ベリタスの海

サ卜ウマコ卜

プロローグ

プロローグ

 どこまで続くのか、見上げれば落ちてくるような青い空。その空には雲が雲を追いかけるように流れている。公園の木々の枝が一斉に揺れている。芝生の際に置かれているプランターに植えられた花が揺れている。雲を、木々を、花を揺らしていた風が僕の髪を優しく撫で上げる。この風はどこまで届くのか。再び公園の木々の枝を揺らし、隣の町、隣の国、太陽、宇宙、それとももっと遠くまで。この町の鼓動とともに伝えるのだろうか。



 今、目の前に犬がいる。白くて小さい犬が僕の顔を見ながら一所懸命に尻尾を振っている。しかも、半笑いしているような口から舌を目一杯伸ばして。これは、ポメラニアンとかいうやつだろうか。犬嫌いではないが残念ながら犬についてそれほど詳しくない。飼い主であろう五十代の女性は知り合いとの立ち話に夢中で、犬は可哀想に放ったらかしだ。しかも服まで着せられて。

 だが、なぜこの犬は僕の顔をこんなに見ているのだろうか。犬から見ると僕の顔が犬顔?それともこの犬の知り合いに似てる?気になって仕方がない。僕にテレパシーとかいうやつを使う能力があれば間違いなくこの犬と会話をする。だが生憎そんなものは持ち合わせていない。お願いだから誰か早く「ほんやくコンニャク」発明してくれ。

 ……ふ~む、テレパシーか。そう言えば、子供の頃はその力が欲しくてたまらなかったな。動物と会話したかったわけではなかったけれど。会話したかったのは家の中にあったサンスベリア。リビングに置いてあったサンスベリアがある日突然枯れ始めた。それまでと育て方が違ったわけではないのに。毎日のように話しかけた。本当に毎日毎日。テレパシーさえ使えれば何が気に入らないのか、何が悪かったのか教えてもらえるのだろうが…。結局それは父親に捨てられてしまった。まだ生きていたかもしれないそれをだ。

 だから今も生き物は飼わない。ちょっとした鉢植えすら避けるようになってしまった。草や花や動物と会話できれば…僕らももっと楽に生きていけるかも知れない。テレパシーなどというオカルトめいた力なんて無いということは分かってはいるけれど。

 しかし困ったことに子供の頃は超能力やらUFOやらUMAやら幽霊やらに結構夢中になっていた。自作のESPカードで十回連続当たるまでやると決め、結局日曜日一日を無駄にしてしまったり、謎の呪文を空に向けて唱え続け気分が悪くなったり、山の中にツチノコ探しに行ったり、学校でこっくりさんやって先生に叱られたりしていたっけ。今は立派な大人だからもちろんそんなことは信じない。

 だが、世の中には僕よりもかなり年上のいい大人が、自称超能力者の手品にあっさり引っかかったり、テレビの企画で一所懸命にUFOを呼んだり、心霊写真と称するものをみんなで見ながらああでもないこうでもないと言ってたり、未確認生物だと断定した写真がその辺に普通にいる昆虫であっさり再現されてしまったり…。ああいう人達のようにならなくてよかったと心底思っている。

 それはそれとしてこの飼い主、隣人の息子の高校生が女の子連れて街を歩いていたとか、育て方が悪かったからああなったんだとか、さっきから大きい声で面白可笑しく喋っているが、人の悪口、できれば言わない方がいいぞ。個人情報垂れ流しじゃないか。個人情報保護法違反で六ヶ月以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金になるぞ。

 飼い主が捕まるかもしれないという心配よりも、人の悪口を聞かされているこの犬が不憫に思えてきた。せめて頭を撫でてあげたいが頭を撫でるにはベンチから腰を上げなければならない。幸か不幸か僕はそこまで慈悲深くないし、第一見知らぬ犬にはやたらと手を出さない方がお互いのためだ。ウン、間違いない。

 それにしてもイライラする。五月なのにやたら暑いせいだろうか。いや、そうでないということはよく分かっている。イライラしているのはあいつのせい。いつもわざとらしい優しさを振りまき、頼んでもいないのに人の世話を焼くあいつ。あ、イライラの元がやってきた。右手には缶コーヒー二本持っている。

「暑いな~。悪い悪い、バスが遅れちゃって。まあ、そう怒らずに飲めよ。」

 イライラの元は悪びれる素振りも見せず僕の横にドサッと座るなり僕にコーヒーを一本手渡し、自分のコーヒーの栓を開けグビッと一口飲んだ。コーヒー買ってくる時間があるならもっと早く来いってんだ。

「お前が遅れたのは寝坊したからだろう。バスが一時間も遅れるか。それにだ、誘ったのはお前だろ。それなのに遅れるなんて…。」

「まあ、そう言うなって。お前のために来たんだから。」

 誰も頼んでいないが。

「会社首になったらしいじゃん。就職二年目で。」

 どっから聞いたんだ。それもそんなウソ情報を。

「首じゃあない。倒産したんだ。」

「似たようなもんじゃん。」

 全然違う。ヨシオもう一口グビリ。

「でだ、ウチのおやじの会社手伝えよ。」

 何故そうなる。

「幼馴染のよしみで口き…。」

「お断わり。」

「最後まで言わせろよ。」

「お前の言いたいことは大概分かる。」

 こいつの父親はイベント会社の社長だ。世の中は不況なのに、なぜかイベントの仕事が多く、ものすごく忙しくてお陰様でいつも人手不足で、こいつもたまに手伝いに駆り出されるらしい。だからか知らんがその手伝いとやらをこの僕に紹介するのはやめてくれ。本当にお節介な奴だ。よくテレビドラマとかで見る、お年頃の娘の所へ見合い写真を持ってくる親戚のおばさんのようだ。まあ、少なくともこいつは僕の親戚でも何でもないがな。

 このように、こいつは子供の頃からこういうところがある。小さい頃は優しいヤツだと思っていたが、ただ単に人に恩を着せたがっているだけだ。例えばドアがあればドアを開けてまるでレディーファーストのようにお先にどうぞという手ぶりをする。男の僕にだ。女じゃないっつうの。気持ち悪い。本当に本当にウザったいヤツ。

 しかもこいつの優しさは危うい。例えばだが、ヨシオが将来結婚できたとして、当然だが子供が生まれる。その子供が五歳くらいの時に急におなかが痛くなる。ヨシオは慌ててその子を抱いて病院へと走る。ところがその途中で道に迷ったおばあさんに出会う。ヨシオは間違いなくおばあさんの道案内をする。その結果子供は手遅れとなり、その子は命を落とす。このようにヨシオは人助けの為なら家族の命すら犠牲にしかねないのだ。序でに言うが、子供の頃、僕をオカルトの世界に引き込んだのもヨシオだ。

「それだけだったらもう帰るぞ。俺も忙しい。」

「ニートが忙しいわけないだろう。」

「うるさい!」

 ヨシオのスマホの着信音がなった。相変わらず騒々しい着メロだ。

「ハイ、松下です。お世話になっております。昨日はありがとうございました。ハイ、大丈夫です。」

 お~お~、営業トークだな。チャンス到来。この隙に帰るとするか。じゃあな、ヨシオ。

「ア、少々お待ちください。…マコト!ホント、困ったらいつでも言っていいぞ。…あ、失礼しました。そうですね、あとは…。」

 ハイハイ。死んでもお前の世話にはならんがな。お気持ちだけ有り難く頂いておくよ。

 だが、不覚にもヨシオから渡されたこのコーヒー。どうしようか。カフェイン系は好きじゃないんだが、もったいないから家帰ってから飲まんとな。ポケットに入れておこう。ウン?クシャッつったな。何だったけこれ。ポケットの中の紙。


「ヨガをしてみませんか?」

 シホと名乗るその女性はチラシを僕に差し出しながらそう話しかけてきた。ベンチに腰掛けていた僕の前に不意に現れた彼女の顔は、周りのまぶしさのせいか影になって最初は表情がよくわからなかったが、思わずそのチラシを受け取ってしまった。

 ヨガ?

 ヨガ、怪しいな。○○○真理教っていう危ない団体があったとか、ちらっと聞いたことがあるが。

「ヨガ、ですか。」

「ハイ」

「ヨガ…。」

 ヨガマットの上でヨガのポーズを決めている女性がずらっと並んだ光景が頭に浮かんだ。端っこにイタイおじさんが一人紛れているあの光景だ。

「ヨガって、美女がやっているイメージのある、あのヨガですか。」

「…美女がやっているかどうかは知りませんが、あのヨガです。」

 少し困った様な顔をしている…ように見えた。

「ヨガって女性がやっているイメージですけど。」

「ヨガの本場のインドでは、男性の方が圧倒的に多いんですよ。」

 その人は答え、にこりと笑ったように見えた。

 次の瞬間、ひげを長々と伸ばして布だけを身に纏ったインド人のおっさんがヨガをやっている姿が頭をよぎった。

 そうなのか?その、インドではヨガをやっているのは男性が多いという情報は確かなのか?○○ペディアでそう書いてあるのか?そんなふうに言われてもにわかには信じられないぞ。

「それに、最近ではメンズヨガも流行っていますし。」

 ……へぇー、それは知らなかったな。

「そうなんすか……。」

 一回チラシに目を落とす。別に読むわけでもないが、ちょいと間が持たん。

「あ~……でもなぜ私に?」

「…疲れているように見えましたので…。すみません…。」

 疲れているように、か。確かに無職になって顔は疲れているかもしれないし、そもそもちょっと猫背気味だしな。

「あ、まあ、疲れているのはそうですね。」

「是非一度お試しください。」

 僕の顔を覗き込みながらそう言うとショートヘアーのその人はゆっくりと振り向いて、歩いて行ってしまった。ヨガか。やることはないだろうな、と思いながら渡されたチラシは二つに折りたたんでポケットに突っ込んだ。


 そのチラシが今缶コーヒーにつぶされた。そう言えば、とヨガのことを思い出し、ポケットから取り出し開いて読んでみる。

「あなたもヨガの世界を感じませんか。一回500円」

 500円?安いな。大丈夫か?これで経営成り立つのか?最初だけ安くて、なんか高いグッズを売りつけるっつうあれじゃないのか?いかにも怪しげだが。フム。場所は…帰り道にある。しかしヨガか~。面倒だな。やめとこ。

 いや、あれだな。あのシ…シホさんだっけか。ちょっとキレイ系だったような気もする…。無職になって落ち込んでいる僕に対する神様のちょっとしたお恵みかもしれんし。……まあ行くだけ行って怪しければすぐに帰ればいいし。仕事ないから暇だし。とりあえず電話してみようか。

『ハイ、ヨガスタジオ、ベリタスです。』

 お~、あの…シホさんの声だ。

「あの、チラシ見て電話しているんですけど。」

『ハイ、ありがとうございます。』

 嬉しそうな声がする。

「一回試してみたいんですけど、いきなりですが今日って大丈夫ですか。」

『ハイ、大丈夫です。何時がよろしいですか。』

 う~ん、今からだったら16、18、20。20時ならいいか。

「えっと、20時の部で。」

『20時…よろしければお名前を。』

 あ、名前言ってなかった。

「あ、佐藤です。」

『佐藤様ですね。』

 佐藤様…ふ~、ゾクッときた。

「はい。…で、何か準備するものは…。」

『ヨガマットはこちらで準備しますので。汗をかきそうならタオルなども。』

「ハァ…。」

 汗かくかな?そんなきついのをやるのか?

『それと、必要ならば何か飲み物…カフェイン以外で。アルコールはもちろんだめですよ。』

 …意外とお茶目な人だ。

「着るものは…何か…指定ありますか。」

『動き易ければどのような服装でも構いませんので。』

「ジャージでもいいですか?」

『ええ、もちろんです。』

 お、ラッキー。

「じゃあ、20時に伺います。よろしくお願いします。」

『こちらこそよろしくお願いいたします。佐藤様、20時でお待ちしております。』

 う~ん、電話で話した感じではそれほど怪しくなさそうだ。いい気分転換になるかもしれない。



 ラッキーとは思ったものの、高校卒業以来、ジャージなんて着る機会無いから持ってなかったし、まさか高校時代の校章の入ったジャージを着るわけにもいかない。仕方無いので慌てて安物のジャージを調達した。なんとなく「テツandトモ」(古っ)の気分だ。それと、途中でコンビニに寄って飲み物を調達した。当然コーラだ。

 19時55分、僕は地図を頼りにヨガスタジオ・ベリタスの前に辿り着いた。外から見た感じではそんなに広いところではなさそうだ。手書きの看板が掛けられた黒っぽくて重そうな扉を引く。おっと、意外と軽い。色に騙された。

「おジャマしま~す。」

 恐る恐る声をかける。

「ハ~イ。」

 奥からシホさんが現れた。昼間はちょっとだけキレイ系だとは思ったが、夜のこの時間帯のシホさんはゾクッとするほど美しく見える。

「あ、昼間の、公園の…。佐藤さんとおっしゃるんですね。今日はありがとうございます。よろしくお願いします。」

 心の底からニコニコしている…ように見える。

「こちらこそよろしくお願いします。あの…一回500円って本当ですか。」

「ハイ。500円です。」

「じゃあ、先に払っておきます。」

 後で追加料金とか言われると面倒だからな。

「それはありがとうございます。」

 シホさんに500円玉を渡した。

「中へどうぞ。」

「はい、お邪魔します。」

 靴を脱いで中に入ると少し薄暗い。正面の壁全体には鏡が貼られ、十八畳ほどのフローリングの部屋にヨガマットが二枚一組で二組だけ敷かれていた。

「こちらにどうぞ。あ、靴下は脱いでください。」

 おっと、靴下は脱ぐのか。

 大体、人んちにお邪魔する時の靴下着用は我が家のしきたりだ。汗でベタベタした素足で他所様の家を歩き回るのは失礼極まりない、というのがうちの親の考え方だ。ファッションで靴下履かないにしても、ちゃんと靴下を持っていって、他所様の家に上がらせてもらう時には持っていった靴下を履いてから上がりなさい、と妹には教えていたようだ。

 しかし、ヨガの時には靴下は厳禁らしい。まあ、ヨガを始める前に脱げばいいだけのことだが。

 脱いだ靴下を脇に置いて鏡を正面に見てヨガマットの上に腰を下ろした。シホさんは渡した500円玉を神棚らしき物の前に置かれた灰皿みたいな器の中に入れて、鏡と僕の間のヨガマットの上に胡坐?のような姿勢で座った。昼間は逆光になって分からなかったが、割と若い感じだ。僕よりも二~三歳年上か?

「佐藤さんはヨガは初めてですか?」

「はい。」

「決して無理はなさらないでください。競争じゃありませんから。」

「はい。」

 って言うか他に生徒はいないのか?

「競争って言ってもこの時間帯は他に生徒さん、いませんけどね。無理をせず、かと言って楽をせず、少しずつ体を慣らす感じですね。」

 他に生徒がいないって…。薄暗い部屋に男と二人だけってかなり危険な状況だが。

「大丈夫です。」

 え?

「佐藤さんはヨガとちゃんと向き合える人ですから。だから焦らずじっくりと取り組んでください。」

「……あ、はい、わかりました。」

 びっくりした。心の中を読まれたのかと思った。

「では、胡坐の姿勢から覚えましょう。」

 お~、胡坐というのは座禅だな。いよいよヨガらしくなってきたぞ。

「どちらの足でも良いので踵を手前に引いて、もう片方の踵も手前に引いて、ヘソと左右の踵が一直線になるようにしてください。直線にならなければできるところまでで構いませんから、力を抜いて楽に座れる形にしてください。」

 今、シホさんの座っている姿勢だな。……知っている座禅の形とは違うぞ。なんちゅうか座禅崩れとでも名付けようか。

「テレビなどでよく見るお坊さんが組んでいる形はヨガでもやりますが座禅ではなく蓮華座と呼んでいます。ヨガの胡坐はこの形です。」

 なるほどなるほど。やってみると若干股関節とくるぶしが痛いが、慣れると大丈夫そうだな。まあまあできる範囲で。

「お尻の肉ではなく、骨盤で座るように、お尻の肉を後ろ、左右に逃がしてください。両手を膝の上に上向きに乗せて親指と人差し指で輪っかを作ります…そうです。背筋を伸ばして、肩の力を抜いて、少し顎を引いて、まっすぐ前を見て目をつぶります。ゆっくりと呼吸をして。体が動かなくなるように気持ちを整えてください。」

 骨盤で座るなんて生まれてから今までやったことがない。っつうか、骨盤なんて意識したことあっただろうか。新しい感覚だ。なるほど、骨盤が上半身全体を支えている感じがよく分かる。頭から背骨、骨盤まで一直線だ。

 何もしない長い時間が過ぎる。シホさんの呼吸が少しだけ感じられる。自分の体が少しだけグラグラ動いているのが分かる。体が動かなくなるようにというのはそういうことか。ねずっちのように簡単には整わない。体を動かなくするのってなかなか難しい。だんだんと一回一回の呼吸が深く、長くなる。そして、心が少しずつ静まってくる…………。

 こうして、僕のヨガ人生が始まった。

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