第104話 騎士団長の仕事風景



 ドナウ王都フィルモアの表通りのとある屋敷の庭では、夜明け前から動き出す人影が二つある。手に持つ訓練用の木剣を打ち鳴らし、激しい動きで身体に纏わり付く汗を飛び散らせているが、当人はそのような事を気にしていない。

 夏とはいえ高緯度のドナウの早朝は肌寒く、外は羽織り物が必要な気温だったが、汗の拭き出るほどに激しい鍛錬を繰り返す二人には無用の物でしかなかった。

 二人の屈強な男の顔立ちはよく似ており、血縁関係にある事が容易に分かる。その二人はひたすらに剣を操り、鋭い体捌きで相手の剣を避けつつ自らの手に持つ木剣で相手を打ち据えようとするが、鏡写しの様に同じ挙動で剣を避けていた。



 そうした鍛錬を息を吐く暇すら挟まずひたすらに続けたが、太陽が昇り始めて街を照らし始める頃に、二人の内の若い方が手を止める。


「はあはあ――――そろそろ朝食の時間ですから今日はこれぐらいにしておきましょう父上」


「ふむ、あまり朝の鍛錬に時間を掛け過ぎると政務にも支障が出るか。分かったウォラフよ、今日はこれぐらいにしておこう」


 若干の物足りなさを感じているが、息子の言葉も尤もだと考えてもう一人の剣士も手を止める。それを見て息も絶え絶えなウォラフはその場にへたり込みたかったが、父親の目があるので止めておいた。もしそんな醜態を晒せば、翌日からさらなる鍛錬を課せられるのを十年以上前から知っているからだ。

 ドナウ王国近衛騎士団長ゲルト=ベルツの一日は息子との鍛錬から始まる。



 鍛錬を終えて身支度を整えた二人は、既に食堂で待っていたお互いの伴侶に挨拶をして山盛りの朝食の置かれたテーブルに就く。パンやチーズといった庶民にも馴染みの深い食品から、収穫されたばかりの数多くの野菜を用いたサラダ、卵料理や朝には重いと思われる肉類も並んでいた。

 そろそろ三歳を迎えるトーマスは母親のエヴァに抱きかかえられて寝むそうにしており、そんな息子の頭を父親であるウォラフが優しく撫でつつ、笑顔を向けていた。

 ただしいつまでも息子に構っている時間も惜しかったので二人はすぐに食事を始める。夜明け前から激しい鍛錬に勤しんでいた二人は次々とテーブルの料理を口の中に運び咀嚼していく。貴族らしくハイスピードであっても作法を損なわないのは長年の躾けの賜物だろう。

 あっという間に料理を平らげた二人は従士を引き連れ、竜に跨り城に続く表通りを悠然と歩くと、多くの平民は貴族の中でも花形である近衛騎士に道を譲っていた。中でも少年は騎士の堂々たる姿に羨望を抱き、まるでいつか自分も騎士になるのだと目を輝かせていた。



 職場である訓練場に二人が足を踏み入れると、既に多くの騎士や従士が訓練に励んでおり、実戦さながらの激しい打ち合いを繰り広げている。

 そんな騎士達を尻目に二人は執務室へと入り、早速書類の処理に取り掛かる。近衛騎士と言えども管理職に違いは無く、毎日大量の書類を決裁せねばならなかった。ドナウ最強の近衛騎士団長の仕事とは思えない地味な作業だったが、組織の長の仕事とは大部分がそうした地味な作業の積み重ねでしかない。

 今ゲルトが裁いている書類は騎士達の出勤簿で、各人の非番の割り振りや、夜勤の割り当ての裁可を求めるものだった。殆どの書類は前もって息子のウォラフが目を通しており、不備のある書類は突っ返しているが、稀に不備のある書類も有るので、ただ判を押すような事は無い。時折、備品購入の書類に不必要な物品が混ざっていたり、明らかに相場より割高の品の請求書が入っている事が有るので気を抜く訳にはいかないのだ。

 幾ら王家を護る近衛騎士団であっても予算は有限であり、出来れば節約したいと感じるのは貴族も平民も変わらない。流石に見栄えの悪い装備品や命の危機に関わる武具をケチる事はしないが、だからこそ団の運営に関係の無い部分は切り詰めたかった。



 そうしてひたすらに地味な書類仕事を片付けていると既に昼近くになっていたので、キリの良い所で手を止めて昼食を摂ることにした。

 ウォラフはエーリッヒと昼食を摂る為に、ゲルトは閣僚の一人と会食の為にそれぞれ執務室を出て行く。

 とある部屋を訪れたゲルトは先に部屋で待っていた男に、『待たせたな』と軽い謝罪をするが、待っていた男は気にするなと、軽い口調で謝罪を断る。彼はドナウ王政府の閣僚の一人である建務長官のヨアヒム=ガイスト。そしてゲルトの二十年来の友人でもある。


「今日は時間も押しているからさっさと食べよう」


 ヨアヒムにせっつかれたゲルトは席に就き、二人は杯を交わす。


「まったく、ザルツブルグ家の連中は面倒で敵わんよ。ことあるごとに私に協力しろと話を持ち掛けて来る。レオーネの奴がサピンに向かってから連中、手あたり次第に派閥に引き込もうとしている」


 果実酒を飲み干したヨアヒムが早速ゲルトにぼやく。余程勧誘をしてくる者を面倒に思っているのか、その口調は刺々しい。


「君の所もか、私の所にも頻繁に話をしに来ているよ。あの者達は自分達が陛下に睨まれている事を知らないから派手に動き回っているのだろう。

 聞いた話ではザルツブルグの当主は散々にレオーネを馬鹿にしてマリア殿下の伴侶に相応しくないと吹聴しているとか。正直関わり合いになりたくないな」


 ゲルトは自身の集めた情報をヨアヒムと共有し、より正確な情報を得ようと苦心している。貴族にとって失態を犯しそうな者とは早めに距離をとって巻き添えを避けるのは本能に近いレベルで備わった処世術だ。情報交換もその一環である。

 二人に限らず、ドナウ国内でアラタを軽く見る者はごく少数だ。王が彼を重要視している以上、アラタを馬鹿にするとはすなわち王の見識を馬鹿にするのと同義だという事を理解していないらしい。そんな集団と懇意にするなど、まともな人間からすれば自殺行為に等しい。それを考えればザルツブルグと仲良くする事など有り得ないのだが、知らぬは本人ばかりと言える。


「だが、彼等の主張も一理有るのも事実だ。レオーネは身元不詳の余所者、そんな男が上からあれこれと命令するのは面白くなかろう。それに彼は何を考えているのか分からない所が多いから、我々だって色々と不安になる事もある。特にホランドへのえげつないやり口を見ていると、その手腕がいつかこちらに向けられるのかと危惧してしまう」


 ここだけの話にしてくれよと、ヨアヒムはゲルトに釘を刺しながらアラタへの不満を口にする。ヨアヒムの警戒心は組織人として、貴族としてはごくごく普通の感情だ。どれだけ同じ国の人間であっても、貴族でもある以上、蹴落とされないと楽観視するのは危険であり、間抜けに過ぎない。それが何の関係も無い他国の人間なら尚更である。

 多くのドナウ貴族は精神構造のかけ離れたアラタの行動を読めず、予防策も立てようがない。単に教官や教師として技術や学問の教えを乞うだけならそれほど警戒も必要無いが、家同士の繋がりや派閥に引き込むのは遠慮したいと考えるのは仕方の無い事だろう。


「彼がどこまでも余所者でしかないというのは同意するが、利用価値がある以上は遠ざけるわけにはいくまい。後は陛下と同様、婚姻を行いしがらみを増やして不可解な動きを抑制するのが良さそうだが、あれは枯れた男だ。今更側室を増やすなど受け入れる気は無いだろうな」


「仮に受け入れた所で子を成す気があるかすら我々には読めん。まったく、私があれぐらいの年頃には女などとっかえひっかえしていたというのに」


 ヨアヒムが呆れとも、厄介な相手だともつかない嘆息を吐きながら、どうにかして対策を立てておきたいと食事をつまみつつ考えを巡らせていると、ゲルトが一つ案があると切り出す。


「レオーネは側室のベッカー家とそれなりに良好な関係を築いているから、そちらから切り崩していくのが近道かも知れない。丁度ヴィルヘルムと言う側室の兄が未婚だから、こちらと婚姻を結んで引き込んでしまえば良い。確か君の娘がそろそろ良い歳だろう?この際、嫁がせてはどうだ」


「ふむ、確かに娘は15だからな。そろそろどこかの家に嫁がせておきたいと思っていたが、ベッカー家なら問題無いか。諜報部に送った部下からの報告でも、そのヴィルヘルムもそこそこ有能だと聞いている。私としては異論は無い」


 本人達の知らない所で勝手に結婚の話が進められているが、西方ではこうした縁談は特別珍しい物ではない。平民などの低い地位の階級ならば当人同士の恋愛で結婚するが、出世や家同士のつながりを重視する貴族に結婚の自由などと言うのは存在しない。親や当主が嫁げと命じれば、それに一言も異を唱える事無く承諾するのが女性の義務だ。

 ただ、政略結婚の駒扱いには違いないが、それでも自身の娘である以上、人並みの幸せを願うのは親として当然の欲であり、無能に嫁がせずに済みそうな事は喜ぶべきだった。

 外務と建務では部署が違うが、一官僚が長官の勧める縁談を断れるほどの度量と理由は用意出来ない。表向きはベッカー家に不利益など無いのだ。父親であるゲオルグもこの縁談は断り辛いだろう。


「だが、それでは発案した私に何の利も無いので、私の弟の娘―――つまり姪を君の息子に嫁がせたい。そうすれば幾らか離れているが、私の一族もレオーネと関わり合いになるし、君とも親族として繋がりが持てる」


「相変わらず君は抜け目が無い。その姪をそのままベッカー家に嫁がせれば良いのに、わざわざ私に譲って貸しを作る。そうして独り占めを避けて敵を作らない」


 二人は互いの顔を見ながらニヤリと笑う。彼等は互いを友人と思っているが、利益を伴わない行為に走ってまでその友情を優先する事は無い。それが家を護る事であり、互いを同格の相手と認める事だと考えている。

 そうして知らぬ間に生涯連れ添う相手が勝手に決まってしまい、釈然としない気分になるヴィルヘルムだったが、当人同士は非常に相性も良く、幸せな家庭を築く事になるのはもうしばらく先の話となる。



 身内の縁談が決まった二人は酔いが回らない程度に祝杯を挙げ、自らの職場へと戻って行った。騎士団の執務室へ戻ったゲルトは先に戻って来たウォラフと共に残っていた書類を片付け、それが終われば残った時間は騎士達の教練に充てる。

 夕刻まで教練を行い、夜勤組との引き継ぎを見届ければ通常業務は終わりだが、大抵の日は他の閣僚や軍士官等との祝宴や勉強会に顔を出さねばならず、自由な時間とは無縁であり、屋敷でゆっくりする時間は無い。

 今日も軍との祝宴と言う名の意見交換会に招かれており、すぐに会場となる屋敷へと向かわねばならなかった。



 公的な立場のある貴族は、誰しも多忙であり、自由とは無縁だった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る