第34話 季節ハズレの海とカモメたち 🏝 2 🏝

「にいちゃん、

 いいジャンパー着てるのぉ。」


 波止場の堤防に腰を下ろしているMに、地元の漁師が声をかけてきた。

 今日は船に乗らないはずなのに、漁師は頭にねじりハチマキをして、古い紺色の防寒着を着ている。


「オレのと交換してくれないか?

 そんなのは、この辺じゃ売ってないから...」


 彼はMの白いモンクレールのジャケットがよほど気に入ったのだろう。

 白のアウターはとにかく汚れやすい。

 バイクに乗っていれば、すぐに使えなくなってしまう。Mは自分の服を脱いで彼に差し出した。


 漁師は顔を崩して喜んで、白いジャケットに袖を通した。


「親父さん、

 カッコいいですよ」


 Mに言われると、漁師は顔を赤らめてさらに嬉しそうに笑った。



 夏にはたくさんの観光客で賑わうこの海辺の町では、5月に地元以外の人間を見かけることはほとんどなかった。


 だからMのブランド物は、たしかに目立ち過ぎていたのかも知れない。

 だが、彼はそんなことは気にしていなかった。

 ただ家にある物を着て来ただけだし、週末の気ままなバイク🏍ひとり旅だった。


 夜明け前の幹線道路は空いていた。

 ストレスフリーの走行で、あっと言う間にMはこの港まで来てしまった。

 ひと気の無い波止場にバイクを停めて、彼はただ海を眺めていた。


 その胸に、ひとりの女性の顔が浮かんできた。


 もう随分と昔のことだが、Mが忘れられない女性だった。



 その彼女とは、ある日、連絡がプッツリと途切れてしまったままだった。


 ——そういえば、たしか彼女の実家は、この辺のはずだ......


 Mはここに来て、初めてそのことを思い出した。

 彼の内にある無意識のチカラが、バイクをこの場所に連れて来てしまったのかも知れなかった。


 彼女はMとの連絡を断った後に、社内の誰かと結婚したというウワサだった。


 その女性が、いま港のCafeにいる涼子だった。


 あの時の彼女は、社内のある男から猛烈なアタックを受けて、そのまま結婚式までなだれこんでいってしまったのだ。


 Mと別れるはっきりとした理由などなかった。

 だから詳しい理由など説明せずに、彼女は身を隠すようにMから離れてしまった。

 それが結婚というコトバが持つ魔力かも知れない。


 だがしばらくすると、やはりMと一緒に幸せを築く道を行くべきだったと、涼子は気がついた。


 そして今、ふたたび彼女に運命の出会いの時がやって来たのだ。


 漁師は、涼子の父親だった。


 彼がMに言った。


「なぁ、若いの、ちょっとウチに寄ってみないか?

 イイ服をもらったことだし.....

 なんか食べていきな!」


 涼子はCafeの窓越しに、父と一緒にこちらへ向かってくるオトコを見ていた。


 ——あっ、あれは.....


 かつて1年あまりを共に過ごしたMを、彼女が見間違うはずはなかった。

 涼子は店の中の鏡を見つめて、もういちど自分の髪を指ですいた。



 カランコロンと音を立てて扉が開き、Mがカフェの中に入ってきた。

 昔と変わらないMの身のこなしだったが、さらにオトコに磨きがかかっていた。太陽の光を背にして、彼はまぶしく輝いていた。

 涼子には、白い光に包まれたMの姿しか見えなくなっていた。


 Mのほうも、すぐに涼子だと分かったが、ことさら平静を装っていた。

 そして彼女の父親に促されるままに、彼は黙って店の隅のテーブル席に腰掛けた。


 Mはひとり静かに、胸に蘇ってくるあの頃の涼子との、甘い思い出の海を漂いはじめていた。

 しかし、突然の出会いの訪れに、すこし戸惑っていた。

 彼にはストーカーまがいのことをするつもりはない。そんな男だと思われたくはなかった。

 だから、彼女と偶然に出会ってしまったとしても、向こうから挨拶をしてこなかったら、気がつかないふりをしようと心に決めた。


 ——そんな愛のカタチがあってもいいだろう。

 彼女がいま幸せなら、それでいい......


 彼なりのバカなオトコの美学の呪縛が、そうやっていままで彼をひとりにしてきた。

 彼は、自分のためにオンナを犠牲にする男ではなかった。

 彼はいつも本気で考えていたのだ。


 ——オレと誰かが出会ったなら、それも運命だろう。ならば彼女には、わら一本でも多くの幸せをあげたい。


 そして誰であろうと、彼は別れた女性のその後の幸せを、いつまでも祈り続けていた。


 Mが絶滅危惧種であることは明らかだった。


 いまどき、そんなオトコは昔の健さんの映画に🎬しか出てこない。


「自分、不器用なんで.....」


 だから彼は、この季節ハズレの海にひとりで来たのだ。


 灰色にうねる人気のない海に、多くの忘れたい重荷を捨てるために......。



 そんなMを、遠くから涼子はじっと見ていた。


 彼女は、自分の心臓がドキドキするのを押さえることができなくなった。

 だから、くるりと背中を見せて、自分の動揺をMに悟られまいとした。


 Mも、そのまま気がつかないふりをしている。


 窓の外を飛んでいくカモメたちを、彼は見ていた。


 店の脇にはたくさんのヒモノが吊るしてある。


 太ったネコが日向で寝そべっていた。


 ......どれくらいの時間が経っただろうか?



 涼子はコーヒー☕️を持ってきて、Mのテーブルの上にそれを置くと、黙って彼の向かい側の椅子に座った。


 Mが顔を上げて涼子を見てみると、彼女はありったけの笑顔で、穴があくほど彼の顔を見つめていた。


 Mも微笑んだ。


 彼はまた、愛を信じられるようになるかも知れないと、思いはじめていた。






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