第141話 ドナウの未来を担う子



 現在ドナウの王都は戦争でもしているのかと言うほどに使用人達が忙しく動き回っている。その忙しさはある意味では数年前のエーリッヒの婚儀に匹敵するほどだった。それもそのはず、次期国王のエーリッヒとその妻オレーシャとの子供がもうすぐ産まれようとしているのだから、暇な者など居るはずが無い。

 特に今は先のホランド騎兵襲撃の件での交渉が、その襲撃地で行われる予定もあり、エーリッヒが団長を務める交渉団の出立が数日後に迫っているのと重なって、城の中を戦場と錯覚するほどに人の出入りと動きを生み出していた。

 オレーシャが産気づいたのは昨夜の事で、未だ本格的な陣痛が始まっていないものの、どんなに遅くとも今日の内にはお産が始まると、産婆や医師達は気を張って待機していた。さらに間の悪い事に、祝い客と称してエーリッヒの関心を買おうと様々な貴族が面会を希望しており、彼等の応対も使用人の仕事に含まれているので、誰もが仕事に追われていた。



 そんな中、アラタはと言うと、特に何も変化の無い通常業務を消化しているだけだった。元々医者でもないし、使用人でもないので他所の夫婦のお産に何か出来る事も無く、ホランドとの交渉も外務省と軍が主軸になっているので、諜報部の出番はそこまで多くない。勿論先立って息の掛かった行商人を現地に送り込み、僅かでも情報を搾り取ろうと仕事に余念が無いが、まだホランド側の交渉団が到着していないので、彼等の本格的な仕事はまだだった。

 既に昼を過ぎてもうそろそろ陣痛が始まっても良いのにな、とアラタはウォラフと昼食を食べながら話し込んでいた。大概はここにエーリッヒも加わるが、今日はオレーシャを安心させるために一緒に食事を摂っていた。


「殿下のお子はどっちだと思う?」


「男じゃないか、勘だけど。騎士団の賭けはどっちが優勢だ?」


「姫の方が少し優勢かな。けど、私は君と同じように王子にしたよ。やっぱり初めての子は男の子の方が色々と安心するから、願掛けも兼ねているよ」


 とことん西方の貴種は男児をお望みらしい。まあ後継者問題が根底にある以上はそれも仕方の無い事なのだろうが、別に女の子でも構わないのに。貴族とは無縁の育ちのアラタは、二人目のマリアとの子がどちらでも良かったし、いずれ授かるアンナとの子供が男女どちらでも構わなかった。


「ところでエヴァ夫人が二人目を懐妊したと聞いたが、旦那としてはどちらが良いんだ?」


「そりゃあ今度は女の子だよ。その次は男の子が良いけど、エヴァも女の子が一人ぐらいは欲しいそうだよ。自分と同じように色々な服を着せたり、化粧もさせたいと楽しそうに話していたから、私も乗り気になってね」


 まだ見ぬ娘の未来をあれこれと語り始める。やれ、髪の色は自分の色だの、顔は嫁に似た方が良いだの、いつも以上に陽気に振る舞い、給仕をしていた中年女性から苦笑いをされていたが、ウォラフは特に気にしなかった。アラタもマリアやアンナと似たような話はしていたし、息子がどのように育つのかを毎日楽しみながら観察して、こうして友人と親としての話題を共有出来るのを悪くないと感じてもいる。これに今後はエーリッヒも加わり、どう変化するか分からない未来を語り合うのがアラタは今から楽しみで仕方が無かった。



 一通りウォラフと話し込んだアラタは、午後の業務に取り掛かろうと城内を歩いていると、見覚えのある、しかしあまり好んで会いたくない人物の顔に気付いて、表情を外向きに切り替える。向こうもアラタに気付くと、あちらは嫌悪感を隠しもせずにアラタを睨みつけて来た。


「これはこれは平民殿。相変わらずせせこましく働いているようだな。貴族とは自らが働くのではなく、下々を働かせるのが本来の役割。貴様のような卑しい生まれにはお似合いだろう」


 開口一番、侮蔑を隠しもせずぶつけてくるのはマンフレート=ザルツブルグ。ブランシュ王家に連なる血脈であり、ドナウ南西部の大領主を務めている男だ。そして余所者かつ平民でありながらドナウの重鎮として重用されるアラタに最も強い敵意を抱いている。その肥満体を震わし嘲笑すると、後ろに控えていた彼の与力の小領主達も揃ってアラタを嘲る。彼等もエーリッヒに祝いの言葉と贈り物をしに来たのだろう。

 嘲りを受けた事自体はどうでも良いのだが、挨拶しないわけにはいかないので、アラタも礼を失しない程度に挨拶をするが、彼等には自分達をどうでも良いように見下す視線のアラタが気に喰わないようで、口には出さなくとも怒気を纏わせ、その内の一人がアラタを中傷する。


「貴様のやっている事など、諜報などと大層な名前を付けているが、要は人のアラを探る卑しい仕事ではないか。あまつさえ貴族を捕縛して牢に入れるなど、およそ品格ある者のする事では無いな。所詮は平民、子を産めない役立たずの女を妻に迎えようとするのも当然だな」


 なぜこの男は不自然なまでに怒っているのかと不思議に思ったが、一つ思い当たる件があり、単なる逆恨みじゃないかと呆れた。

 そして全く関係の無いアンナが最も気にする事を罵倒する己こそ品性に欠けると、アラタは内心殺しても問題無いかと考えたが、すぐさま電脳内にドーラから注意されたので、ひとまず殺しは無しだと激情を抑えて、相手の方に非があるように誘導する事を思いついて行動に移した。


「なるほど、確かに貴方の言う通り人の抱える秘密を探り当てるのは品が良いとは言いませんね。ですが、それは必要だから行っているに過ぎませんよ。それに、どれだけ品格があろうとも、知性と生まれた国への忠誠心の無い輩が金欲しさに他国に叡智を売り渡すのは見過ごせません。

 特に官僚という責任ある立場でありながら、ホランドという仮想敵国に通じて勝手に情報を売り渡すような輩は、鎖で繋がれて当然だと思いますよ。尤もカリウス陛下はその痴れ者を一族郎党処罰したかったようですが、前例が無い事から法務長官殿が止めに入らねば、その一族は領地を没収されていた事でしょう。おっと、そう言えば貴方もその男の一人と同じ姓を持っていますね」


 アラタが皮肉を利かせて、以前ホランドに機密を売り渡した貴族官僚を知恵の足りない愚か者と罵倒すると、いよいよマンフレートの後ろに居た男は顔を真っ赤にしていきり立ち、今にも腰の剣を抜いてアラタに斬りかかりそうだった。彼は今牢獄に繋がれている元官僚の一人の兄であり、度々カリウスに身内を解放するよう嘆願していたが、それが聞き入れてもらえず、行き場の無い鬱憤を捕縛したアラタに向けていた。

 そんな男に自業自得だったとはいえ身内を馬鹿にされたのだから、元から気の短い与力の男は我慢の限界に近く、どうにか頭の中でアラタの首を刎ねる想像で辛うじて我慢していた。

 しかし、そんな男の我慢など知っていても知った事かと暴発させる気だったアラタはさらに数歩踏み込んできた。


「まったく、仮にも国を動かす官僚とあろうものが、個人的な金欲しさに敵国と通じるなど、醜聞どころの騒ぎではないというのに。しかもその代金はホランド人が墓地に埋めて隠していた金貨、これでは死体を掘り起こして死肉を喰らうような物だ。あの売国奴達は犬畜生より品が無い」


 元より我慢の限界に来ていた男は止めの一言で理性を吹き飛ばし、城内での抜剣が処罰の対象だというのを気にせず、目の前の無礼者を黙らせてやろうと剣で斬りかかる。これにはマンフレートもその取り巻きも仲間の凶行に驚いて棒立ちになる。彼等にとっての救いは、この狭い廊下で振り回された剣で巻き添えに斬られずに済んだ事ぐらいだろう。

 だがアラタからすればその動作は稚拙の極み、何も褒めるべき所の無い激情に任せた単調な動きでしかない。近衛騎士なら有無を言わさず落第にする程度の業で、この国でも五指に入る強さのアラタに傷を付ける事など叶わないだろう。

 与力が剣を振りかぶる前に懐に飛び込んだアラタは、この考え無しの愚か者の右手首を掴んで関節を極めて、力の入らない手から剣をずり落としつつ、折り畳んだ右肘を与力の左肩に振り下ろして粉砕する。体格差が20cm近くある組み合わせだから可能な技だった。勿論アラタの方が背が高い。

 骨折による激痛に与力の男は座り込むが、叫ぶ事なく歯を食いしばって痛みを飲み込む。彼にとって下等な平民に屈するなど到底我慢出来ない故の我慢だろうが、アラタから言わせれば矜持の使い所が間違っているようにしか思えない。

 他の与力が我に返ると、アラタを非難し始めるが、当人はどうとも思っていない。それどころか痛みに呻く男など心底どうでも良いように鼻を鳴らして非難を受け流す。


「皮肉を皮肉で返したのは無粋でしょうが、それに剣で応えるのは無粋の域を超えているでしょう?それも素手の相手に返り討ちにあうとは、貴族として鍛錬を怠けているとしか思えませんね。もし不服でしたら陛下に直談判して、どちらが無法か陛下に採決を委ねますか?

 ああ、ですが今はエーリッヒ殿下のお子が産まれる大事な日ですので、それこそ無粋の極みでした。まあ、こちらも怪我をさせた手前、鎮痛薬ぐらいならご用意したしますが」


 自分で重傷を負わせておいてこの言い草は貴族の誇りを甚く傷つけるが、アラタの言う通り城内で剣を抜いたのはこちら、それも王太子の最初の子供が産まれる慶事の日に、あまつさえ丸腰の相手に返り討ちだ。これほど不利な判断材料を持ったまま王に泣きつくなど、面子を重んじる貴族に相応しくないと却って処罰を受けかねない。それを分かっていた他の与力は悔しそうな顔をしながら黙るしか無かったが、マンフレートだけは元気に吠えている。


「だ、黙れ、貴様のような平民の情けなど要らん!!今日の所はこの程度で済ませてやるが、次はタダでは済まさんぞ!貴様もいつまで座っている!さっさと立って歩かんか!」


 どう考えても手心を加えているのはアラタの方だったが、負けを認めたくないマンフレートは痛みに呻く与力を罵倒して足早にこの場から去って行った。それを取り巻きは慌てて追いかける。一応肩を折られた与力に手を貸すぐらいはしている辺り、一応仲間思いの面子らしい。

 一人廊下に残されたアラタに後悔の念など無い。



 些事に時間を取られたものの、執務室に戻ったアラタは精力的に仕事をこなす。これから暫くドナウ中から祝い客が王都に来るだろうし、ユゴスやレゴスからも使者が祝いの品を携えて来るだろう。特にレゴスは王女が嫁いでいるので、最低でも大貴族が来ないと礼を失する。となればそれに伴い大勢の使用人や護衛が付いて来るので、そうした周囲の人間から情報を拾えるように準備をしておくのも諜報部の仕事だ。

 そんな下準備やホランドへの対応に追われて、気付けば日も幾らか傾いており、部員達は未だにオレーシャのお産が始まっていないのが心配なのか、時々廊下で使用人を捕まえては話を聞いているが、色よい返事は帰ってこない。アラタもそれが心配だったが、自分が何か出来る訳でもないので、落ち着かない部員を宥めていた。

 それから暫して空が茜色に染まり始めた頃、今日の業務が終わっているのにも関わらず、部員達は一向に帰る気が無い。このままお産の様子を伺う気なのだろう。

 そして城内が慌ただしく動き始めると、部員の一人が外に飛び出していく。暫くして戻って来ると、息を切らせながらオレーシャのお産が始まったと告げる。それを聞いた部員は歓声を挙げるが、一部からまだ早いと突っ込まれていた。

 アラタもようやく始まったかと、少し気が抜けたが、当人達からすれば今からが本番なのだ。



 一区切りついた部員達はそれぞれ、明日が楽しみだの、男女どっちだろうかと話しながら帰宅して行った。それを見届けたアラタも一旦屋敷に戻り、マリア達にお産が始まった事を告げると、すぐに支度をするので待っていてほしいと、マリアは自室に引っ込む。

 アンナもオレーシャが気になるが、今回は自分は城に行けないと申し訳なさそうに断った。現在城には多くの貴族が詰めており、そんな中に側室の自分が大きな顔をして居るべきでは無いと、屋敷で留守番を申し出たので、オイゲンや三人娘と共に残ってもらった。

 城では昼間と比較にならない程に慌ただしく、お湯や清潔な布の用意を持った使用人が走り回っており、アラタ達はそんな使用人を掻き分けてカリウス達が固唾を飲んで見守っている部屋に通されると、最初に飛び込んできた光景はエーリッヒの貧乏ゆすりだった。


「あの、エーリッヒ兄様、もう少し落ち着いては如何ですか。その…いくら兄様が慌てた所でお産が進むわけではないんですよ」


「あ、ああ。他の者からも同じ事を言われたんだけど、どうしても落ち着かないんだ。子供の事もだけど、オレーシャにもしもの事があったらと思うと、怖くて足が震えてしまう」


 若干青ざめた顔で心境を語るエーリッヒを笑う者はこの部屋には居ない。父のカリウスも弟のカールも、そしてアラタとマリアも差はあってもオレーシャと産まれる子の身を案じていた。

 医療技術の低い西方では出産は命がけの大仕事、出産時に妊婦が命を落とす事もさほど珍しくない。特にオレーシャは平均的な体格より幾らか小さい事もあり、難産が予想されていた。エーリッヒにとってオレーシャは色々と不満のある妻だったが、それでも精一杯愛している。まかり間違っても死んでほしいなどとは考えていない。だからこそ不安で仕方が無かった。

 一応治療の神術使いのヘルマン=デーニッツが待機しており、最悪帝王切開により胎児を取り出しつつオレーシャの傷を塞ぐ事も出来るが、それは成功率が低く本当に最後の手段だ。神術で傷は塞げても感染症に掛かってしまえば、自然界で採集出来る抗生物質しか無い西方ではまず助からない。一応アラタからの知識で産婆の手をアルコール消毒したり、分娩などに使用する刃物は熱湯消毒する手法が定着しつつあるものの、出産そのものの危険性は大きく変わらない。


(こういう時、医療技術がもっと洗練されていればと思うが、基礎科学力や工業力が低すぎて道具が揃えられん)


(そうですね。地球文明ほど高度な技術は求めませんが、せめて西暦20世紀程度の技術力が無ければ出産への危険性は据え置きでしょう)


 アラタが自らの故郷の医療技術と比較し、西方の技術の低さに自然と溜息が出る。例え自分が持つすべての知識を伝えた所で、基礎的な科学技術の低さから1%も有効活用出来ない環境に珍しく苛立ちを覚える。アラタにとってもマリアやアンナが今後も子を産み続ければ、いつか命を落とすかも知れないと思うと、無力な自分が腹立たしかった。



 城に来てから既に五時間。完全に深夜に突入しているが、未だ産声は聞こえてこない。エーリッヒは相変わらずしきりに体を震わせたり、部屋の中をウロウロして落ち着きが無い。カールとマリアは待ち疲れて半分寝ており、マリアはアラタの膝を借りて横になっている。カリウスは表向き落ち着いているように見えるが、明らかに緊張しており、やたらと茶を飲んで喉を潤しつつ、頻繁に用足しに席を立っていた。

 アラタはマリアの時に比べてお産の時間が長い事を懸念して、V-3Eのライブラリから色々と出産記録を漁って、今回の出産が特に長い物では無いと知り、比較的落ち着いていた。



 さらに一時間が過ぎた頃、カールとマリアは完全に夢の世界に旅立ち、エーリッヒとカリウスも疲れが見え始めて仮眠を取ろうかと思い始めた時、扉を乱暴に開け放ち部屋に息を切らせながら使用人が飛び込んできた。起きていた三人は固唾を飲んで息を整えた使用人が口を開くのを見守る。


「申し上げます!奥方様のお子が御生まれになりました!元気――――」


 エーリッヒは使用人の言葉を全て聞く前に部屋を飛び出して行った。カリウスもそれに続き、アラタはマリアとカールを起してから、後でゆっくり向かうつもりだ。

 お産の部屋に向かうにつれ、段々と生まれたばかりの赤子の泣き声が耳に届いて来る。それは弱々しくもあり、同時に生命の力強さを大人達に伝えてくれた。一緒に歩いていたマリアもカールもその声を聞き、新しい甥か姪が無事に生まれてくれた事を喜ぶ。

 そしてようやく部屋に辿り着いた三人は、エーリッヒに抱かれ、その腕の中で泣き喚く小さな命を目にする。その光景を見たマリアは自然と喜びの涙を浮かべてアラタの腕に縋りつき、産婆のノーラから生まれた子は男の子だと聞かされ、カールも二人目の甥が出来たのをとてもに喜んでいた。

 オレーシャも大分憔悴していたものの、会話も不自由せずカリウスに元気な男の子を産んだ事を褒められていた。アラタ達もそれに続き、母子揃って無事だった事を祝福した。

 一通り祝われたオレーシャは子供に名前を付けて欲しいと申し出ると、待ってましたと言わんばかりにカリウスがエーリッヒから赤子を取り上げてしまう。それをエーリッヒは不満そうにしていたが、命名する時のしきたりである以上は我慢するしかない。

 そして高らかに赤子を天に掲げ、高揚感を滲ませながらも厳かな声で、未来のドナウを担う男の子の名を告げる。


「この子の名はトリハロン。トリハロン=ガーブ=ブランシュだ!始祖フィルモよ、どうかこれからのドナウを背負って生きる我が孫に祝福を与えたまえ!」


 この日、長いドナウの歴史でも極めて重要な時期を担う男の子が生まれた。しかしその男の子を含めた西方全ての人間は、彼の未来を知る事は無い。今はまだ母の腕の中で泣き喚く赤子もいずれ成長し、王位を父から譲られるだろうが、それはまたの機会に語る事となる。


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