第94話 人型の天災



 ユリウス王子率いるホランド軍がサピン王都エルドラに到着した翌日の夜明けには攻城戦が開始されている。何十台もの投石器が城壁に向けて並べられ、何本もの破城槌を抱えた兵の一団が待機している。

 対してサピン側も同様に城壁の上部に投石器を備えている。だがサピンはホランドと違い、石では無く樽を大量に用意していた。樽の中身はドナウから大金を積んで買い集めたナパームだ。

 ライネ川でホランドと相対したドナウが砦内部から用いた様に、ナパームは大軍相手に効果があるのは分かっているので、サピンも効果的な使い方と判断し、模範していた。しかしドナウと違い、既にナパームは正体が割れている。ホランド自身が二度も大きな犠牲を払って経験を積んだ以上、ホランド側もある程度対処法は確立していた。


「よーし、配置についたな!良いか貴様ら!今回は攻城戦だ、気長に構えておけ!言われた通りに動けよ!」


「「「おおっ!!」」」


 攻城部隊が隊長の命令に従い、一斉に動き出した。まずは弓部隊が火矢を一斉に射ると、千の火がエルドラの城壁へと殺到する。

 狙いは城壁の上に積まれた樽、中身のナパームは極めて可燃性と揮発性の高い油だ。二度の戦いの経験から、燃やされる前に後生大事に腹に抱えたまま燃えてもらう――――それがホランドの回答だった。

 しかし、その思惑は成功したとは言い難い。火矢の多くは城壁の上まで届いておらず、その手前で墜ちるか城壁の中ほどで弾かれていた。単純に弓の飛距離が足りないのだ。

 エルドラの城壁はそれほど高い訳では無い。元々が交易拠点として発達した海辺の都市であり、あまり防御に重きを置いていない造りだったが、それでもホランド弓兵の矢は届いていない。

 これはサピン側の投石器の射程に入らない距離からの斉射だったので、一部の強弓を除き届かなかった。投石器と矢の飛距離はそれほど違いが無い以上、後は重力を味方に付けた高所からの撃ち下ろしが利く防御側に優位なのは自明の理だ。

 届いた一部の火矢もホランドにとっては運悪く、一つも樽に当たっていない。今度はそのお返しとばかりに、サピン側から投石器によるナパーム攻撃が次々にホランドの投石器とその運用部隊に届いた。次の瞬間、火矢の火種に引火し、轟音と熱風が吹き荒れる焦熱の炎によって、薄暗がりの空と大地を太陽に代わり明るく照らす。


「「「※※※※※※※※※※※※!!!!!」」」


 声にならない絶叫が何人ものホランド兵を焼き払い、運良くその炎から逃れた別の兵が必死で仲間を焼く火を消そうとするが、その炎の激しさから迂闊に近づく事すら出来ない。何よりナパームの炎は生半可な水では消えない以上、消火方法は限られている。炭酸カリウムや二酸化炭素消火器のような文明の利器が無い西方では、油による火災の消火は困難を極める。

 現状ではナパームに被弾した場合、土を被せて窒息させる程度の手段しか火が着いた者を助ける術は無いのだ。そうなると助かる者は当然少なくなる。手足程度ならばまだ救いはあるが、全身を焼かれた者は殆どが助からないと見て良い。

 共に語り合い、時には争い、訓練に励んだ同僚が生きたまま焼かれる様を見るのは、何度経験したところで慣れる事は無い。兵士の一人が必死で火を消そうとしているが、炎に焼かれる痛みにより転げ回っている為、満足な消火作業すら出来ないのが実情だ。


「全身を焼かれた者は放って置け!!今は部隊を下げる事が優先だ!奴らの射程はこちらより長い、投石器ももっと下がらせろ!!」


 部隊長が無事な兵士に命令を下し、部隊をナパームの炎から遠ざけた。幸い焼かれた者は少数で、多くが火矢の弓兵だった。最初の一撃で敵のおよその射程が掴めたのは収穫と言える。焼け死んだ兵士は気の毒だが、戦である以上犠牲は付き物。それはどの国の兵でも同じ事。

 二十年勝ち続けたホランドも、ここ最近はドナウに惨敗し、先のホランドへ侵攻したサピン軍を殲滅したものの、多大な犠牲を払ったのは無視出来るものではない。それ故に今回のホランド軍でサピンを侮る者は誰も居ない。特に総司令官であるユリウスは一切の慢心を捨て、何が何でもサピンを滅ぼす腹積もりなのだ。

 取り敢えず最低限の仕事を果たした部隊長は、怪我人を宿営地の救護所へと輸送するよう部下に命じた。あの不審なドナウ人の一団の医者としての力量も試しておきたかったので、一部の兵士はそこへと放り込んでおけと追加で命じておいた。

 まだまだ城攻めは始まったばかり。気長にやるかと、部隊長は部下の犠牲を割り切った。そうしないと心が折れてしまいそうで、やってられない。ホランド軍人とて人としての感性は持ち合わせていた。



       □□□□□□□□□



 ホランド軍兵士オスカルの心には絶え間無い悲しみと怒りが渦巻いていた。彼は夜明けの攻撃隊に参加した兵士の一人だったが、碌な攻撃も出来ずに城壁を囲んでいるだけだった。それだけならば長期戦の城攻めにはよくある事だったので、大して気にも留めないのだが、彼は別の事で激情を持て余していた。

 同時期に軍に入り、以後ずっとつるんでいた親友のロベルトが、運悪くサピンのナパームによって命を落とした。正確には、全身を炎に焼かれて助からないと判断した為に、その場で楽にしてやった。

 二人ともまだ若く、今回の戦いが初陣だった。その最初の攻撃で、まだ十代の将来有望な戦士は死後の世界へ旅立ち、残された親友は、友を失った悲しみに暮れて宿営地を彷徨っていた。

 そこにふと、宿営地の中で見慣れない物を見つける。まだ十歳を少し超えた程度の茶髪の少女だった。その少女が、血で汚れた布の入ったカゴを抱えて大型の天幕から出て来た。

 オスカルは知らない間に話だけ聞いていた、ドナウ人の医者の救護所の前に来ていた。そこに行き場を持て余していた怒りが向けられる。


(あのドナウ人どもが売り払った油でロベルトが死んだんだ!あの糞共が余計な事をしやがって!!それを今度は、治しに来ただと!?馬鹿にするのも大概にしろ!!)


 オスカルの理不尽な思いも理解出来ない程ではない。ドナウがナパームを周辺国全てに売り飛ばさなければ、攻城戦ももう少し楽な物になっていただろうし、そもそもがドナウに大敗などしていない。そしてその負けがサピンを勢い付かせて今回の戦に繋がり、多くの騎竜兵も犠牲になった。その全てはドナウが原因なのだ。

 ではどうする?――――決まっている、親友が味わった死に匹敵する痛みを、ドナウ人に刻み込んでやる。



 そう結論付けたオスカルは手始めに、今しがた出て来た少女へと手を伸ばし、無言で投げ飛ばす。まったく予期していなかった方角から力を加えられた少女はひっくり返り、体を地面に打ち付けて悲鳴を上げる。少女にとっては幸いにも、身が軽かったのと草むらだったので、大して痛みは無い。

 だが、それで終わる訳では無かった。血走った眼のオスカルが剣を抜いて、少女に突き付ける。

 その様子を何人かのホランド兵が見ていたが、誰も止める気は無いようだ。彼等もドナウ人は良いように思っていない。むしろ良い見世物だと思い、見物する気だった。


「ひっ!!な、なん――――」


 いきなり投げ飛ばされ、剣を突き付けられた少女は訳が分からないという顔の後に、顔が強張り恐怖が滲み出ていた。それを見たオスカルが愉悦を覚える。


(そうだ、その顔だ。その恐れを抱く顔が見たかった)


 だが、まだ足りない。オスカルはこの幼い少女を組み敷いて凌辱するつもりだった。まだ、子供を産むような身体ではないのだろうが、そんな事はどうでもいい。ドナウ人に少しでも親友の痛みを教えてやりたかった。どうせサピンの他の場所でも似たような事はしていた。目の前の少女より幼い幼児を嬲り者にした事もある。それを考えれば、大した事は無かった。現に宿営地では、王都に向かう道中で攫って来た女子供を鎖に繋いで股を開かせている。その一人に加えるだけだ、何も難しい事は無い。


「恨むならお前に流れる血を恨めよドナウ人」


 そう言って、服を引き裂く為に剣を突き出そうとしたが、右手で掴んでいた剣がオスカルの視界から消えていた。いや、視界には入っているのだが、何故か少女の横に落ちていた。


「あ?なんで剣が落ちて――――どうして俺の腕が落ち――――」


 先ほどの少女と同様、訳が分からないと言った容貌のオスカルは、自分の腕が落ちているのでそれを拾わないといけないなと、ボンヤリと考えていたが、目の前に突如現れた黒髪の男に頭を掴まれて、後頭部をたまたま落ちていた拳大の石に叩き付けられ、グチャりと音を立て、街中の石畳に零れ落ちた果実のように大地に赤い染みを作る。

 ビクンビクンっと身体が跳ねたが、それっきりオスカルは動かなくなり、意識は遠のき、夜明けと同時に死後の世界へと旅立った親友と早くも再会するのだった。



       □□□□□□□□□



 仰向けに倒れ伏した腕の無い兵士の死体を恐れと安堵の感情がない交ぜになった目で見据えるのは、倒れ込んだ少女―――


「ア、アラ―――オウル先生?」


「済まんなエリィ、助けるのが少し遅れた。立てるか?」


 すぐ横に剣を握ったまま堕ちた腕から血が噴き出し掛かる前に、オウルはエリィの手を引いて起き上がらせる。次の瞬間、墜ちた腕とその本来の持ち主だった兵士の肘先から勢いよく血が噴き出し、草むらを緑から赤へと染め上げた。

 その様を見たエリィは、故郷の村で解体される羊や豚とよく似ている、あるいは首を斬った鶏みたいだと、どこか自分と関係の無い別世界の出来事のように、それらを捉えていた。彼女はオウルが、人を殺したのを認めたくなかったのかも知れない。それが自分を助ける為の行為だったと、無意識に否定したかったのだろう。



 だが、そんな少女の葛藤は今この場では何ら意味を成さない。ドナウ人を嬲る単なる見世物が、自分達の同胞の殺害現場へと早変わりしていたのだ。見物人は殺気立ち、エリィとオウルを囲い始めた。このままこの二人を生きて帰すなど、誇り高いホランド戦士の矜持に関わる。

 およそ二十人の見物人が剣や槍を構えつつ取り囲んでいるのを見たエリィが不安そうにしていたが、オウルが大丈夫だと言って優しく頬を撫でて落ち着かせる。

 オウルの落ち着いた様子が心底気に喰わなかった兵士達は今すぐにでも飛び掛かりたかったが、今しがたオスカルを殺した男を警戒して、不用意には近づかなかった。一体何時やって来て腕を切り落とし、頭を叩き付けたのかが視認出来なかったからだ。その正体不明の登場と、短剣一振りで腕を切り落とした技量は舐めて良いものではない。

 しかしこうして囲っているだけでは何の意味もない事から、一人の槍を持った男が二人に近づく。一般兵とは違いスケイルメイルを纏った男は士官だろう。ラメラアーマーを着ていない所を見ると、攻城部隊長か弓兵部隊長あたりか。もしかしたら、殺された兵士の上官なのかもしれない。


「貴様、どういうつもりだ?単なるドナウ人の医者風情が、我々ホランドに歯向かう気か!」


 怒りつつも可能な限り冷静に務めつつも、返答次第ではすぐさま手の中の槍で男を少女共々刺し貫く気でいる。

 対してオウルはどうでも良さげ、もしくはつまらない物を見るような目で士官を見据えていた。そしてつまらないと思う以上に、明確な嫌悪感と怒りをその瞳に宿していた。


「どういうつもりだと?逆に聞こう、自分の娘を助けるのに理由など要るのか?娘を犯そうとした塵など一秒たりとも生かす理由が無い」


 ざわりざわりと囲いを作る兵士に喧騒が生まれ、オウルへの怒りがさらに膨れ上がる。当然だ、同朋を塵扱いされたのだからその怒りは正当だ。そしてそれはオウルも同じ事。彼の娘を凌辱しようとした男など、生かしておく価値すらないのだ。

 この主張は永遠に交わる事が無い平行線。ホランド人からすればドナウ人の娘など玩具でしかないし、オウルからすれば身内に害意を向ける者など、何の躊躇いも無く殺せると強固な意志を以って言えるからだ。

 違いがあるとするならアラタは殺人に対して微かに嫌悪感を感じている所か。自らの手で肉体を切り落とし、頭部を破壊した感触は気持ちの良い物ではない。優越感に浸りながら娘の様に思っているエリィを強姦するような畜生など殺されて当然だと感じているが、実際に手に掛けてみると同族を殺害するという不快感が湧いてくる。

 ライネ川で三万を殺したのを眺め続けても愉悦しか感じなかったが、初めて自ら手を血に汚すという行為には身勝手かもしれないが、精神を圧迫されていた。


「は、誇り高いホランド兵士と嘯いた所で実の所は自分達より弱い者しか嬲れないとはな。強い者には淫売の如く尻を振って、弱い者には節操無く腰を振る。お前ら全員男娼にでも鞍替えしたらどうだ?好きなだけ下半身を振れるぞ、ネズミの如き矮小な諸君」


 そんな嫌悪感を表に出さない様、敢えてたっぷりと嘲りを乗せた罵倒をその周囲の兵士に向けると、我慢の限界を超えてしまった目の前の士官が、目を血走らせながら絶叫して、百回は突き刺して死体を犬に食わせねば飽き足りないと憎悪した男に槍を突きだしながら踏み込む。

 これほどの恥辱を受けたのは生まれて初めてだった士官にとって、この男をこれ以上生かしておく理由が無くなった。激情に駆られて、碌に技術を纏わぬ力だけの突進。

 左手でエリィを突き放し、迎え撃つ。向かってくる槍を何ら慌てる事無く体一つ分だけ横にずらして、空いた左手で槍の穂を掴み取りながら手を滑らせつつ、士官に密着した。二人は抱き合うほどに互いの身体を密着させ、お互いの顔を視認する。どちらも瞳に怒りを宿らせ、殺意を滲ませていたが、一瞬士官が目を見開き口を開いたまま、槍から手を放す。

 オウルも用は無いとばかりに槍から手を放すと、そのまま槍は草むらへと重力に引かれてどさりと落ちる。

 右手に持っていた短剣を士官の首の後部―――頸椎に突き刺し、その場所に集約していた神経を纏めて切り裂いていた。だらりと力を無くして崩れ落ちる男を邪魔だという意志を隠しもせずに短剣を引き抜き押しとばす。

 即死した士官はそのまま大地に伏し、それを眺める気は毛筋も無いとばかりにオウルは周囲の兵士への警戒に切り替える。まだまだ、危機を脱したわけではない。内心では騒動を起こしたのは失態だったと思っていたが、後悔がある訳では無い。自分にとってエリィは娘なのだ。その娘の危機に何もしない親など居るはずが無い。


「さてどうしたものか」


 内面が無意識に口に出してしまう。自分だけならどうとでも切り抜けられるが、隣にはエリィが居る。彼女を護りつつ戦うのはかなり厳しい。二十人に囲まれている状況では、易々と逃がしてはくれないだろう。特に容易く二人を殺した以上は、相当警戒されてしまい、下手を打ってはくれない。



 だがここで二人に運が傾く。いや、運というより災厄が転がり込んできた。その災厄は人の形であったが、人とは一線を画した黒い暴力の塊として、二十人の内の一人の頭を粉々に砕いた。

 その暴力はサピン人によく居る、褐色の肌と黒髪をたたえ、引き締まった肉体は野生動物のようにしなやかかつ強靭さを内包しており、均衡した強さを声高に主張している。

 そして際立っていたのは、その体格の小ささだ。この中でエリィに次いで小柄な体格のどこに大の大人の頭を粉砕する力があるというのか。そして鍛え上げられたとはいえ、男よりもずっと丸みを帯びた肉体が女性である事を証明している。


「貴女かガート、素直に助かったと礼を言わせてくれ」


「面白そうな集まりだな。私も混ぜてもらおう」


 オウルの礼などどうでも良いとばかりに、人型の理不尽と化したガートは手近で呆けていた兵士の一人を軽く殴り、先程と同様の事象を生み出す。碌に力を入れたように見えない拳の一撃が、簡単に人の頭を破壊しているのを見た兵士はすぐさま臨戦態勢に入るが、そんな事はお構いなしにガートは次の獲物を壊しにかかる。

 爆発的な脚力を生かして、一瞬で他の兵士に肉薄しながら右拳で顔面を文字通り粉砕し、その勢いを殺す事なく隣に居た別の兵士の腹部に、左足の後ろ回し蹴りを叩き込んだ。蹴りを喰らった兵士は鎧を着ていたにもかかわらず胴体までを破壊され、身体が二つに離れてしまった。背骨も腸も引き千切られ、肉片と血を撒き散らしながら二つの肉塊は撃ち出される矢のような速さで飛ばされて、囲んでいた内の二人にぶつかり、そのまま弾き飛ばした。

 肉塊をぶつけられた二人は命こそ拾っただろうが、そのまま気を失っている。ここにきてホランド兵もガートの異常さを認識し出し、最優先で挑みかかる者と逃げ腰になる者とでくっきりと別れる。

 しかし、そんな兵士の考えなど知った事かとガートの天災染みた暴力は次々とホランド兵士を薙ぎ倒し、肉片と骨片を撒き散らし、死肉の山を築き上げている。


(―――――あの体格と力の掛け具合で、あれだけの破壊力が出せるとは思えない。十中八九神術だろうが――――――そうか、重力制御か。それならあの破壊力も説明できる)


 重力――――それは物体が他の物体に引きよせられる現象の呼称。人が日々、物を持った時に感じている『重さ』を作り出す原因を差す言葉だ。

 ガートは神術によりその重力を自在に操っている。軽く叩いたように見える拳撃も、見た目とは裏腹に重力によって数十倍の重みを得ている。それは伏したホランド兵の死体を見れば一目瞭然。ただの打撃が屈強な偉丈夫の振り下ろす金槌以上の破壊力を生み出し、金属鎧を纏う兵士を次々に肉片に変えてしまう。

 彼女にとって重くて鈍いだけの武器など不要、助走を付ける距離も不要、攻撃を受けないように距離を離す事さえ無意味なのだ。自らに纏わり付く重りを剥がしつつ脚に重力を纏い地を蹴れば、その爆発的な突進力が相手の虚を突き、容易く懐へと入る事が出来た。



 その証拠にホランド兵はガートの姿を捉える事すら出来ない。地面を蹴る度に、草の混じった土が飛び散りつつ、太陽の下を黒い影が動き、その度に兵士の身体が破壊されて血と肉と骨が撒き散らされる。

 彼女に剣は要らない―――その手刀が敵の鎧と肉を容易く刺し貫く。彼女に鎚は要らない―――その拳が軽々と頭部を破壊する。彼女に矢は要らない―――彼女自身が大地を駆ければ瞬時に相手に届く。彼女自身が兵器そのものだった。



 そうしてエリィとオウルを囲んでいた兵士は悉く死に絶え、辺りはかつて人だった物質の欠片が散乱する血の海へと変貌していた。騒ぎを聞きつけて集まって来た他の兵士や、救護所から出て来たドナウ人の医者集団も、みなガートが生み出した凄惨な肉の敷物を見て嘔吐するか、恐怖に苛まれている。

 助けられたはずのエリィは完全に脅えてしまい、同様に兵士を二人殺したオウルも厳しい顔で、この惨状をどう納めるかを必死で考えていた。

 血塗れのガートは敵対者への殺戮を終えたが、その容貌には不満しか抱いていない。弱い者を嬲った所で、彼女の魂は満たされない。常に強者を求める求道者の本能は、どれだけ弱い者を殺した所で餓えていた。

 極まった精神と天稟の肉体、そして凶悪な神術。心技体全てを兼ね備えた上で異能を有するガートだったが、だからこそ並び立つ者がおらず、誰よりも彼女は孤高だった。


 ここで騒ぎを聞きつけたオレクが護衛の近習を引き連れてやって来る。彼が部下からドナウ人の医者が暴れているとだけしか聞いていない。その為、この肉片の撒き散らされた惨状は埒外だったようで、視界に入れた瞬間、目を見開き口をポカンと開けていたが、すぐに我に返り、どういう事かとオウルに説明を求めた。


「娘を凌辱しようとした兵士を殺しました。それに激怒した士官も返り討ちにして殺し、あとは流れで十八人ばかり死にました」


 特に脚色もせず、ただ事実を淡々と説明するオウルを見て、謝罪や悪びれる様子が欠片もない事に内心怒りを覚えたが、それを成したのが大人数ではなく、血が付いた短剣を持ったオウルと帰り血塗れのサピン女だけだった事もあり、そのまま信じる気にはなれなかった。

 他の兵士に問い詰めても、その誰もがサピン人の女が、兵士を素手で肉片に変えたとしか証言しなかった。正直、オレクにも手の余る件案だったが、この上となると後はユリウス殿下しかいない。大事な攻城戦が始まったばかりなのに、無用な心労を与えたくなかった。どうしたものかと顔には出さずに悩んでいると、


「随分と賑やかな事をしているな。人死にも仲違いも戦の常だが、初日からやってくれる」


 オレクにとっては聞き慣れ、どんな時でも聞き続けていたいと思える声だったが、今は出来れば聞きたくなかった。後ろを振り返ると、そこには自らの主人であり、この世で唯一愛する男がそこに居た。


「ユ、ユリウス様、このような場所においで下さらずとも私に任せて頂ければ――――」


「まあそう言うな、私もこの騒ぎは聞いている。―――そこのドナウ人の医者、お前の言った事は事実か?本当に我が兵がお前の娘を犯そうとしたのか?」


 オウルはじっとユリウスを見定め、その通りだと答える。王子を前にして一歩も引かず、畏れさえ抱いていない医者風情を不遜と見るが、当のユリウスはそれを気にしていないどころか、愉快そうに目を細めて不遜な医者の堂々とした姿を見ていた。


「お前の言い分は分かった。子の居ない私には分からんが、子のためなら殺しも躊躇わん親の覚悟は存分に見せてもらった。天晴れと言いたいが、やり過ぎだ。だから、お前達に償いの機会を与えてやる」


 集まった兵士はユリウスの言葉に騒然とする。これだけ兵士を惨たらしく殺しておいて、許しを与えるというのだ。兵士達はユリウスが決してこの狼藉者を許さず、宿営地に居るドナウ人全てを処刑するだろうと考えていた。達人らしい医者と異常なサピン女でも、千人の兵士には勝てない。犠牲を度外視さえすれば、二人を血祭りに上げて二十の戦士の魂を慰め、誇りを満たせるのだ。


「医者らしくお前達は我が軍の兵を救え。お前達が救った兵が殺した兵士の十倍――――二百人になったら今回の件は不問にする。ホランドは結果だけを求める以上、出来なければお前達は皆殺しだ。――その娘もな」


 そう言ってオウルの後ろに隠れているエリィを一瞥する。別段悪感情は抱いていないようだが、この惨状を引き起こした元凶の片割れとして、思うものはあるのだろう。

 それだけ言うとユリウスは、兵士の遺体を弔っておけと兵士に命じ、その場を後にした。その後姿を見送ったオウルは、こっちも一筋縄じゃいかないなあ、と内心ホランドの王族の厄介さに辟易していた。



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