第27話 小さな手 ( 2 )
Jが地下鉄の駅で出会った盲目の青年は、辰夫という名前だった。
そして、辰夫に寄り添っていたのは、やはりJのかつての恋人の玲子だ。
彼女は電車に乗り込む前から、とっくにJがいることに気がついていた。
だが、彼女は辰夫に気を使い、すぐにはJに挨拶をしなかったのだ。
電車の中が空いてきて、彼らは座席に並んで座ることになった。
やっと玲子がJのほうを向いて口を開いた。
「久しぶりね!
元気そうね」
——やはり、玲子だったのか.....
あの頃は、よく出歩いて遊んでいたけど、ずいぶんと変わってしまったなぁ.....
「あぁ、やっぱり、そうだったんだ。
こんにちは!
そちらは、ご主人かな?」
Jは辰夫のほうに向かってお辞儀をしたが、もちろん彼には見えるはずがなかった。
「また、詳しいことはメールするね!
アドレスは、前と同じだよね?」
玲子はそう言うと、Jと少し距離をとるように移動して、辰夫のほうに近づいていった。
辰夫が玲子に初めて出会ったのは、2人の別々の学校が合同で行なった、旅愛好会のミーティングでのことだった。たまたま、2人はとなり合わせに座ることになったのだ。
辰夫がとなりにいる玲子に声をかけた。
「僕は、まずこの夏はオーストラリア🇦🇺に行きたいな。」
「へぇ、やっぱりコアラ🐨とか見たいのかな?」
辰夫は何度かオーストラリアに行ったことがあるが、玲子はまだだった。
「いや、パースという場所があって、そこに島があるんだ。
その島には、クオッカという、世界でいちばん幸せだと言われる動物がいるんだ。」
そう言って辰夫は、玲子に携帯電話📱の中の、可愛いクオッカの写真を見せた......
今の辰夫は、地下鉄の中に座って揺られながら、楽しそうに笑っていた。
彼は光を失っていたが、思い出の中では、なぜか極彩色の美しい世界が広がっている。
そこでは、いつも美しい玲子が笑顔で一緒にいてくれるのだ。
2人は、まだ、あの海を見ていた。
ただ、寄せては返す波を見ているだけで、2人は幸せなのだ。
これからもずっと、一緒に同じ時間を共有することが、運命であると2人は考えていた。
辰夫が出勤する時に、呼ばれたような気がしてヘッドホンを外すと、そこにはいつも玲子が来ていた。
そして彼女は辰夫の手をとると、一緒に電車に乗って彼の職場まで導いてくれるのだった。
辰夫もそろそろ出勤ルートに慣れた頃には、1人で会社まで行こうかと考えた。
でも、彼は毎朝こうして玲子の小さな手を握るのが嬉しくて、そのままにしておいたのだ。
「ねぇ、毎朝ここにくるのは、負担になってるんじゃない?」
「大丈夫だよ。私も出勤途中にこの駅で降りるだけだから。」
「そっか......いつもありがとう😊」
辰夫には玲子の顔は見えなかったが、彼女が微笑んでいるのは確かだった。
彼女の強さに、辰夫はいつも驚かされている。
今まで、何度も彼女に別れるように言ってきたが、彼女はついてきてくれた。
いや、彼女が折れそうになる辰夫を、何度も引っ張って今日まで辰夫は生きてきたのだ。
「ほんとに、いいのか?」
辰夫は、真顔であらためて玲子にきいた。
今日は仕事の後に、2人で玲子の両親の所に結婚の報告をしに行くことになっている。
「なにが? 今まで何度も話しあってきたじゃない? 私には、あなたと別れる理由がないの!」
玲子の迷いのない返事には、辰夫はいつも励まされる。
実家に挨拶に行く日、玲子は辰夫の会社の前で待っていた。
2人は電車の中でも、あまり言葉を交わさなくなっていた。
それは、これから会う彼女の両親から、何を言われるかわからないという不安があったからだった。
あっという間に、彼女の家に着いてしまった。
「段差があるから気をつけて。」
玲子に手をとられながら、辰夫は初めての家の部屋の中にあがっていった。
玲子の両親はずっと彼女たちを見ていたが、玲子がほんとに辰夫と一緒にいて幸せなのかどうか、見極めるつもりだった。
しかし彼女の母は、自分の娘の笑顔や弾んだ声の調子から、玲子が辰夫と一緒にいて楽しいのだと、いつしか気づいてしまった。
「よく来てくれましたねぇ。
さぁ、奥のほうへどうぞ!」
玲子の母はそう言いながら、また2人のことを見つめた。
親としては、娘には普通の人と普通の結婚をしてほしかった。
だが、娘が選んだのは、目の見えない辰夫だった。
『この娘は、こうと決めたら今まで曲げた事がなかったわ。
いまさら何を言っても、彼女の気持ちは変えられない。
この子は、最高にぶっ飛んだ人生を歩むことになるけど、なんとかやっていけるかな......』
母親は、やってきた2人が席に着く頃には、彼らの味方なっていた。
だが、玲子の父は違う。
その険しい顔の表情から、彼がどんなことを話し出すかは、玲子と母には想像できていた。
「辰夫くん。
キミには、ほんとに玲子を幸せに守れる自信があるのかね?」
父は、できればこの縁談を壊したいと思っていた。
——目の見える健常者でさえ、世間の荒波に揉まれて生きていくのは大変なのだ。
まして、目の見えない人間は......
「お父さん、僕がこんな人間で、本当に申し訳なく思っています。
玲子さんと初めて会った時には、僕の目は見えていました。だから美しい玲子さんの姿は、けして忘れることはありません。
おかげさまで仕事は順調です。
大きな昇進は望めないかもしれませんが、僕には技術があるので、玲子さんが生活に困るようなことは無いと思います。」
「そうか。
だが、生活していく中で、今後、玲子が淋しく思うようなことにはなるのは困るんだが....」
「お父さん、それは健常者の人との結婚だって、困ったり淋しかったりはありますよ。」
その母親のひとことで、父親は黙ってしまった。
父は娘に嫌われたくなかったので、なんとか辰夫のほうから、自発的にこの結婚を辞退するように仕向けたいと思っていた。
だが、3対1では勝ち目は無さそうだった。
父が黙ってしまったのは、イエスと同じことだと玲子は思っていた。
だからこの後は、和気あいあいの雑談になった。
少しずつ、父親は感じ始めていた。
——目の見えない人間も、幸せを感じることがあるのだろうか......
それは、現実主義の父には、信じたくない事実だ。
長年、彼が培ってきた社会常識や偏見を、いまここにいる盲目の辰夫が、少しずつ変えようとしていた。
その目に見えない変化の力は、恥ずかしさと驚きを父にもたらしていた。
彼の心の中の冷たい何かが溶け出していた。
そして、代わりに暖かいものが込み上げてくるのだった。
家族が集うその部屋からは、やがて笑い声が聞こえるようになってきていた......
「ひねくれ者の天使👼としては、誠に不本意ではございますが......」
天使のJJは翼を大きく広げると、Jの前から飛び去っていった。
その夜、玲子からJにメールが届いた。
『今日はお互いに、びっくりしたよね。
私たち、結婚することになりました。
彼とは、あなたと別れた後に、合コンで出会ったんだけど、卒業する前くらいかな......彼が病気で失明してしまったのは。
あなただったら、そんな彼と結婚する私のことを、分かってくれるよね?
きっと、あなたが私の立場だったら、同じことをすると思うわ。
こんな気持ちになれたのは、あなたと過ごした日々があったからかなと、感謝しています。
今日、あなたと出会えて、やっぱり一緒になるのはあなただったのかもと思ったけど、きっと神様が、きちんと私の気持ちを整理させるために、もう一度だけあなたに出会わせてくれたんだと思う。
私はいま、看護師という仕事の中で、毎日、人の死に直面しています。
だから、自分の人生を、後悔しないように生きようと思っています。
お元気で。
ありがとう。』
——玲子、
オマエっていうヤツは......
ほんとに、どうしようもなく、
スゴいヤツだよ......
翌朝、あの駅のベンチには、いつものように辰夫が座っていた。
Jは同じベンチの端に腰をおろしたが、もう心配することは無かった。
辰夫は、いつものように、今日も楽しそうに笑っていた。
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