

 仄かな光を纏って、桜は今夜も咲いている。

 暗闇に映える桜を見たのは、初めてかもしれない。昼の明るい陽射しの元に在る姿とは一変し、ひどく物憂げに見えた。

 シーツから足を出し、素足が冷たい床に触れたと同時にそれは起った。

 どくん、と跳ねる心臓。胸の中を、誰かが叩いているような振動。それは次第に小刻みに、誰かに急かされているかのように速くなっていった。

(な――に?)

 激しい眩暈が視界を真っ白に塗りつぶし、蓮花の細い体が勢いよく倒れた。倒れる寸前に掴もうとした椅子が、夜の沈黙を大きく破り再び静寂を取り戻す。

 冷たい床に転がった蓮花は、そのまま蹲るようにして自分の体を抱いた。指が震えてうまく力が入らない。どうにか立ち上がろうと膝を立てた瞬間、それは再び起きた。

 抑えきれない吐き気。咄嗟に両手で口を覆うが、重い咳が止めどなく溢れた。

 ――吐いてはいない。なら、手が濡れているのは、どうして?

 ぎゅっと瞑っていた目を開け、小刻みに震える手を窓に差し出すように伸ばした。

 薄い光が濡れた手を照らす。べっとりと染まった黒い染み。鼓動がどんどん速くなっていく。

 思わず手を引っ込めて、固く拳を握った。ぬるりとした感触が、頭から離れない。

(血……?)

 恐る恐る握った手を開くと、今度はやけにはっきりと血の色が見えた。

 死ぬのだろうか。このまま何もできずに。

 唐突に、恐怖が足のつま先から頭のてっぺんまで駆け巡った。

 よく見ると、着ている白い病衣が点々と赤く染まっている。涙がぽろぽろ零れ落ち、嗚咽が喉元まで出かかり必死で抑える。泣きたくない、死ぬことが怖いなんて、そんなことはあるはずがないのだ。今までずっと願っていた死が隣まで来ているというのに、喜ぶべきはずなのに――。

 なのに、なぜ涙が止まらないのだろう。

 きっと、自分の病気は治らない。

 周りの大人たちは、口を揃えて「治る」と簡単に口にする。笑顔を貼りつけて。だが、自分の身体のことくらいわかるつもりだ。先日も、寝込んだばかりだというのに、気休めで適当なことばかり。いつだって自分は願ってきたはずだ。いつまで続くかわからない毎日を止めることを、死ぬことを。けれど、実際死を目の当たりにした瞬間、恐怖で声が出なかった。動揺で、唇が震えた。

 もし、たとえば。

 この命が、あとほんの少しだけだとしたら、自分は何を望むのだろう。

 冷静になってきた頭で考えていると、ふと窓の外の景色が脳裏に映し出された。

 あの日の金色の桜。

 舞い踊るようにして散っていった桜の花びらが。

 部屋の入口に近づいて、ノブに手をかける。時計回りにゆっくり動かすと、扉が数センチ部屋の外を映した。誰かが部屋に訪れてくるとき、ほんの少し見える外の世界。

 蓮花は思いっきり扉を開けて、飛ぶようにして駆けだしていた。


 走ることを忘れた足は、時おり何もない場所で蓮花を転ばせた。

 走り方を知らない。忘れた、というには遠すぎる。何もかもが初めてのように感じた。どのようにして辿りついたかわからない非常口の外に広がる、夜の空気や匂い。足の裏に刺さる芝の葉先や小石の尖端。痛みを感じるよりも、失っていた年数分だけ取り込もうと必死だった。鼻から大きく息を吸い込むたびに、胸の奥が軋むように痛んだ。それでも何度も何度も息を吸った。

 ずっと昔に吸ったことあるはずの空気は、どこか青い匂いがした。

 草木の匂いなのか、夜の匂いなのか。ふわりと肌に触れる風はゆるやかで、思っていたよりも暖かい。

 ひらひらと、今も花びらが舞っていた。

 そろそろ桜も終わりの時期を迎えているのかもしれない。

(私と同じ――)

 倒れ込むように、桜の木の根元に座り込んだ。

 背中を太い幹に預け、息を整えながら仰いだ先には桜の花びら。

 ひらひらと、風もないのに蓮花の頭に肩に、地面に落ちていく。もう咲く力もないのだと。そう告げているように。

 散ってしまった花びらをひとつ摘まむ。ほんの小さな花びら。窓から見ていた桜は、とても大きく見えたのに、実際目の前にしてみるとこんなにも儚い存在なのだ。ひとつひとつが集まって、大きな命を作っている。ようやくわかったとき、蓮花はため息をついた。

 自分はもうひとりだ。命を繋ぐほどの絆は、自分の周りにはない。

 背から伝わる幹の冷たさと、地面から立ち昇る土の匂いを感じながら蓮花は目を閉じた。

 穏やかな気持ちだった。

 息苦しさも眩暈も、今は嘘のように静かで、ただ眠い。

 死への恐怖に震えていた自分を滑稽に思えるほど、冷静に受け入れている。

 眠くて眠くて、このまま眠ってしまおうか。

 そうしたら、もう目覚めなくてもすむのだろうか。

 紅い、と思っていた桜はとても柔らかな色で、たくさんの命が集まって紅くなるのなら、自分の命もそこに加わりたいと思った。

 そう、たくさんの命を吸って紅くなるのだ。記憶の中の、金色の桜のように強く。魅了する紅に。

 蓮花の長い黒髪の上を、撫でるように花びらが落ちていく。

 紅く、紅く。どこまでも紅く染まれ――。

 薄く遠のいていく意識の中、強く願った。

「蓮華さん!」

耳に馴染んだ、よく知った声が叫んだ。

重いまぶたを持ち上げると、透明のコンビニ袋を乱暴に捨てる主治医の姿。自分に向かって駆けてくるその表情が、うまく視界に入らない。

 袋から転がるペットボトルの飲料が、芝生を転がり少し経ってから完全に止まる。中身が揺れるのを見て、飲みかけなんだ。なんの味なんだろう。きっと自分は飲めないんだろうな、などと考えていると、夜の冷たい空気が流れるように耳たぶに触れた。

 顔を上げ、一瞬だけ見えた怒りや焦燥を隠そうともしない表情が蓮花を見下ろした。口を開くよりも先に、細く長い指が蓮花に触れた。身を屈めた主治医が、蓮花の体を抱きかかえるようにして支える。頬に触れた指先が、ひどく冷えていた。

 蓮花の目を覗きこんだ主治医は、硬くしていた表情を緩めたと思った途端、再び眉間に皺を寄せた。頬に触れていた指先が、口元に移動する。

 無言で白衣のポケットからハンカチを取り出すと、もう乾ききってしまった血を拭い始めた。

 不思議な心地で主治医を見ていると、主治医と目が合った。いつものふやけたような笑顔ではなく、笑うことに失敗したような微笑を浮かべて蓮花を引き寄せた。

 昔、父親が一度だけスーツに染み込ませてきたのと同じ匂いがふわりと漂う。

(煙草……の匂いだ)

 猫毛の髪と、長い吐息が蓮花の頬に触れた。

「――良かった」

 主治医の声を聞いた瞬間、蓮花の中に何かが走った。

 心からの安堵の声。医師だから、主治医だから。患者を心配するのは当たり前なのに。なのに、なぜだろう。嬉しいと思った。絨毯に落ちた染みのように、心の奥にじんわりと広がっていくこの感覚は、なんだろう。

「もうこんなことはしないって約束して。部屋を飛び出すなんて……僕の心臓がもたないよ」

「……先生、わたしはもう死ぬんでしょう?」

「死なないよ。僕も蓮花さんのご両親も、治ることしか考えていないよ」

 でも、と口を開こうとするより早くに主治医が険しい顔で続ける。

「蓮花さん、知らないでしょ。お母さんね、毎日来て面会時間ぎりぎりまで病院にいるんだよ」

 よいしょ、と軽い掛け声とともに蓮花を抱え立ち上がる。突然に持ち上げられた体が揺れて落ちる、と思った瞬間、蓮花は無意識に主治医の首に腕を回してしがみついていた。ハッと我に返って身を浮かせると、間近で吐息のような笑い声を漏らす気配に気恥ずかしく俯いた。

「蓮花さんに会っていかないんですか、って訊いたことがある」

 真剣な声だった。

「毎日会えば、自分を責めてしまうかもしれない。病気が治らなくて申し訳ないと思わせてしまうかもしれないから、ここから見ているだけでいいです、って。面会コーナーからいつも蓮花さんの病室の窓を眺めているよ」

 脳裏に母親の老いた顔が浮かんだ。本を差し出すと、細い指が伸びてくる。その一瞬、胸が痛くなる。この人は、何年こういうやりとりをしてきたのだろうと。いつまで続けさせなくてはいけないのだろうと。

 増えてしまった白髪や、ぎこちない笑顔に浮かぶ皺。

 ああ、と納得する。

 母は、やっぱり母なのだ。敵わない。悟った瞬間、胸の中でしこりになっていたものがゆっくり溶けていくような感覚に囚われた。

 面会コーナーで、親しげに会話する家族を見て、どんな気持ちでいたのだろう。今さらだ。気付けたところで、もう随分と時を失ってしまっている。だが、やり直したいと思った。

 目尻に浮かび始めた涙を隠すように、蓮花は主治医の背中に顔を伏せた。

「桜、見に行こう。今度はもっと綺麗な場所でね。絶対に行こう」

 絶対、なんて言葉は嫌いだ。

 この世に生きている限り、絶対なんてものは存在しない。蓮花の思いはこれからもきっと変わらない。

 背後の桜が遠ざかる。

「退院したら――」

 連れて行ってくれますか。

 続けようとした言葉は睡魔に負けて、消えて行った。

 大きな背中から伝わる熱と、揺られる振動にまぶたがゆっくり落ちていく。

 絶対なんて、ない。夢の中に向かって手を伸ばすのと同じくらい、頼りなく不確かなもの。

 けれど。

「……僕が一緒に行きたいだけなんだ」

 現実か夢か、どちらで聞いたかわからない言葉は、とても心地良かった。


 白い光の中、蓮花は目を覚ました。

 夢と現実のはざまを彷徨いながら、何もかもが白い部屋の中を見ていた。壁も天井も、寝台もシーツから出る腕も。そうしてようやく意識がはっきりしてくると、ため息にすらならない息を短く吐いた。

 また一日が始まった。

 けれど、憂鬱さは感じない。

 冴えた頭で、病室の入口をノックする音で体を起こす。蓮花が返事をする前に扉が開く。後ろ手で扉を閉めると、見慣れた男性は見舞客用の椅子に腰かけた。

「おはよう、蓮花さん」

 主治医の男性がふにゃりと照れくさそうに笑った。

 脈が速い。

 けれど大丈夫。

 自分が生きていく選択をした証なのだから。



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