『変貌』(2007年01月18日)

矢口晃

第1話

 年が明けてから初めて会った彼女は、いつもに似合わないメランコリックな表情に沈んでいた。大好きなクレープ屋の前を通っても買って買ってとせがむこともしなかった。

 しばらく見ないうちに、彼女はすっかり変貌してしまっていたようだった。

 何か様子がおかしい。僕はだんだん心配になってきた。

「どうかした?」

「どうかって?」

 彼女の黒目がちな大きな眼が下から僕の顔を見上げている。

「いや、なんか元気がないからさ」

「そんなことないよ」

 僕が何を話しかけても彼女は「そんなことない」「いつもどおりだよ」とばかり言って、本当のことを話そうとしてくれない。

 何か心配ごとがあるに違いない。それを正直に打ち明けてもらえない。それが男として、僕には情けなく感じられた。

 彼女は生まれが和歌山県で正月は毎年実家に帰っているから、僕が彼女に会えるのは三が日が過ぎた後になる。最後に会った去年の小晦日には彼女は普段と別段変わったところもなく、明るくて甘いもの好きないつもの彼女だった。僕の部屋で一緒に食べた僕のお鍋がおいしいと言ってほめてくれた。それが今年になってこんなに消沈して帰ってくるなんて。故郷で何かあったに違いない。

 新年四日目の街は、まだお正月真っ只中という雰囲気だった。ほとんどの店はシャッターを下して松飾をだしているし、着物を着た女の人もちらほら目に付く。時折熊手を持った人や達磨を提げた人とすれ違うのは、三が日の混雑を避けて今日初詣に行った人たちだろう。

「毎日が正月ならいいのにね」

 通りすがりに見つけた喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら僕がそう言っても、彼女は

「そう?」

 とやはり浮かない表情をしたまま気のない返事をするだけだった。

「ちょっとトイレ」

 彼女はそう言い残し席を立った。僕は一人取り残された。

 彼女がトイレに入っている間、僕は一人でいろいろ考えていた。どうにかして彼女に元気を取り戻させてあげたい。それには、何ができるだろうか。一人でもくもくと考えていた。

 やがて彼女がトイレから戻ってきた。彼女は席に着くとテーブルに頬杖をついて、飲みかけて冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。それからおもむろに口を開いた。

「話があるの」

「何? 急に」

 彼女が何か話そうとしてくれている。それだけで僕には少し嬉しかった。でもその喜びも、彼女の、

「分かれて欲しいの」

 という言葉で一瞬に消え去ってしまった。僕は頭が真っ白になって、思わず腰を宙に浮かせた。その表紙に腿が木のテーブルに当たって、テーブルの上のコーヒーカップが「がちゃり」と音を立てた。彼女は迷惑そうな顔をしながら、ずれたカップを元の位置に戻した。僕は浮かせた腰をやっとの思いで再びソファの上に戻した。

「なんで、急に分かれるなんて」

「実はね」

 彼女は急に涙声になってうつむいてしまった。僕にはいよいよ訳がわからなかった。

 彼女は鼻の辺りをハンカチで押さえながら、必死で涙をこらえていた。でも僕は、彼女が突然別れを切り出してきた理由を聞きたくて仕方なかった。

「どうして? 僕の何がいけなかったの?」

「別に、あなたが嫌いになった訳じゃないの」

「なら、どうして?」

 無意識に語調が強くなる。

「実はね」

 彼女は顔を真っ赤にしながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「私、もうすぐ死んでしまうと思うの」

「死ぬ?」

 彼女が発した死という言葉に、僕はまた大きな声を出さざるをえなかった。

 そんな僕の表情を彼女は前髪の下から覗くような眼差しで伺っていた。

「私このままだと、過労死しちゃうかも知れないの。あなたを悲しませたくないのよ」

「過労死?」

 こくり、と彼女は一度うなずいた。僕は思わず笑いのこみ上げて来るのを懸命にこらえた。

「それなら心配ないよ。だって、君はニートのはずだもの」

「違うの」

 彼女が珍しく大きな声を出した。その目は真剣に何かを訴えようとしているようだった。

「違うって、何がさ?」

「だって・・・・・・だって、おみくじにそう書いてあったんだもの」

「おみくじ?」

「うん。おみくじ」

 そういいながら、彼女は椅子の上に置いてあったハンドバッグの中から一枚の紙切れを取り出して僕に渡した。それは確かにおみくじだった。細かい字で、小さな紙にたくさん書いてあった。

「地元の神社で引いたんだけどね、そこのおみくじ、とてもよく当たるって有名なの」

「へえ、おみくじねえ」

 自分自身はここ何年もおみくじなんて引いてないなあと思い、久しぶりに手にしたその紙を僕は少し懐かしい思いで眺めていた。

「書いてあるでしょう? “健康”の欄に」

 僕は彼女の言っている「健康」の欄を見てみた。するとそこには確かに

「過労死の恐れあり。自重せよ」

 と言う文字が並んでいた。

「迷信だよ。こんなの、信じるなよ」

「迷信じゃないわ。だって、このおみくじを引いて“結婚できる”って書いてあった人たちが、実際に何組も結婚しているのよ」

 もともと彼女が占い好きであったのは知っていたけれど、まさかこうまで信じ込んでしまうとは、自分の恋人ながら僕は少し呆れてきていた。

「そんな心配するなよ。僕が助けてあげるからさ」

「助けるって、どうやって」

 彼女がきりりとした目で僕をにらんだ。すこしたじろいだ僕の胸に、彼女の次の言葉が突き刺さった。

「自分だって、ニートのくせに」

 返す言葉が見つからず、僕はそのままだまってしまった。

 そうだ。僕だって大学を出てからぶらぶらしてばかりいて働いていない、一介のニートにすぎない。いくらえらそうな口を聞いてみたところで、実際に彼女が窮地に追い込まれた場合、僕には一緒に彼女の窮地に飛び込むことくらいしかしてあげられない。到底彼女をどうにかして助けるなんてできっこないのだ。

「でも――」

「でも、何よ?」

 何か言い返さなくては、そう心では思いながら何も言葉が出てこない。と、そんな情けない僕の目に飛び込んできたのは、おみくじの最後の方に書いてあった、次の文字列だった。

「開運――新たなる出会いを求めて希望あり」

 これを読んでやっと彼女が突然別れを切り出してきた理由が分かった僕は、彼女の全ての魂胆を掴んだような気持ちになった。そしてその紙の上から彼女の目に視線を移して、静かに聞いた。

「このおみくじって、そんなに当たるんだ?」

 彼女は目をきらきらと輝かせながら、にっこりと微笑んで僕に言った。

「うん。すごくよく当たるって、有名なの」

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『変貌』(2007年01月18日) 矢口晃 @yaguti

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