第4話

 鮮やかに輝き始めた明け方の空の下、ひときわ深い暗がりは周りの木々を黒々と塗りつぶして倒木の前に佇んだ。

「入るなと言った」

 声は、音が失われた木立に低く沈んだ。腐って折れた木の幹には苔がむし蔦が巻きついている。倒木の隙間からかろうじて覗く血の気の失せた娘の指先に夜の盟主は語りかけた。

「少し長くこちらに置き過ぎてしまった。一度崩れた均衡を元に戻すのは骨が折れる」

 夜の盟主は息を吐き出した。ほひゅるとなすすべもなく溶けた息はそのまま空高くに登る。とうとう端の空が白み始めた。ここにいられる時間は、もうあまり残されてはいない。夜の盟主は隙間から覗く白い指先を見据える。


「異界へ返るのか」


 倒木の下でイーデルト・クローデリアは力の入らない瞼を開いて、か細く息をついた。重く幹に押し潰された身体は痛みよりも息苦しさのほうがはるかに勝る。圧迫された胸が、余計に身体が動かせぬことを彼女に知らしめた。わずかに逃れた指先すら動かない。唇が震えた。

 薄明かりの中に圧倒的な暗がりが広がっているのが、木との隙間からおぼろげに窺えた。そこにいるのだ。けれども、かすんだ視界で夜の盟主の姿を捉えきることなどやはりできはしなかった。

 イーデルト・クローデリアは目を瞑って額を地面に押し付ける。

「いいえ」

 そんなつもりではなかった。

 夜の盟主は何も答えない。すぐそこまで朝は来ている。もう行ってしまう。うなだれながら彼女は必死に指先を震わせ、地面を掻いた。

「いいえ、グラーチェ」

「ならば、こちらに来るのか」

「あなたが赦してくれるのなら」

「自分で決めろ」

 夜の盟主は言い方は冷たく響いた。あまりにも平淡なその声は、イーデルト・クローデリアが初めて聞いた夜の盟主の声音によく似ている。

 イーデルト・クローデリアは胸に詰まった息を荒く咳き込んだ。零れた息には血の味が絡む。目を開けてもそこからはほとんど何も見えなかった。

「グラーチェ」

「認められたと言ってしまえばよかったのだ。それくらいのこと、お前にもわかっていたろう」

「グラーチェ、だけど」

 決められなかったのだ。どうしても。だから、世界に呑み込まれた。ほとりと涙が目から鼻先へ滴った。歩いて行けただろう。本当はどこへでだって。夜の盟主が諭した通り。

 授けられた猶予はとっくに切れていた。ただ、ぎりぎりのところで引き伸ばしてくれていたのだ。広げられていた多くの選択肢は、彼女自身の浅はかさのせいであまりにも少なくなってしまった。それでもなお残されたうちから選んでもよいと夜の盟主が言うのならば。

「いき、たい」

 イーデルト・クローデリアの色違いの双眸からは、涙が等しく溢れた。しゃくりあげるたび余計に息が詰まる。苦しくとも嗚咽は止まらなかった。

「もうどこへ行くこともできなくなる」

 夜の盟主は唸るように言った。

「私は」

 イーデルト・クローデリアは指先についた湿った土を柔らかに握りしめる。

「あなたを訪ねるまで、どこかに出たことはなかった」

 イーデルト・クローデリアは倒木の下、弱々しく微笑んだ。

「ずっと焦がれてきたのは、あなたが見た景色だった。行くのなら、あなたが見る世界がいい」

 ――グラーチェ。

 イーデルト・クローデリアは答えへの答えを求めて呼びかけた。

 辺りで揺れていた自分とは違う呼吸が諦めたように不自然に詰まった。呆れられたかもしれない、と彼女は思う。仕草こそ見えはしなかったが、夜の盟主が寂しそうに肩を竦めたような気がした。

 暗闇が倒木の隙間から這い伸びてくる。イーデルト・クローデリアは、最期に細やかな息を吐きだした。何もかもが暗闇に覆われる。そうして、彼女の意識は深い闇の奥底に消えた。





 ランプを手にして森を進む娘は、慣れた足取りで神殿へ向かう。

 歩いているうちに日暮れは訪れた。近くの枝に降り立った鳥が呼吸に似た鳴き声を繰り返す。暗がりが濃くなっていくにつれ、草間からは賑やかに虫の音が響き始めた。木の葉が風に煽られてざわめき立つ。辺りが薄闇に溶け込んでゆくのに反して、娘の肌はほのやかに光を帯び始めた。

「グラーチェ」

 朽ちた神殿に向かって彼女は呼びかける。羽音を立てて地面に降り立った夜の盟主の気配に、娘は詰めていた息をほっと緩めた。表情を崩した彼女は夜の盟主に対し、ゆるやかに頭を下げる。

「ありがとうございました。おかげで最期に両親に別れを告げることができました」

「そうか」

「はい」

 銀と瑠璃の双眸を細めて、娘はすっきりした顔でうち笑う。昼の色を映していた金の髪は、娘自身が発する光に照らされて以前よりも淡く見えた。風が吹くと揺れる娘の髪は、暗闇の中、どこよりも光を帯びて辺りから浮かび上がる。

「今度こそ夜の盟主に許されたのだと言ってきたの。だから、もう二度と帰っては来れないと。心配しなくても大丈夫だと」

「遅すぎた」

 夜の盟主は咎めるようにほひゅると長い溜息を吐きだした。

 今では、異質さの中に溶け込んでしまった娘。世界に呑まれることを許容しながら、夜の盟主と繋がることで意思と身体を保った彼女は、異界に返ることがない代わりに、これまで通り人の中で暮らすにはあまりにも周りに影響を与え過ぎる。朝でも昼でもなく夜を選んだせいで、娘はこの時を境に日差しに照らされた明るい世界を見ることは叶わない。

 なぜ娘の身体が光を纏ったのか、夜の盟主には見当もつかなかった。しかし、その光こそが彼女の性質が変わってしまったことを顕著に示す最たるものでもある。

「お前は世界を見るべきだった。ここから離れなければならなかったんだよ、イーデルト・クローデリア」

「これでよかったの」

 イーデルト・クローデリアは、朗らかな声で答えた。

「私に選んでよいと言ったのはあなたよ、グラーチェ」

 時を追うごとに辺りは夜に沈んでいった。隙間のない暗闇が、心地よく肌に馴染み出す。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主がいるはずの一段と暗い闇へ歩を進めた。

「姿を見てはだめ?」

 イーデルト・クローデリアは底の見えない暗がりに向かって首を傾げる。

「だめなのではなく見えるものではないのだと前に言わなかったか」

 呆れたように言いながら、夜の盟主は娘がランプを手に近づくのを止めはしなかった。

 イーデルト・クローデリアはランプを掲げる。ランプの灯心についた炎が宿す鋭い光は、彼女に宿る淡い光に増して辺りを明るく照らし出す。それでも風に吹かれるたび、灯心の明かりはゆらり、心許なく揺らめいた。光の調子につられて照らし出された木の影が踊る。

 掲げたランプの光は、やはり木立を照らすばかりで、他には何も映しださない。しかし、たった一つの方向。ちょうどイーデルト・クローデリアの真向かいにあたる部分に、不自然に光が途切れる場所があった。イーデルト・クローデリアは銀と瑠璃の双眸を瞬かせる。何度目を凝らして確かめても、光の途切れる場所は変わらない。

 他には何も見えない空間。闇ばかりが広がる場所へイーデルト・クローデリアは歩を進めた。手にした光がぼんやりと揺らめく。光を遮る場所に、暗く影が形を浮き上がらせた。夜の盟主を見つけたイーデルト・クローデリアは、驚いている彼の顔へ腕を伸ばす。瞬間、彼女の手の内から零れ落ちたランプは、光を散らして夜にほどけた。

「グラーチェ」

 イーデルト・クローデリアは、すべらかな彼の頬を両手で包んだ。

「あなたは夜そのもの。あなたは世界そのもの」

 抱いた彼の顔に彼女は頬を擦り寄せた。息をつく。

「ようやくあなたに会えた気がする」

 歪な瞼を押し開き、娘は色違いの銀と瑠璃のまなこで夜の盟主の顔を覗きこんだ。ほのやかに暗がりを照らしながら、娘はこつりと夜の盟主と額をあわせ、嬉しそうに笑む。

「はじめまして。私はイーデルト・クローデリア。あなたの妻です。ずっと、いつまでも、あなたのそばに」



 イーデルト・クローデリア。

 それは夜の盟主に愛された娘の名前。

 ほのりと彼女が照らした光は、やがて散らばり星となり、夜の盟主の傍らにありつづけた娘の名は、ほどなく夜の妻神として祀られる。闇夜にいだかれる清き光。いまは神話に語られる貴き月の名前である。

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