昏き海の底で

クファンジャル_CF

【オープニング】

【嵐の夜に】

―――夢を、見ていた。

 そう。これは遠い遠い昔の記憶。私が私になる前、平和だったころの。

 水平線の彼方に沈み行く夕日。岸壁。落下防止の手すり。石畳で舗装された足元の小道。手で支えているのは、前かごにカバンを放り込んだアシスト付き自転車。身を包むのは高校の制服。周囲を行き交う人々は親子連れだったり、小さな子供たちだったり。芝生で覆われた緩やかな斜面。それらすべてを内包する、海に面した公園。その周囲にある住宅街。

 懐かしい故郷の風景。もう戻ってくることのない世界。

 そうだ。私は、この世界を壊してしまった。この光景はもう、どこにも存在しない。

 悔いはない。自分の意思でやったこと。―――

 過去が私を浸食してくる。今ある私を食い散らかし、全てを奪おうと―――奪い返そうと、私の前世が襲い掛かってくる。

 恐怖はない。

 今まで散々、死と破壊をまき散らしてきた。その終末。自分自身に復讐されるというのであれば、仕方ない。

 ただ一つの心残り。金色の髪がきれいだった、私の友達。彼女の事だけが気がかりだった。この後蘇る私は、既に私ではない。私の友をも殺すだろう。

 だから、私は自らを葬り去る。体はくれてやっても、記憶までくれてやる気はない。この世界に何も知らぬまま放り出され、途方に暮れるがいい。

 ああ、それにしても。

 ひどい、嵐だ―――

 そうして、女神わたしは、死んだ。


  ◇


 少女が自分を取り戻した時、そこは戦場だった。


「―――え」

 少女の口から出た言葉は、暴風に呑み込まれた。

 目にまず入ったものは分厚い雲に覆い尽くされた空。肌を激しく打つのは豪雨。常ならば瞼を上げてはおられないほどのそれに、しかし閉じるべき瞼がない事に気付いて困惑する。

 周辺は暗い。風速は百メートル毎秒を越えるだろう。うねる海面はまるで津波。

 嵐である。それも、人間が生存することなど叶わぬ地獄。

 事実、この場には生きた人間など存在していなかった。

「どこなの―――?」

 分からない。少女には、自分が今どうなっているかがさっぱり分からなかった。

 周囲を見回した彼女は、あり得ない光景を目にした。

 遥か下方に波打っているのは海面。

 そう。己はその上空に位置している。何の支えもなく浮遊していたのだ。

 困惑した彼女が視線を前へ向けると。

 

 異様な存在だった。昆虫にも見えるが、より洗練された高度な機械のようにも見える。白銀のそれは、少女自身と同等のサイズか。

 細部を観察する暇はなかった。そいつは、少女へ向け、手にした槍を突き出したからである。

 衝撃。

 音速の八倍で迫る槍は、少女を串刺しにする寸前、その軌道を捻じ曲げられた。優れた技量に操られた赤い剣によって、阻まれたからだった。

 それを成し遂げた剣の主。すなわち少女自身は困惑していた。この怪物はなんだ。この剣はなんだ。いや。それよりも重要な事。

 剣を握るこの腕はなんだ。私の。私の腕は一体どうなっているの!?

 槍に遅れてやってきた衝撃波は、爆風にも等しい勢いで雨を吹き散らし、一時、静寂が訪れた。

 雨滴が吹き飛んだ腕は、赤。ぬらりとした赤い金属一色のそれは、まるで彫刻のよう。

 だがそれは間違いなく少女の腕だった。幾つもの醜い傷跡。その断面は、まるで捩じ切られた金属であるかのような、やはり赤だったにも関わらず。

 感じる。自由に動かせる。まるで神経が通っているかのように。で、あるならばやはりこれは、少女自身の腕であるのだろう。


―――これが、私?


 眼前の怪物。すなわち白銀の昆虫は後退。その刹那。

 ひとつしかない、そいつの複眼―――頭部の半分を占めている―――に写った少女自身の姿が目に入る。

 ひどく歪んではいたが、はっきりと見えたそれは随分と傷ついていた。

 頭部半壊。左腕欠損。腹部に大穴が空いている。瞼がないのも道理だ。頭が半分消滅していたのだから。

 それですら、大した問題ではなかった。ひとの形をしたそれは、人ではありえない姿だったから。

 それは神像―――大いなる女神像であった。

 戦衣を纏い背には弓。甲冑で身を守り、幾対もの翼を広げ、兜で深く顔を隠した巨像だった。

「なに。どうなって―――?」

 言い終える間ほどの時も、敵手は待たなかった。

 突撃してきた昆虫の槍を剣で逸らすので精一杯。

 少女を打ち据えたのは、音速の三倍で突進してきた一万トンの質量そのもの。熱核兵器に匹敵する破壊力を備えた怪物の体当たりにしかし、少女の強靭無比な身体は耐えきった。

 剣を投げ捨てると、少女は反射的に精神を集中する。敵を逃がさぬように前脚を槍ごと抱きしめ、そしてアスペクトを解放。少女の身体を形作る流体。その構成原子が励起した。

 膨大なエネルギーの手を、少女は伸ばした。それは怪物の中心へと至り、拡大し、引き金を引いてから消滅する。

 それは、ささやかな作用だった。ほんの少し、物質の安定を保つ電気的なエネルギーを引き下げただけ。

 それで十分だった。

 物質構造が砕け散る。ごく限られた範囲で同時多発的に発生したそれはたちまちのうちに連鎖反応を起こし、急速に拡大していく。

 凄まじい勢いで、敵の身体構造を構築する流体が崩壊。余剰エネルギーが拡大し、たちどころに巨大な竜巻―――渦と化した。

 崩れていく敵を突き放した少女は、呆然とその光景を見やることしかできぬ。

 白銀の昆虫は、必死に身をよじり、渦の効果範囲外へ逃れようとする。その間にも凄まじい速度で崩壊していく全身。その努力が功を奏した時、体の半分ほどが失われていた。

 少女は思わず、止めを刺そうとして。

「―――左だ!」

 耳に飛び込んできたのは警告。女の声だったと認識する間もなく、少女の残る頭部は消し飛んでいた。六百トンの長槍が突き立ったからである。

「―――っ!?」

 口すらもなくなっても、悲鳴は飛び出た。仰け反った少女はまだ生きていたが故に。

 天空に浮かぶのは、幾つもの影。たった今倒したのとは異なる敵のうちの一体が、槍を投じたのだ。

 そいつは人間に似ていた。少なくとも、先の白銀の昆虫よりは。

 軽装の甲冑を纏い、手には盾。古代の重装歩兵を思わせる兵装である。

 だがその背から伸ばすのは被膜を張った巨大な翼であり、大きな耳を持つ頭部は蝙蝠にも似ている。

 暗灰色の、これもまた彫像。神像、いや悪魔像であった。

 獣相を持つ異形の像は、虚空から長槍を取り出した。まるで魔法のように出現したそれは、悪魔像自身の四倍もの長さがある。

 二百メートルのそれに膨大な熱量が注ぎ込まれ、運動エネルギーへと直接変換されていく。

 物理法則に叛逆した挙動で飛び出した槍の速度は、音の二十四倍にも達した。


 


 生じたのは、そうとすら思える破壊力。

 とはいえ少女自身は無事だった。正確な照準の第二射が少女を串刺しにしなかったのは、彼女を庇う者によって軌道が捻じ曲げられたから。巨大な質量がこすれ合って火花を散らすそばから、衝撃波が吹き散らしていく。

「下がれ!」

 げき―――長柄の尖端と垂直に刃を備えた武器―――を両手で構え、少女を振り返るそれも、巨像だった。

 巨大な翼を持ち、戦衣を纏い、顔を仮面で覆い隠した優美なる女神像である。

 その色はライムグリーン。透き通るようなその素材は、宝石のようにも見えた。

「―――あ――わた―し―――」

「動けるか?ここはもう持たない、引くぞ!」

 まともに返答を返せない少女を前後不覚とみたか。

 女神像は、少女の赤い手を掴むと、そのまま下方へ身を投じた。

 荒れ狂う海面へと。




 海中は闇に包まれていた。

 穏やかな世界。嵐にもまれた海上とは打って変わって、静かな世界だった。

 時折魚が通り過ぎる。小さな小さな魚。小魚かと思ってよく見てみれば、それはマグロやカジキ。エイ。あれはサメだろうか?

 魚が小さいのではない。少女たちがとてつもなく巨大なのだった。

―――ああ、そうか。これは夢なんだ。

 とてもありえないような光景。そう。きっと夢だ。だって自分は、普通の女の子だ。学校に行って、両親と一緒に暮らしていて。友達と遊んで。将来はどうするのかって進路指導で聞かれて。夏にはオーストラリアへホームステイに行く予定だってある。

 いつの間に眠り込んだのだろう。今は家?それとも授業中の居眠り?

 意識が次第に遠のいていく。

 それとともに、四肢の端から霧散し、泡と消え―――

「おい?しっかりしろ、意識を強く―――!!」

 誰かが呼ぶ声がする。

 そうだ。彼女は―――

 何かを思い出そうとして、少女はそのまま意識を失った。

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