第105話 帰るべき家



 ドナウ王都フィルモアを見下ろす小高い丘に、竜車と荷車を率いた十数名の小集団が佇んでいる。彼等はみな旅の所為か薄汚れ、竜車も所々草臥れており、長い期間流離っていたのが窺えた。


「みんな、もう少しで王都に着く。あと一息だから頑張れ」


 一団を励ましたのはアラタだった。彼も長旅で些か疲れは感じていたが、ようやく帰ってこれたという安堵感から、いつもより気分が高揚していた。他の面々の多くは彼と同様に、自らの故郷を再び見る事が出来たので喜びを噛みしめていた。

 ただ、一団の中には喜びでは無く、興奮を覚える者も居る。生まれて初めて一国の王都を目にした少年、セシルとその従者であるローザだった。二人は人生の大半を辺境の農村で過ごしており、攻め滅ぼされたプラニアの王都も見た事が無いので、ドナウの王都のあまりの大きさに我を忘れて魅入っていた。その姿はかつてエリィが王都を初めて目にして呆気に取られていたのとよく似ていた。



 多くの者が誰に急かされるわけでもないのに足早に王都を目指したので、幾らか予定より早く到着した。城門の守備兵らが薄汚れた一団を不審な目で見ていたが、アラタの顔を覚えていた兵士がそれに気づき、呆気に取られていた。

 アラタは表通りの通行の邪魔にならない場所で解散を言い渡す。


「この三ヶ月、本当にご苦労だった。何度も命の危険に晒されながらも、一人も死ぬ事なくこの街に帰ってこれた事は本当に喜ばしい。

 学務官僚以外の医者の方々は後日、俺の屋敷に報酬を受け取りに来てほしい。ガートも護衛と道案内に感謝する。リトにもよろしく言っておいてくれ。エリィはジャック殿とローザを屋敷に案内しておいてくれ。俺はこれからセシルを陛下に引き合わせる。

 みんな、三ヶ月付き合ってくれてありがとう」


 アラタは全員に頭を下げて礼を述べる。医者達は揃って苦笑しながら、アラタにそんなに畏まらないで欲しいと諭す。彼等にとって酷い三ヶ月ではあったが、酷いなりにアラタがどうにか犠牲者を出さない様に動いていた事を知っていたので、悪い感情は抱かなかった。



 一行はアラタの言葉通り解散となり、それぞれの帰るべき場所へと戻って行き、アラタと残っていた学務官僚、そしてセシルは城へと向かった。

 城の門番に竜車と荷車を渡し、官僚達は学務長官のルドルフに帰還報告をするために二人と別れた。セシルは初めて見る王城に興味津々で、礼儀がなってないと思われていても、あれこれと城の造りや調度品に興味を惹かれ、キョロキョロと落ち着きの無い様子で観察していた。

 二人を出迎えた使用人の中にはカリウスに謁見する前に身体を洗ってはどうかと勧めたが、早めに挨拶をしておきたいとアラタがやんわりとそれを断り、髭面かつ垢と埃まみれの姿のまま謁見の間に通される。

 使用人からアラタの帰還を知っていたカリウスは、アラタの顔を見るなり豪快に笑い飛ばす。


「久しぶりだな我が義息。しばらく見ない内に立派な髭を生やしたようだが、伸ばし放題では見栄えが悪いぞ」


 髭を生やすなら余の様に整えておけ、と自らの形の良い顎髭をさすりながら笑っている。カリウスからすれば必要ではあっても三ヶ月も危険な土地をほっつき歩いていた息子が帰って来たのだ。嬉しくないはずが無かった。


「心配をおかけしたようで申し訳ありません陛下。一同、一人も欠ける事無く帰還致しました。それから、隣の少年はプラニア貴族、シャルル=フィリップの最後の息子、セシルです。故あってドナウに連れてきました」


 生まれて初めて他国の王族と対面したセシルは緊張していたものの、アラタに促されると淀みなく言葉を紡ぐ。


「お初にお目に掛かりますカリウス陛下。私はプラニア貴族、シャルル=フィリップの三男、セシル=フィリップでございます。陛下のお名前は遠く故郷にも伝わっており、お会いできて光栄に思います」


 些か緊張しながらも生まれて初めての王との謁見を言葉に詰まる事なく失敗せず終えたのは十分に評価できる事柄だ。


「ほう、そなたがあのフィリップ家の者とな。そなたの父の事は幾らか聞き及んでいるぞ。まだ幼いようだが、なかなか利発な息子を持ったようだな。ドナウには何をしに来た?」


「は、はい!ホランドに勝ったドナウの強さを学びに参りました。その強さを知り、欠片でも良いので我が故郷に持ち帰る事が私の使命だと考えております!」


 セシルの偽りの無い本心を聞いたカリウスは『やる気があるのは良い事だが、手綱だけは離さないように気を付けよう』と一定の評価をしつつも、一切隠しもしない熱意を危ういとも感じていた。自分の末の息子と同じぐらいの歳なのだから、腹芸が出来ないのは仕方の無いことかもしれないが、今後の付き合いも考えれば、いずれは身に付けてもらわねば困るとも思い、丁度良いからカールと一緒に学ばせてみるかと算段を付ける。


「ははは、若いとは良い物だな。ではそなたの希望通り、その有り余る熱意を存分に満たすが良い。丁度余の末の息子がそなたと同じぐらいの年頃ゆえ、学友として一緒に学べる機会を用意しよう」


 辺境に押し込められた亡国貴族の息子相手には過分な扱いだが、ドナウの次代の統治に必要な人材だと思えば必要経費に近かった。ホランド亡き後のプラニア領統治には確実にセシルが関わってくるのだ。少しでも親ドナウ感情を育てておくのは無駄にならない。

 その後セシルはアラタの預かりとなり、基本的な教育は一任される事になった。流石にアラタにも仕事があるので別の人間がセシルを教育するが、様々な人間と関わる事から人脈の構築には事欠かないだろう。

 それからカリウスが三日で報告書を作っておけとアラタに命じ、その間は城に来る必要は無いと言い渡された。報告書の作成だけなら一日あれば事足りるので、残りは休暇のつもりで与えたのだろう。ありがたく受け取り、謁見は終わった。



 無事に謁見を終えた二人は城を後にし、アラタにとって待ちわびた我が家へと足を運ぶ。その途中、表通りの様々な店舗や露店を物珍しそうに眺めていた。


「興味が湧くのは仕方ないが、明日にでも案内するから屋敷に帰るのが先だぞ」


 アラタに軽く窘められたセシルは恥ずかしそうに後を付いて歩き出す。セシルの育った辺境では店どころか貨幣制度すら満足に浸透しておらず、専ら領民同士の物々交換で成り立っているので、商店などと無縁だったのだ。一応稀に行商人がやって来るので貨幣の存在は知っていても、実際に使用したことは一度も無かった。それ故に、商人と客が貨幣と物品を交換する行為すら珍しい物に見えていた。ある意味では王城に住む王族と大差の無い生活と言える。

 段々と見えてくる屋敷にアラタは懐かしさを感じ、セシルはその白さと美しさに見惚れていたが、今度は足を止める事は無かった。

 屋敷に入ると、既にエリィからアラタが帰って来る事を知らされていた屋敷では多くの使用人が玄関で出迎え、その最奥には愛すべき二人の妻が涙を浮かべて待っていた。


「ただいま、二人とも。この三ヶ月、寂しい思いをさせてしまったね」


 客人の居る手前、礼を失する訳にはいかないのは分かっているが、二人とも夫の姿と声を聴き、安堵感から堰を切ったように涙が溢れてしまう。そんな二人をアラタは愛おしそうに見つめていたが、永遠にこのままでは困るのでどうにか宥めると、マリアの方が先に落ち着きを取り戻す。


「お見苦しい所を見せてしまいました。ですが、あなたも間違えていますよ。寂しい思いをさせたのは私とアンナと、お腹にいるこの子もです」


 手を腹部に当て、自らの中に宿した新たな命を愛おしく思うその姿は、まさしく母親と言うべき慈愛に満ちたものだった。アラタは自身の伴侶と、その中で成長を続ける我が子を抱きしめたい欲動を感じていたが、人の目がある事と垢塗れの不潔な身体で触れたくないので自制する。

 アラタは子供を数に入れていなかった事を謝罪し、正式にセシルを留学生として屋敷で預かる事を伝えると、マリアは涙を拭き終えたアンナと共に、幼い客人に挨拶をする。


「エリィから連絡はありましたので、お部屋の用意は済ませています。湯浴みの準備も整っていますので、どうぞ旅の汚れをお清め下さい」


 アンナがアラタの心情に気づいて気を利かせると、客人となるセシルにまず風呂を勧める。セシルは家主であるアラタに気を遣ってそれを断ろうとしたが、アラタから屋敷には浴室が三つあるので気にするなと伝えると、どうして屋敷の中に三つも風呂があるのか理解に苦しんでいたが、王族の住居とはそう言うものなのかと無理矢理にでも納得しておいた。




「――――お髭が随分伸びていますね。何時と違うアラタ様も素敵なのに、何だかこのまま剃ってしまうのが惜しいです」


 現在アラタは三つある浴室の一つでアンナに手伝ってもらい、長旅の汚れを落としていた。客人用の浴室では現在セシルが使用人に付き添われて身体を清めている。勿論二人とも全裸だった。

 数ヶ月碌に風呂に入っていなかった身体は垢塗れになっており、石鹸を何度も使用して汚れや垢が出なくなるまで洗い続け、それが終わると今度は髪を切り、最後に髭を剃るつもりだった。


「二十過ぎの若造に髭は要らんよ。そういうのは威厳の必要になる四十過ぎぐらいで丁度良い。ただ、久しぶりに入る風呂というのは良い物だ。荒んだ心に潤いをもたらしてくれる」


 心からホッとしたという感情を見せる疲れた夫を、アンナは労わってあげたいと後ろから抱きしめる。お互い裸なので、アンナの豊かな肉がアラタの鍛え上げられた背中に当たり、良質な感触によって精神的高揚感が込み上げてくる。今すぐにこの肉を押し倒して味わいたいという衝動に駆られそうになるが、もう一人の妻に申し訳ないという罪悪感によって辛うじて止まる事が出来た。

 アンナの事を肉として捉えている攻撃的精神を分析するに、どうやら自分は随分とストレスを溜めているようだ。やはり殺人という非日常的行為は精神を圧迫しているらしい。こういう時こそ戦闘用感情抑制剤が必要なのだが、残念ながらその恩恵に与る事は出来そうもない。


「この三ヶ月、色々とあってね。これから弱音を吐くけど聞いてくれる?」


 出会ってから既に二年が経過していたが、一度も自分には弱みを見せた事の無い夫が初めて弱音を吐いたのを内心驚きつつも、少しでも自分が彼の助けになれると思えば、断る理由などありはしない。

 まだ髭剃りが残っていたが身体を冷やしては困るので、二人は浴槽に張られた湯につかりながらアラタは話し始める。


「サピンの王都でホランド軍の兵士をざっと三十人ぐらい殺したんだ。故郷で軍人として人類とは異なる生命体と戦い続けていたから、命のやり取りには慣れていたけど、生まれて初めて人を殺したよ。一年前に三万人も殺しておいて身勝手だけど、結構気分が悪くなった。

 あまつさえその殺人をエリィに手伝わせたのが俺自身だという事実が不快に思えてきた。本来はその為に引き取ったようなものだけど、いざ実行に移すとこれほど不愉快だとは思わなかったよ。

 後悔するぐらいなら最初からしなければ良かったものを、今更悔やんで勝手に弱音を吐いている。本当に身勝手な男で自分が嫌になるよ。

 ―――すまない、こんな事君にしか話せなかったんだ」


 一気に心の奥底に溜め込んでいた物を吐き出して、僅かばかり落ち着いたアラタだったが、だからこそ自分の汚い部分をこの世で一番大切に思っている人に見せてしまった事を認識し、自身に嫌悪感を感じてしまった。

 嫌われてしまったかと、少しばかり後悔の念を抱いたが、アラタの危惧に反してアンナはクスッと笑いを零す。笑われるような話では無かったのだが、どうしてかアンナは上機嫌だった。


「笑ってしまって御免なさい、貴方の話が可笑しいわけじゃないんです。むしろ貴方に頼られて嬉しく思います。

 アラタ様ったら私やマリア様に全然弱い所を見せてくれないんですもの。もっと私達を頼ってくださって良いんですよ?」


 妻の言葉がアラタの心に沁み込み、風呂の湯とは異なる温かみで満たされる。

 アンナからすれば、時折仕事上の愚痴やボヤきを聞く事はあったが、今回のような弱音や泣き言は初めての事であり、普段はアラタの方が弱音や不満を聞く側だった事もあり、愛する人が自身を頼ってくれたのが嬉しかった。そしてそれが、正妻のマリアでなく側室でしかない自分だという独占欲と大きな優越感をもたらしている。


「うふ、マリア様には内緒にしておきましょう。でないと私が嫉妬されてしまいます」


 自分が一番嫉妬深い事を棚に上げて、マリアの嫉妬を警戒するが、二人は正室と側室であっても仲が良い。ただ、女の本能として番の寵愛を一番に受けたいという欲求も相応に持ち合わせている。

 互いを憎み合い暴力や陰湿な妨害に走らない良識を有している事は、家長であるアラタにとって本当に幸運に思えた。


「俺にとってアンナは特別だからね。勿論マリアも愛しているけど、君は俺が生まれて初めて愛した人だから」


「もうっ!私をおだてても何にもありませんよ。でも、貴方にそう言ってもらえるなんて、嬉しくて死んでしまいそうです」


 アラタに愛を囁かれ、アンナは口元どころか顔全体をにやけさせながら身体を悶えさせていた。普段ならばここで情事を始めるのだが、今回は髭剃りが残っていた為にお預けとなった。そしてマリアを残して抜け駆けなどしようものなら、幾ら二人が仲が良くても宣戦布告と見なされかねないのでアンナはどうにか我慢した。



 数か月ぶりに髭を剃ってスッキリした気分になったアラタは、やはり数か月ぶりの我が家の料理を満足するまで食べ、愛らしい妻二人を抱きつつ寝心地の良いベッドでたっぷりと英気を養うことが出来た。

 そしてプラニアからの客人だったセシル達はというと、ドナウの中でもさらに異質なレオーネ家の状況を知り、大層困惑しつつもどうにか生活に慣れようと苦心するのだった。



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