君の背中を、俺は突き落としたい衝動に駆られながら。 04
「ぎゃっ!?」
花折が化学室へと続く角を曲がった瞬間、丁度隣の化学準備室を出た人間と派手にぶつかった。その拍子に相手が持っていた箱が落下し、派手な音を立てて中身がぶち撒けられる。それは授業で何度か利用した分子モデルで、最小パーツにまで分解されていたこともあり廊下は一瞬にして大惨事と化す。
「あっ!!ごめんなさいっ!」
「いえ、君こそ大丈夫ですか?」
花折が膝を突いて撒き散らされた分子モデルを拾い集める。ビビッドな色の球と、結合を表現する銀の棒が彼の手の中に寄せ集められ存在しない構造が生み出される。自分の足元にまでモデルが転がってきたのでそれを俺も拾い上げた。
「ああ、すまないね」
ふわり。顔を上げると、真夏に桜が舞い散った。
「君達は?部活の見学者かな?」
白衣を羽織って立つのは、ちょっとお目にかかれない端正な顔をした生徒だった。シャツの襟に留められたピンの色から上級生だと判断して、顔を知らなかった事に納得する。三年生は棟が別れているから顔を合わせる機会など早々無い。
「?どうしたんだい??」
桃色がかった柔らかそうな茶髪が細い輪郭を包み、花が散るように揺れる。細められた瞳には落ち着いた華やかさがあり、視線を向けられるとそれだけで何もかも解析されてしまうような気がした。
「……!いえ」
花折もつい見とれてしまっていたのか、少し顔を赤くして腕の中のモデルを彼の持つバスケットへと流し入れる。
「あの……僕達、化学部っていうか、化学室に用がありまして……」
おいおい、なんだそのしどろもどろは。上級生だからか、自分より背が高いからか。もしそうなら俺にもそのぐらいの可愛げを見せろ。
「ちょっと化学室に授業で忘れ物をしたみたいで、中に入らせてもらってもいいですか?」
埒が明かないと、俺が適当に嘘で固めた理由をでっちあげると、花折が相手から見えない位置でぐっと親指を立てて見せてくる。何がよくやっただ、しばくぞ。
「ああ、そうだったんですか。好きなだけ探していいですよ。ただ今日は水酸化カルシウムの精製実験をしているので、実験器具のある台には近づかないようにしてくださいね」
幽霊部員ばっかりなので見学もぜひどうぞ、と微笑む上級生。嘘に全く痛まない胸を撫で下ろして部屋へと通してもらう。中には誰もおらず、黒板の正面のたった一つの机の上だけに器具は並べられ実験が行われていた。ビーカーの中の液体――水酸化ナトリウムだろうか――がぶくぶくと沸騰していて、如何にも化学部という感じだ。
「そら、探すぞ」
「うん!」
俺と花折は邪魔にならないように後ろ側の実験台へと移り、机の下を探すふりをする。二人で同じ机に潜り込むとは傍から見れば非効率で馬鹿らしい事この上なかろうが、その位の汚名はいくらでも引き受けてやろう。流石に机の上で魔方陣を広げる訳にもいかない。
「後何分だ?」
「二分ぐらい」
「結構長いな……なんとか間を持たすぞ」
あるかー、ないねー、ホントにこの席であってるのか、などとしょうもない会話をしながら魔方陣を描いた紙を広げてその時を待つ。
授業が終わる寸前よりも長く感じた二分の後、訪れた四時四十四分。
ごくりと唾を飲み込む音がやけに響く。書かれた線に僅かにでも変化がないか目を皿のようにして見つめ続ける。
勿論、何も起こらなかった。
「駄目だったね……」
ずっと此処だと当たりを付けていたのだろう。花折の声は明らかに落ち込んでいた。
「探し物、見つかりましたか?」
「ぎゃっほうっ!?」
不意打ちで背中に掛けられた声に驚き立ち上がろうとして、俺は頭を机に強打した。
「未散っ大丈夫!?」
じっとして動かない俺が相当痛そうに見えたのだろう、慌てた花折が俺の頭に息を吹きかける。やめろ、今はそよ風程度の刺激にさえノイズが走るんだ。
「すいません、吃驚させてしまって」
申し訳なさそうな上級生に「いや大したこと無いです」と答え、机の縁を掴みゆっくりと立ち上がる。ぼやけていた視覚センサーが像を結んだのを確認して手を離す。
「あっ、探し物見つかりました!有難うございました!」
フォローするように花折が言葉を畳み、広げていた紙をちらりと上級生に見せた。
「……変わった落し物ですね」
小首を傾げる上級生。その瞳が僅かに細められる。明らかに不審がられている!と直感した俺は花折の背を押して足早に化学室を退場しようとした。
「また来てくださいね!僕は南栄、部長なので入部の際はお気軽に」
風に舞う花のように、優雅に手を振る化学部部長を尻目に俺たちは一目散で退室した。
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