宵闇の森

やかん

第1話 宵闇の森


 神崎美代子、高校二年生。現在陸上部所属。特に部活で戦果を上げているということもなく、成績も中の下。どう見ても平凡人間としてはエリート一直線であり、『普通シール』が似合う人間だとも自覚してる。

 ただひとつだけ。変わっていることといえば、私の世界はもう一つの世界の存在も見えるってことくらい。

 それだけ。

 ルーチンワークである早朝のジョギングをしながら、いつものように辺りを見渡す。

 芙蓉の薄いピンクが綺麗だ。風は爽やかで、澄み渡る青空は気持ちがいいものに感じる。でも、それは私とは関係無い世界のモノであってこの中に私は入れない。おはよう。三本足のカラスが今日も元気に飛んでいるね。

 みんなが見える世界と、私が見える世界を重ね合わせて『現実世界』としてるけど、あのカラスがみんなにも見えるものなのか、それとも私にしか見えないのかは知らない。知らないしわかろうともしないけど、そんな曖昧な世界で私はどっちつかずで生きている。

 鳴き声一つ。口を半開きにした黒い塊が私を見た気がしたが、知らない振りをした。

 三毛猫が眠そうに欠伸をする。逆さになって歩いてるおじいちゃんは入れ歯を落として頭をぶつけてる。

 知らない知らない。入れ歯はちゃんと接着剤で付けておいてください。世界と関わりたくない私は、街の景色を置いていくように早歩きで通り過ぎてゆく。

 

 世界の境界線なんてくそくらえ。コンクリートの上のこんにゃくは踏まれるんだぞ。

 重たい足で灰色を踏み歩いていくうちに、次第に地面は茶色になって、そしてついに緑色へ入りこんだ。青臭い匂いに包まれて、そこで初めて呼吸という動作が正常に働いたように感じる。空気が自分の体に馴染むのだ。

 奥へ奥へ、と草をかき分けて進んでゆく。どこへ行くかなんて考えてないけど、毎度毎度なんとかなってるから今日もなんとかなるさ。

 そうだね、そう。森は好き。別にもっともらしい理由なんて無いけど、ちゃんと言葉にするなら『隠してくれるから』なんだと思う。私自身も、色んな世界の色んなモノも、どれもこれも緑の支配下に置かれるんだ。

 藪を抜けると少し開けた道に出た。ここは多分知らない。横にあった大きな椎の木の枝が向こうを指してたから、とりあえず行ってみることにした。

 いざ行かん。現在の時刻は六時ちょい。出たのがこの三十分前だから、あともう三十分したら冒険の旅はここまでにしようか。


 そんな時でした。

 ドスン、という音を耳が聞き取った。それは今まで自分が出していたような草の擦れる音ではなく、確かに何かが落ちた時の衝撃音のような鈍い音。

 待って待って、私の冒険には敵とエンカウントする筋書なんてないんだけど。足を止め、音の方向を凝視する。ここから逃げるべきか、それとも。

 自分の人生を客観的に見れば確実にここで立ち去るべきだったのだと思うのだけど。

 残念、私はどうやらまだ寝ぼけているようでした。

「まだ三十分残ってるし……」

 今までだって、世界は私に干渉してくることなんてなかったし今回だって、きっと。

「なんとか、なるよ」

 そんな軽い考えも相まった結果。静止していた足を再び動かし、音の方へゆっくりと進みだした。

 物音は割と近くで聞こえた気がしたのだが、ある程度先に進んで周りを見渡してもその存在を確認できない。耳はいい方だから、聞き間違いではなかったと思うのだけど。でも、何も無い、よね。

 と、周りを見るばかりで、足元が疎かになっていたのがいけなかった。

「ぅあっふぇ」

 っぶねぇー。なんとか草と熱い抱擁を交わすエンドは免れた。足元を見ると拳くらいの小石。貴様が原因か。

 素知らぬ顔で鎮座する石をひと睨みし、奥へと進もうとした時。視界の端に、爽やかな緑とはかけ離れた茶色の塊が映った。

「……ん?」

 その茶色を凝視すると、どうやらそれは丸みを帯びており、その下には首があって手足も付いていて――

 ってこれ人じゃないですか。

 やばいやばいやばい、これがさっきの音の原因? というか生きてる? 生存してる? 声とかかけるべきなんすかね。ふあー、なにこれ死体発見とか神崎美代子ちゃんの人生計画には含まれてないんじゃなかったの。

 脳内は大混乱しながらも、ここは常識的に考えて安否確認が先決であろうという判断を下した美代子ブレイン。

「あ、あのー。大丈夫ですかー!」

 できるだけ大きな声で呼びかけるも反応は無い。ひぃぃ、まさかのまさかでもう仏様になられてらっしゃる……? 確認の為に手首から脈を取ろうとゆっくり近づく。

 手を取ろうと指を伸ばした時、目の前で伏せていた茶色が動いた。そしてそのまま起き上がろうともぞもぞ動き出す。良かった生存ルートだったわ。

「大丈夫ですか? 手伝いま……――」

 こちらの声に気づいたのか、私の方に顔が向く。

 その瞬間。緋色が私を貫いた。

 緋色だけじゃない。まさに、彼の瞳を形容するならば『夕焼け』であった。

 秋の夕焼けの空を全て溶かし流しこんだように、彼の瞳は夜へ向かう藍色の影を孕みながらもどこか強く光り輝いていた。

 ――なんて、綺麗なんだろう。

 希望に輝く夜明けとは真逆で、その奥底は今にも沈もうとしているのにどうしてこんなにも真っ直ぐな光をその瞳に宿しているのだろうか。

 何か言わなければ。どうにかしてこの光をここに留めておかなければ、あれはきっとどこかへ消えてしまう。そんな衝動に駆られるも、口の中はカラカラに乾いていて、代わりに変な呼吸音がヒュッと鳴った。

 彼の瞬きすらも惜しいと思えた。長い睫がその瞳にかかろうとしたその時、私は口を大きく開けて喉を震わせた。

「――っ、宝石、みたいですね!!」

 まるで堰き止めていたものが溢れ出すかのように乱暴な口調で言葉を吐きだす。言えた、口に出せた。その達成感と脱力感によって、視界は白く霧がかり、私の脳みそは酸素を欲する。すぐさま体を揺らして深呼吸をした。こんなに緊張したの、いつぶりだろ。

 数回に分けて吸収した分の酸素を消費し、顔を上げる。すると、目の前の人物が自分の発言によって完全に停止している様子が映し出された。

 同時に自分の発言が頭の中でリピートされ、顔に熱が昇っていくのを感じる。これ絶対やばい人だと思われる、どうしよう。

「えっと、その。あなたの目があんまり綺麗だから、つい……。いきなりごめんなさい!」

 腰を直角に折るレベルで深くお辞儀をした。地面を見つめたまましばらく沈黙が流れる。ひぃ、せめて何か言ってくれ。

 そんな願いが通じたのか、ぼそぼそと呟く声が聞こえると、小さく息を吐く音と共に草が擦れる音がした。

「別に、構わない。ただ驚いただけ。……顔を上げて」

 促されて顔を上げると、立ち上がった彼がすぐ目の前にいた。

「……あっ、ははっ」

 彼のその立ち姿を見て思わず声を漏らす。

 それほどまでに彼の双眼は美しく。そして彼自身の存在そのものが、まるでここにいないかのように儚げで神秘的で、朝の霧に紛れて散ってしまいそうであったのだ。

「……君は変な奴だね。いきなり宝石呼ばわりして謝ってきたかと思えば、今度は笑いだすし」

「あっ、あの、ごめ」

「あー謝んなくていいから。毎回謝られるの面倒くさい」

 頭を掻きながら本当に面倒くさそうに言う。私はというと、この後どうすればいいのかで脳内はぐるぐるとミキサーにかけられていた。

「はは、そうですよね、謝りきのこは鬱陶しくてしゃーねーっすよね。はは、ところでお兄さん体は大丈夫です? どうしてこんなところに? 私はただの日課でして。あ、学生で陸上やっててそれで」

 自分の言っている文の支離滅裂さは理解しつつも思いついたセリフをそのままポンポン吐き出すことはやめられなかった。やべぇ、本格的に私は怪しさマックスな人間なのではないだろうか。サツにだけは突き出さないでほしい。

 なおも話を続けようとしたが、さすがに相手から「うるさい」と言われたので黙った。

 じゃあどうしたらいいんだ、この空気。すると、ただ茫然と立ち尽くす私を一瞥してから彼は零すように言葉を吐いた。

「……この瞳が、そう見える人に初めて会った」

「え……?」

 そう言うと、彼は視線を下に移してからすくい上げるようにまた私を見据える。そうして口を開くが、まるで躊躇うかのようにその口は一度閉じられる。しかし、意を決したのか、その先を呟いた。

「――人間と話すのだって、久しぶりだ」

 人間と。

 胸が騒いだ。この言葉の意味を、私はよく知ってる。

「俺は結局ここを離れられない。今回だって、またここで目覚めてしまった。だから――」

「――だから」

 言葉を聞き終わる前に小さく声を被せる。やっぱり、やっぱりそうなんだ、彼は――

 私の声に気づいた彼は不思議そうに聞き返す。

「だから?」

「……いや。……やっぱり、あなたは『現実世界あっちのモノ』じゃないんだね」

 正面を見つめて笑いかけた。これで、彼の瞳の美しさに改めて納得がいった。あれが私と同じ人間もののはずがない。

 ああ、彼とこうやって出会えた私はなんて幸運なんだろう! 今日ほど二つの世界の境界線を歩いていることに感謝したことはない。

 私の言った言葉の意味を思案しているのか、それとも答えあぐねているのかはわからないが、彼は口に手を当てて沈黙する。

 ようやく答えが出たのか、手を顔から離すと少しだけ困ったように笑った。

「……君の言っている事を完全に理解した訳じゃないけど、なんとなく、そういう意味なのだということはわかった。……正解だ。俺は、君とは違う。きっとどこにもいない存在だから」

 そう言って、今度は嬉しそうに声を出して笑い出した。どこか神秘的ですらあった彼が、ここまで感情豊かなことに驚く。色白な肌に似合わないほど強い色を持った瞳が、今は細く弧を描いていた。

 ええっとこれはどういった状況なんだろう。なんでこんなに楽しそうなのかがわからない。反応に困ってる私に気づいたのか、彼は軽く詫びる仕草をする。

「どうも勝手に舞い上がってしまったらしい。ごめん」

「いやややや私こそ、なんだか突然失礼なことをしたのではと今更になって気づきまして……」

「失礼? こんなにも気分がいいのは久しぶりだというのに、その原因の君に言われるのは中々おかしい状況だ」

 影が差していたはずの瞳が、今ではそのきらめきが眩しくて視界に残像がこびりつく。

「ああ、でも勢いだけでやり過ごそうとするのはやめたほうがいい」

 それはごもっともです、ええ。……んん、先ほどまでの神妙な雰囲気から一転して、こんな軽快な口調で語りかけてくるなんて調子が狂うんですが。

「……ああ、そうだ。君の名前は?」

「あ、っと。美代子、です。美しいの美に、依代の代に、子どもの子、で美代子」

「なるほど、美代子。覚えとく」

 やったね、記憶される程度には好感度はあるようだよ。

「あなたの名前は?」

「俺、は」

 そこで少し言い淀む。

「……圭って呼んで。土二つで、圭」

「圭……うん、わかった」

 私が深く追及しないことに安心したのか、一瞬強ばった表情は和らいだように見える。

「……あのさ。良かったら、またここに来てよ」

 声のトーンを落とし、彼はぽつりと呟く。

「えっと、来ていいなら」

「来て欲しいんだ」

 命令に近い程に強い口調だった。そんな風に言われたら、私の選択肢はもう一つしかない。元よりこれしか無かった気もするけど。

「また、来ます」

「……ありがとう」

 駄目だ、目が溶ける。辛うじて彼が微笑んでいることだけは目視することが出来ただけ良しとしよう。



 こうして、毎朝のジョギング時間は森へ拘束されることとなり、そして私はこの日初めて遅刻をした。



 ***



 その翌日の朝。

 なんだかいつもよりも早くに起きてしまって、気持ちがほわほわしている。

「あっ」

 木陰で座っている彼を見つける。少し髪が長いから、俯いていると髪で顔はほとんど隠れてしまうのがちょっと勿体無い。

 と。そこで私は彼から離れた位置で立ち止まる。なんとなく、昨日会ったばかりなのに気軽に挨拶するのも躊躇うよね。ええっと、なんて言えばいいんだろ? 『おはようございます』、は……なんか硬いか。

「あ、おはよう」

 一人で唸っていると、私が立っていることに気づいた彼に先を越されてしまった。

「お、おひゃ……んんっ。おはよう!」

 噛んだ。なんたる失態。

「はは、何。俺相手に緊張でもしてるの? ……こっちおいで。ここの木陰は中々気持ちいいよ」

 隣をポンポン叩く彼に引き寄せられるように、草をかき分けていく。ノート一冊分くらい離れたところに腰を下ろすが、座る距離感はこれで合ってたのだろうか。

 元来人と話すのがそこまで得意な人間では無い為、こんな時どう話しかけたらいいのかなんてわからない。

 体育座りの姿勢を更にコンパクトにさせて、隣を窺いみると、夕焼け色とばっちり目が合った。えああああああ見てたのですかああああ。驚きと謎の羞恥心によってコンマ数秒で目を逸してしまった。くそう、なんで目を逸らしたんだろう、私の馬鹿野郎。

 まるで心臓の音が文字として浮かんでくるんじゃないかってくらいうるさく鳴り続けてる。

 動悸、息切れには救心だよコノヤロー。格闘を繰り広げていると、隣からわざとらしい咳払いが聞こえる。

「……んんっ、ああー。……昨日も言ったけど、人間と話すのは久しぶりだからさ。……何話したらいいかわからない」

 隣にいる私にしか聞こえないくらい小さな声で、そう呟いた。

「そうなの? 意外」

 堂々とした雰囲気でいるから、てっきり私からの発言待ちなのかと思っていただけに、この言葉は意外であり、ありがたくもあった。

「私も、何話したらいいかわからなくて。はは」

「じゃあ君の話をしてよ」

「私の……? いや、特別武勇伝も特許も持ってないし、魔王討伐の際の冒険談とかもないんだけど……」

 呆れたように溜め息を付く。

「日常の話でいいから」

 そう言われましても困りますよお客様。

「ええっと、まず学生なので学校に行きます。学校はわかる?」

「……なんとなく」

 横を見ると、どこか難しそうな顔をしていた。本当にわかってるのかな。

「まあいいや。そこに行って、勉強して、部活して、帰って寝ます。以上!」

「いや、以上! じゃねえよ。こう、日常での何気ない出来事とか、そういうのでいいから」

「そう言われましてもなあ……。ああ、そういえば、この前教室に入ったら黒板を覆うくらいでっかい芋虫が居て板書が出来なかった」

 あれは困った。先生に指されても、その内容がわかんないんだもん。

「はあ!? なんだそれ。他の人は――」

「いやいや。他の皆は見えないモノだしねぇ」

 だから皆が芋虫に向かって真剣な眼差しを向けてる構図は面白かった。そう付け足すと、圭は複雑そうな顔でこちらを見る。

「……君の思考回路はどうなってるんだ」

「それは暗に頭がおかしいと言ってるのかな?」

 指で銃を作り、そのまま自分の頭に向けて放つ仕草をしてみせる。

「違う、そうじゃない。君には、何が見えてるんだ」

「やっだなぁ、この世界だよ。『皆』と共通の世界だったり、そんな世界の隙間のモノ、だったり。……圭みたいな」

 今も君の前を片羽の蝶が通り過ぎた。

「ああ、圭は共通あっちの世界のモノじゃないから世界の話は少しわかりにくいか。ごめん」

 圭にはこの空が何色に見えるんだろう。人ごみの蠢きをどんな風に捉えるんだろうか。

「あなたの世界を知りたい、よ」

 緋色は黙って私を見つめていた。この瞳を通した世界は、どんなに綺麗な色をしているんだろうか。それこそ、華やかなダリアの色彩にも劣らない程のものなのかな。

「俺の世界は」

 その言葉の先を待つ。

「……つまらない」

 つまらない? 彼は言葉を続ける。

「俺は、君とは違う」

「うん、知ってるよ」

 なにも躊躇わずに同意を示すと、眉尻を下げて彼は笑った。

「……そう、だよな。ありがとう」

「はは、何を」

 彼がおもむろに右腕を目くらいの高さまで上げて指先を前に出す。偶然だろうか、そこには先ほどの片羽の蝶が留まった。

 やっぱり、綺麗だなあ。

触れるなら、私はあっちの世界ではなく、こっち側に触れていきたい。

 蝶へ手を伸ばそうとしたら、私の意図を読み取ったかのようにひらりと飛び去っていった。

「美代子、時間は?」

「……あ」

 腕時計を確認すると、六時半ちょっと前。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 立ち上がると、太陽の眩しさに目がくらむ。

「また、明日も来て」

「勿論」

 そう返して、私は森から出る。

そうしてまた、現実の世界に戻るのだ。



***



「遊ぼう」

 挨拶もそこそこで、彼はいきなりそう切り出した。

「お、う……?」

 仁王立ちして私を待ち構えてるから何事かと思ったけど、これのことだったのかな。目の前からの気迫に若干圧倒されながらおずおずと返す。

「うん、私は全然構わないけど何で遊ぶ?」

「そういえばそうだな……」

 お? どうやら特に計画は無かったらしい。言ってくれればトランプとか簡単なもの持ってきたのに。

「何もなくても森で出来るもの……かくれんぼとか?」

「いや、こんなところじゃ隠れ場所はいくらでもあるし時間的に厳しいだろう……」

「おにごっこ……は、難しいね」

 彼と出会うきっかけとなったような石がそこかしこに転がってらっしゃる為、私自身が無傷で帰れる気がしないので却下。

 彼は眉間に皺を寄せて考えこんでいる。

「ねえ、なんでいきなり遊ぼうっていったの?」

 純粋な疑問をぶつけてみる。すると、あっけらかんとした様子で返答はかえって来た。

「だって友達というのは遊ぶものなんだろう?」


 友達、ともだち? フレンド?


「ほっ!?」

 んんん!? 

 突然の友達発言に動揺を隠せない。えっ。え?

「ままま、私達って友達なの……? あっ! 違うよ、それが嫌とかでは全くなくてだね!?」

「はぁ? だって『また明日』って約束をして、それに君が応えてくれた。それだけでもう友達じゃないのか?」

 コミュ力すげぇなー! って、そういうことじゃないのかな。今まで見えてはいたけど関わろうとはして来なかったから、向こうの常識とか知る機会がなかったが……こういうものなの?

「ともかくだ。友達なら何かをして遊ばなくてはと思い立って提案したのだが、俺としたことがその先まではあまり考えてなかった……」

 頭を押さえて悔しそうな顔をする。確かに、物事を思いつきでポンポンやっていきそうなタイプにはみえないからなー。意外意外。

「……それに、友達なんて随分久しぶりだから」

 不機嫌そうにも聞こえる声色でそう呟くが、彼を見てみると耳がほのかに赤くなっていたのが分かった。正直くそかわですわ。

「……そっか。そっかそっかそっか」

 あー駄目だ、にやける。友達、という響きがどこかこそばゆく思えるけど嬉しさの方がずっと勝る。

「何、気持ち悪いんだけど」

「いやぁ、嬉しくて」

 友達、だなんて何年ぶりだろう。

 あっ! そうだ、いい遊び思いついた!

「そうだ、『だるまさんがころんだ』をやろう!」

 これなら場所も限られてるし、一回ごとが短いからやりやすいだろう。

「だるまさんがころんだ……」

「ほら、片方が背を向けてカウントしてる間だけ、もう一方は動けて、背中にタッチしたら勝ちってやつだよ。知らないかな?」

「知ってはいる……」

 神妙そうな顔でまた考えこんでしまった。自分ではいい案だと思っただけに、彼の深刻そうな雰囲気が予想外であった。もしかして彼の中の地雷でも踏んじゃったのではないかと心配になってすぐに訂正を口にする。

「あ……っと。他のにしようか?」

「いや、平気だ。……あのさ、やるんだったらひとつ相談があるんだけど」

「うん? いいよー」

「自分の知ってるルールでやりたいんだ。『背中にタッチ』ではなくて、俺のは『線を踏む』やり方で」

「線を踏む……ええっと、つまり背を向けている人の横とか後ろとかに線を引いて、そこを踏めたら勝ちって認識で合ってる?」

「ああ。そして踏む時に『線踏んだ』と宣言する。って感じ」

 初めて聞いたルールだった。まあポピュラーな遊びだし、色んなやり方があるのかな。

「ん、おっけーそれでやろう! そうと決まれば、ほらほら早く準備しなきゃ時間ないよ!」

 丁度この辺はひらけてるし、距離もいい感じだろう。適当な長さと強度を持ちそうな枝を探す。うん、このくらいでいいだろう。

「じゃあ、私が最初鬼ね! 違うところがあったら言って」

「おう」



「だーるーまーさーんーがー、ころんだ!」

 ばっ、と勢いよく後ろを向くと、彼は片足を宙に浮かせながら真顔で固まっていた。じーっとそのまま凝視していると、やがてその姿勢に耐え切れなくなったのか、足を地面に付けて悔しそうな声を上げる。

「あーもう、そうやって時間稼ぎして動くのを待つとか卑怯」

 グチグチと文句をいいながらこちらへ大股で向かってくる。私は木の傍から離れ、彼が立っていたくらいの場所へと小走りする。

「じゃあいくぞー、だーるーまーさーんがー」

 若干不貞腐れたような声色ながらも、楽しそうな口調。頼りなさげな細い背中を眺めながら声を上げずに笑う。

「ころんだ!」

 しまった、にやけた状態のままだ。口元をヒクつかせながら静止してると、彼は怪訝そうな顔で見てきたが、すぐに木の方へ向いたのでほっと一息つく。

「だーるーまーさーんーがー」

 ゆっくり、ゆっくり。慎重に彼の背後へと立つ。そして、声が止まる前にこう宣言をした。

「線ふーんだ!」

 はい、私の勝ち! と得意げな表情をしながら隣の彼を見る。案の定「あー」とか「くそ」とか不満そうに独り言をブツブツ言っていた。彼は案外負けず嫌いらしい。

「いやあ、余裕だねぇ。私の敵ではないかな!」

「はあ? 何言ってんの。次に泣くのは君だから」

「はは、なにをおっしゃいますか旦那ぁ」

 そう私は言って、彼に突っ込みを入れようとしたが、軽やかな動きで圭は反対方向へと移動したため、私の右手は見事な空振りを決める。

「ほら、早くそっちに立ちなよ。それとも不戦勝?」

 なにを! と、言い返そうとするも、彼の笑顔の破壊力の高さによってその言葉は飲み込まれた。既に完全敗北じゃないですか。



「だーるーまー……」

「はい、線踏んだ。君の負けね」



 こうして時間ギリギリまで遊び続けた。大丈夫、五分前にはなんとか学校に着いたからセーフセーフ。

 まさか高校生にもなって『だるまさんがころんだ』をやることになるとは思いもしなかったが、案外悪くない……いや、充実した時間を過ごせた、と思う。


 授業中、彼の笑顔がフラッシュバックしてうまく前を見ることが出来なかったのは私だけの秘密です。



 ***



「駄目。夕方の森は危ないから」

 いよいよ朝の一時間だけじゃ物足りなくなって、部活帰りにも寄りたいと漏らしたところ、間髪入れずにばっさりと切られた。

「ええーいや、だって朝の一時間だけしか話せないじゃないですかーええー」

 それに遅刻の危機と毎日戦い続けるなんてハードすぎるぜ。

 不服を申し立てるが、圭は全く取り合おうとしない。

「んで。本日の一時間は『短い短い』で終わらせるつもり?」

 隣で嫌味ったらしくニヤっと笑いかけてくるのが憎たらしい。

「……おっけーわかった。じゃあ、今日は学校休――」

「は?」

「すみません嘘です申し訳ないです」

 端正な顔で威圧されると恐怖度が二倍になるんですよ、わかりますか。

「……ったく。別に、一時間あれば十分だろ」

 そう言って圭はそっけなく言い放って顔を反対側に背けるも、どこか嬉しそうな声色に私は頬が緩む。

「……あのさ。部活が無い休みの日は、一日居たら駄目?」

「こんなところで貴重な休み消費するなよ」

「森は元々好きだし」

「ふぅん」

 なおも顔をこっちに向けない彼がもどかしい。すぐ隣の白い首筋が、やけに視界を独占する。

 ――触れたい。もっと、近づきたい。

 無性に彼を感じたくなった私は、圭の肩に手を置いて距離を詰めようと腕を伸ばす。


 後、数センチでそれが叶うはず、だった。


「――っ、触るな!」

 彼は後ろへ飛び退き、私から大きく遠ざかった。

「え……あ。ご、めん」

 予想外の反応と、その剣幕に圧倒されてうまく言葉が出てこなかった。圭はすぐさま我に返り、気まずそうな顔をしてこちらから視線を逸らす。

「……悪い」

「いや、あの。私こそ……えっと、ごめんね……?」

 彼とは結構打ち解けられたつもりでいた私は、急な拒絶にまだ感情が付いていけていなかった。

「……また、明日来るね」

 両者の謝罪後、そのまま重苦しい空気は晴れることは無く、その日はいつもよりもずっと早く森を出た。



 ***



 早朝、朝六時。緑に足を踏み入れる。

 昨日のことがあってか、毎日の楽しみであるはずのこの時間を今朝は憂鬱に感じてしまった。今日は土曜日。で、部活は珍しく休み。だから、今日のことを圭に相談したかったのになあ。

「……なんであんなに」

 拒絶された時の顔と、その後の申し訳なさそうな顔が交互に浮かんでは消えてを繰り返して、私の脳内はぐちゃぐちゃになる。

 悩んでても、仕方ない。今日会ったら聞いてみよう。例え答えが返ってこなかったとしても、聞くことくらいなら許される関係にはなれたはずだ。

 そう決意をした私だったが、いつもの場所に彼の姿が見当たらない。

 いない、あっちもいない。

 まさか、昨日のことのせいで、圭は来てくれなくなった……? 『もう彼と会えなくなる』という嫌な想像が急スピードで膨らみ始める。

 いつも彼が座っている木陰にもいないことを確認して、次第に絶望感でじわじわと体が重くなってゆく。思わずそのままその場にしゃがみこんだ時だった。

 足元に紫色が落ちてきた。五つに分かれた藤色の花弁。それをおもむろにつまみ上げる。

「ツルニチニチソウ……」

 そう呟くと同時に次々と花びらが降り注いできた。真上を仰ぎ見ると、花びらの隙間からは見慣れた顔。

「圭……?」

 名前を呼ぶと圭は木の上から降り、私の前に立った。

「訳を話したい」

 平坦な声でそう言った彼の顔は、逆光でよく見えない。

「……うん。聞きたい、かな」

 微かに口元を緩ませてから静かに立ち上がる。

 私よりも頭一つ高いはずの彼が、今日はなぜか小さく思えた。


 元は大木だったであろう切り株に二人で腰かける。

 私は彼が話し始めるのを気長に待つつもりでいたが、意外にも静寂は早々に破られた。

「……もしかしたら、今日はきてくれないかと思ってた」

「えっ?」

 第一声のそれに、ちょっとしたショックを受ける。

「私、また明日って言ったよね」

「別に君が約束を破るとは思ってなかった。けど、自分の行動を思い返していたらその不安はずっとあって」

 隣の様子を窺うが、彼は俯いていて表情は見えない。

「だから、木の上から美代子の姿が見えたときは安心した」

「そっ、か。……私だって、もしかしたらもうここに来てくれないのかと心配だったから……着いた時あなたの姿が無くて本っ当にショックだったんだからね!」

「俺が来ない訳ないだろう」

「そんなこと言ったら、私だってそうだよ」

 お互いに顔を見合わせる。今日初めてちゃんと見た彼の顔はどこか疲れた表情に見えたが、多分私も似たようなもんだろう。

「……そうか」

「そうだよ」

 圭はその返事を確認するかのようにこちらをじっと見つめる。好きなだけ見ればいいさ、本当なんだもの。

 視線を外し、彼は溜め息をついてから顔をそむけた。

「触れられたくないのは、それが嫌だからじゃない。ただ、俺が怖いからだよ」

「怖い……? なんで」

 質問を重ねるが、その返答は中々返って来なかった。

そして、彼はようやくその重たい口を開いた。

「今は、まだ言えない。けど、絶対に言うから――」

「わかった、待ってるね!」

「おっま、待っててって言わせろよ」

 即答に困惑しながらも彼の口元はなんだか緩んでいるように見えた。本当に素直じゃないなぁ。

 初めはお通夜のような空気だったが、今のでなんとなく解れた気がする。

「じゃあさ、私たちのルールを作ろう」

「ルール?」

「そう、『お互いに触れたら駄目』って」

 人差し指でビシッと前を指してポーズを決める。

「……ルールっていう言葉に申し訳なくなるくらい短いな」

「ええーじゃあ約束?」

「ああ、それが良い。君は、約束は破らないだろ?」

 瞳の緋色を細めて優しく微笑んだ。

 私は前に彼の瞳を夕焼けに例えたけど訂正しようか。これではあまりにも眩しくて夜なんか迎えられないや。

「……勿論!」

 例え嬉しい時にハイタッチが出来なくたって、悲しい時にその肩を支えることが出来なくたって。私たちは、私たちの形で一緒にいられればそれでいいんだと思う。


「……あ。ごめん、忘れてたけど美代子時間は――」

「そう!! そのことについて言いたかったんだよ!」

 勢いよく立ちあがって彼の前に立つ。

「本日は学校も部活も休みなんです! つまりここから導き出される答えを述べよ!」

「帰って二度寝?」

「んなわけあるかー!!」

 うっせ、と言って耳を塞ぐ目の前の男性一名。気にせず続ける。

「海に行こう!」

「……はぁ?」

 すると見事に呆気にとられた顔をして、彼は間抜けな声を出した。

「この森を抜けると海なんだよ! そんなに遠くはないから平気平気」

「いやいやいや、毎日走ってる美代子さん基準で距離とか言わないでよ」

 ハンドサインでノーと言ってるが、そんなこと知るか。

「ずっと思ってたんだ。圭と海が見れたらって」

 だから。と、促す。

 しかし圭は渋い顔をするだけで頷いてはくれなかった。

「美代子、俺は……」

「――森から、離れられない……だっけ」

 出会った時、確かにそう言ってた。

「……ああ。だから、俺は一緒には行けない」

「ほんとに?」

 語尾を強めて言うと、圭は驚いたように固まる。私は気にせず続けた。

「行けない、んじゃなくて、行かないだけじゃないのかな。そうして行こうともしないで、よく言うよ」

 そう冷たく言い放して、私は森の奥へと目を向ける。そこには海の『う』の字もないが、確かにその奥には煌めく広大な海が広がっている。そんな想像を頭の中で広げていると、乱暴に立ち上がる音が聞こえた。

「はあ!? 俺だって、何度も行こうとした。……だけど、行けないからこうしてここにいるんだろうが!」

 彼は片眉を吊り上げて声を荒げる。

 しかし、残念ながらそれは予測済みな反応だよ。

 つかチョロいな。

「おっけー行きたいんだね! じゃあ行こっか!」

「え」

 間抜けな顔本日二回目。案外圭はこんな顔の方が似合ってるんじゃないかな。

「よーしよし、整理しようか。私は海に行きたい。そして圭も海に行きたい。ということはだよ、海に行くことに何も問題は無いよね」

「だから、人の話を聞いてたのか? 行こうにも、行けないんだって」

 呆れた口調の返答が返ってくる。

「それは一人で行こうとした時の話でしょ? 今度は、私もいるよ」

 掴まれないと分かってる。けど、それでも右手を彼に差し伸べた。

「例え今回行けなかったとしても、また今度行けばいいじゃん。……生憎、私は持久走は得意なもんでね」

 意味ありげに笑いかけると、彼は鼻で笑いながら右手を追い越してそのまま先へと進んでいく。足は止めず、肩越しに笑みだけをこちらに寄越す。

「それは随分殊勝な心がけで」

 まるで悪戯を企てる少年のような勝気な表情を見て、私は負けじと彼の後を追った。




「ほら! 海が見えてきた。見える? ほらあそこ!」

 うぅえぁぁやっほぉぉぉい。

 幹の隙間から青い海が見える。海独特の潮の香りが鼻腔をくすぐると、私のテンションはいよいよ最高潮へ達しようとしていた。

「待っ……疲れ……」

 今にも死にそうなか細い声を上げる彼は、もはや息絶え絶えであった。両手を高く真上に上げて脳内で雄叫びをあげていたが、なんとかその声に気づいてすぐさま彼の方へ駆け寄る。

「あ、ごっめ! 後半圭のこと全然気にしてなかった」

「だろうな!? 何が『今度は、私もいるよ』だ!! 休憩挟もうと提案しようとしても前にいねえし」

 昨日とは全く違った方向でガチ切れしてらっしゃる。

「ふえぇ……ちょっと気分高ぶって小走りになっちゃっただけだよぉ……」

「あ?」

 と。まあ、圭がキレられるだけの体力があるからこそのやり取りなのだけど、本当に限界そうなので、日陰がある内に休んどいたほうがいいかな。

「いやや、ホント悪かったって。ほら、あそこの海一歩手前のところで休憩しよう? そしたら海もよく見えるし日陰だしさ」

「やっと休める……無理……」

 圭は空気の抜けたお散歩風船のようにフラフラした足取りで前へ進む。……いっそ担げたら楽なんだけど。


 段々と匂いも強くなり、そしてようやく視界いっぱいに海が広がるところまできた。

「わぁ……きっれー……私地元に住んでるのにここに来たこと無かったから感動しちゃうなー!」

 ね、来れたでしょ。と、そう続けるつもりであった。しかし、その言葉は、隣の人物の涙によって即座に消え失せた。

「まっまっまっ、どうしたの!? 具合やっぱすげぇ悪い!? あっ、あっと、水飲む!?」

「うっせぇ……なんでもないから黙れ」

 彼は特に拭いもせず、そのまま涙をポロポロ零しながら眼前に広がる海を見つめていた。

「あー……海、来れたな」

 ぼそっと呟いてその場にしゃがむ。それにつられるように私も隣へ腰を下ろした。

「海、さ。来たことあるんだよ。……俺が、まだちゃんと生きていられた時に」

 視線は前を向いたまま語り始める。

「友達と砂浜ではしゃいでさ、水のかけあいとかして、宝物探しもして。……すごく、楽しかった。眩しい記憶のまま、今でもずっと残ってる」

「……うん」

「また来よう、って。そう約束してそいつと別れたんだ」

 そこで一旦話を切る。まあ、『ちゃんと生きていられた』とか言ってるし、雰囲気から察っして約束は守れなかったんだろう。

「……こんな体になったにもかかわらず、またこうしてもう一度海が見れるとは思いもしなかった」

 そう言って、海から視線を離してこちらを向く。充血した白目によって、いつにも増して彼の瞳は赤く思える。

「形は若干違うけども、約束を果たすことが出来たのは美代子のお陰だ。……ありがとう」

 ザザ、と波の音を背景に、圭は何も言わずに私に向かって微笑みかける。

 うん? なんだかいい感じの空気になってるけど、半ば今回は自分の為に無理言って海へ連れ出したところがあるので、さすがに罪悪感マッハですわ。ついには頭を下げ始めたので慌てて制止する。

「いやいやいや、いいんだよ! 私が圭と海に来たかっただけだし!」

「んだよ、人がせっかく感謝してんだから素直に受け取れよ」

「いっつも素直じゃない圭は言われたくないかなぁー? ……でも、まあ。あなたが喜んでくれたなら良かった」

 段々罪悪感云々というより小っ恥ずかしくなってきたので、そんな雰囲気を吹っ飛ばすように立ち上がる。

「よーし! じゃあ遊びますか! 何からしよっか」

 森から一歩踏み出し、砂の感覚を足の裏に感じながら振り返る。彼は、そんな私を眩しそうに目を細めてながら見ていた。

「圭もこっちにおいでよ!」

「……ああ」

 ゆっくりと腰を上げる。躊躇うように足を静かに動かして、つま先で何か確かめるかのようにそっと、砂浜に踏み出す。

「……やったね」

 笑顔でブイサインをすると、珍しく彼もつられるように笑ってくれた。

「俺、宝物探ししたい」

「いいよー。さてさて、果たして海賊王はどっちかねぇ」

 腕まくりをして波際へ急ぐ。

「やるからには勝つ」

 さっきまでの慎重な足取りが嘘のように、大股であっという間に私の先をゆく。

「あっ、待ってよ。そっちは大物があると睨んでたんだから!」

「知るか!」

 光が乱反射して視界がチカチカする。しかし、それも不快ではなくて、まるで圭と二人でどこか違う世界にでも来てしまったかのように思えるだけであった。

「……あ、シーグラス」

 足元に落ちていたシーグラスをひょいと拾い上げる。海水に濡れてツルツルしてるそれを、自分の服で軽く拭き取って太陽にかざしてみた。

 薄い水色。青空の色とシーグラスの色が混ざって、とても綺麗だった。

擦れて白くなった表面を親指で撫でる。ザラザラとしながらも優しさを感じる手触りがなんだか懐かしく思えて、私まで泣きそうになってきた。

「美代子ー」

 自分を呼ぶ声がして手を下ろす。見ると、あっちは貝殻か何かを拾ったらしい。ホタテのような大きい貝を持ちながらブンブン手を振っていた。

 あんなに楽しそうな表情を初めてみたかもしれない。そう考えると海に若干嫉妬心を抱くが、それはあまりにも馬鹿らしいか。見当違いな発想に至った自身を自嘲気味に笑う。

「なにみつけたのー!」

 両手を添えて向こうにそう呼びかける。それに応えようと、圭が大きく口を開いた瞬間。


 彼の体が横へと傾いていく様子が、スローモーションで映し出される。


 ――……え?

 彼はクリーム色の砂浜に倒れこんだ。

 その状態を確認し、脳みその処理能力は停止した。

 停止からの再起動に何分経ったのか、はたまた何秒経ったのかはわからないが、気づいたら私は倒れている彼を見下ろしていた。

「け、い」

 掠れた声を投げかけても、ピクリとも反応しない。

 閉じられた瞼と、半開きの口。

 どうして? さっきまであんなに元気そうにしてたじゃない。珍しく、私みたいに大きく手なんか振っちゃってさ。

「圭」

 今度はちゃんと呼べた。

「ねぇ、圭、起きて、ねぇどうしたの? 圭ってば」

 微動だにしない彼に、いよいよ最悪の想像が脳内を侵食してくる。もしかして、私が無理やり海に連れてきたから? 負担を押し殺してたってこと? それに私はなんで気付かなかった?

「お願いだから起きてよ……どうしたらいいかわからない」

 ねえ、言ってくれないとわからないよ。

 彼を揺さぶるべきなのだろうか。そしたら意識が戻るのかもしれない。

 だが、今朝の約束が頭をよぎる。


 ――そう『お互いに触れたら駄目』って

――……君は、約束は破らないだろ?


 彼の前に膝をついた。

 両手は、自分の顔へと持っていき、視界を覆った。

 ああああああああああ。自責の念に潰されるように、自身の体も地面へと伏してゆく。







「美代子」








 ガバッと顔を上げる。

 即座に声の主の顔を見ると、緋色がこちらを捉えていた。

「……けい」

「……悪いな。今日は、ここまでだ」

 重そうに体を起こしながら、彼はそう言った。

「体は、大丈夫なの?」

「ああ……なんとかな。帰るまでは持ち堪えてくれるだろう」

 足を引きずりながら森へと戻ってゆく後ろ姿を、言葉も無く見つめる。

 彼の足が森へと踏み込んだとき、静かに振り返った。

「美代子。今日は楽しかった」

 ありがとう。

 最後のほうはもう声が聞き取れなかったが、口の動きで確かにそう言ってくれていたと思う。きっとすごく辛いだろうに、私は何も出来ないまま動けない。


 その後はこみ上げてくる嗚咽をなんとか胸の奥に留めようとすることに必死で、ただひたすらその場に座っていることしか出来なかった。

 視界が霞み、ぼんやりと前を向くことが出来るようになった頃には、もう圭の姿は無かった。



 ***



 あれから、私は森に行っていない。

 勝手だとはわかってるんだ。もしかしたら、今日もあの木陰で圭が私を待っていたかもしれない。

 それでも、もう彼に向かってうまく笑える気がしないんだ。

 自分の中に溜まっていた罪悪感や後悔が、私の中で大きな壁となって森へ向かう足を止める。

 これでいい。圭も私も、お互いに出会わなかった毎日に戻るだけ。

 そう頭では理解してても、私の体は以前みたいに弾むように走ることは出来なくなったし、好きだった朝が嫌いになった。



『美代子ー悪いんだけど、ちょっと書類届けに来てくれない?』

 そんな想いで過ごしていた時。

母からの一本の電話によって、私は彼女の勤め先の病院へ足を運ぶことへとなる。



 ――日高圭介。

 そう書かれたネームプレートを、じっと見つめる。



『前からお母さんが担当してた子がねー。この前病院から抜け出して、相当無理したらしいの』


『その日は丁度欠勤だったから、実際に見たわけじゃないんだけどね。病院の入口で倒れちゃってたみたいで』



『そう、美代子には話してたわよね。

 あの赤い瞳の男の子のことよ』





 私が求めているものは無いとわかってるさ。きっともう既に、あの森で話していた『圭』は消えてしまった。それでも、これが私なりの圭に対する友情のけじめの形だ。

 扉の斜め上のネームプレートを再度確認し、覚悟を決める。



 緑色のカーテンが風によって揺らめいていた。

 白いベッドには同じくらい色白の肌をした、少し髪の長い男の人が横になっているのが見える。

 すぐ傍まで寄り、何十回と見てきたその顔を確かめた。


 それは確かに、私が知っている『圭』と同じ顔であった。





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