君の背中を、俺は突き落としたい衝動に駆られながら。 03
「あそこ化学部が使ってるから、四時四十四分に入れたこと無かったんだ」
花折はスキップしそうな勢いで廊下を進む。書いてある通り、温んだ水道水で顔も洗った。まだ時間まで余裕があるので、俺は特に急ぐことなくゆっくりと後に続く。
「化学部になんか言われたら、お前が対応しろよ」
「ええ!?そこは物怖じしない未散に全権委任しようと思ってたのに!」
「阿呆か――俺、しゃべるの苦手なんだよ、思ったことすぐ口に出ちまうから。だからなるべく喋んないようにしようって意識してんのに交渉なんて……」
二十年経っても慣れない、とまでは流石に言わない。
「えー勿体無いなあ。未散の声すごい綺麗なのにさ」
「綺麗?」
この頭蓋をも揺らす騒音が?
「うーん綺麗だと違うのかな……ほら、良い声ってやつだよ。聞いてると落ち着く感じ」
「そうか?」
「前に現国の授業で未散が朗読当てられた事あったでしょ?あの時はちょっと聞き入っちゃったな」
「……覚えてねえ」
花折は肩を小さく竦めて、歌うように僅かに顎を引いた。
「あぁほんとうに――どこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはいないだろうか」
思い出した。
「銀河鉄道の夜。思わず後ろ見たら教科書開いてるけど未散の瞳が動いてなくて、ああ暗記してるんだなって思ったんだ。皆も手を止めて聞いてたよ」
梅雨の頃だ。億劫だったから頬杖を付いたまま音読をした気がする。その時の水を打ったような沈黙は、態度の悪い自分に対する非難なのだと思っていた。
「暗記してようがいまいが、読めば皆同じだろ」
情報を脳に入れるためというならば、目から入れても耳から入れても一緒ではないか。同じ情報なのだから。
「読んでた張本人がそう言うならそうなのかな?でも僕は、未散の声に宇宙の美しさとか、それでいて空虚なところとか、燃え続ける星がどれだけ心を温めるのかとか、そういうのを感じたんだ」
そうだろうか。まさか俺の声に、知らず宇宙への尽きない焦がれが滲んでいたのだろうか。消え切らない赤い光。回顧の念が。
「あの時間」
花折の背中が揺れる。
「あの時間だけは、つまらなくなかった」
振り返って花折は恥ずかしそうに笑った。
「未散もっと自分を見たほうがいいよ。髪はもっさりしてるけど顔はかっこいいし、女子とか結構気にしてるんだよ」
背も高いしね、と少し不満そうに花折は続けた。
「みんな、未散と友達になりたがってるよ」
そんな花折の言葉を聴きながら俺は胸中で呟く。
ああでも俺は、お前達と友達になどなりたくないんだけどな。
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