第70話 翼への憎悪



 ノルトアドラに旅行に来てから三日が過ぎた。逗留は六日を予定していたので既に半分を過ぎた事になる。マリアとアンナは初日は旅の疲れからか休んでいたが、翌日からは予定通り、公務である街の視察をこなしていた。半ばお忍びだったこともあり、大仰な出迎えなどは無く、造船所や湾港に駐留していた海軍の艦隊を見学する程度のこじんまりとした視察に留まった。

 それ以外にも港で鯨の解体を間近で見学させてもらい、人間を大きく超える巨体を持つ鯨を数十人がかりで肉にする作業には、普段見慣れていないアラタ達一団は一様に興奮していた。鯨は捨てる部位が無いと言われるほど利用価値のある獣で、肉以外にも骨は工芸品になり、一般に髭と呼ばれる口内のろ過部位は釣り竿や櫛、衣服の材料になった。他にも皮は搾り取られ、油として照明用、食用に利用されている。

 視察の帰り際に、鯨と違い港のゴミ捨て場らしきところで山積みになっていた大型の魚が気になったマリアが漁師に尋ねると、


「あれは人や魚を食っちまう疫病神でごぜえます。凶暴で毎年何人もの漁師に噛みついているんで、網に掛かってたり見かけたら殺してるんでごぜえます。身も他の魚に比べると食えたもんじゃねえ不味さなんで、捨てるしかないんでごぜえます」


 その魚は陸に揚げられていても見るからに凶悪な面構えをしており、口には何層にも渡ってノコギリのような鋭い牙が生え、人間の手足など簡単に食い千切れそうな威圧感を放っていた。


「ホホジロザメか、この国にもいるんだな。確かに人間だろうが手あたり次第に食い付くから率先して殺すべきだろうな。特に大型だと小船ごと食われかねない」


 二人や他の護衛達は、恐ろしい面構えの魚に本能的な恐怖を感じていたが、アラタだけは懐かしい物を見た様に、サメのザラザラの肌を触りながら、昔見た人食い鮫の映画を思い出していた。

 アラタは外面は懐かしそうにしていたが、心中は複雑そうだった。観測機器からの情報でドナウ周辺の海洋生物も、およそ把握していたものの、そのどれもが地球産の生物ばかりだったからだ。アラタにも見慣れた鯨や鯱のような海洋哺乳類からサメのような肉食の軟魚、他にも古代に絶滅している海竜種が居ると知り、上位存在、あるいは神の存在に辟易していた。人間にはまるで近く出来ない圧倒的上位の存在が、一体この星で何をさせたいのかすら分からないアラタは、内心かなり苛立っていた。

 美味い魚介を口に出来て、それなりに嬉しいが、それとこれとは別問題。出口の見えない問題に不快感を感じつつ、それを妻達に悟らせたくない様に振る舞うのもストレスなのだ。


「確かに身は不味くて食えないが、一応食える部位があるんだが、この国ではしられていないらしいな」


 食えない魚だと思っていた鮫が、売り物になりそうだと知った漁師たちは、王族の一員に戦々恐々しながらも、生活の為にどうすれば良いのかを勇気を出してアラタに尋ねた。

 時間と手間が掛かると前置きをしてから、ヒレの部分が食べれる事を漁師たちに教える。乾物にするには最低でも数か月かかる事と、ヒレ自体には何の味もない事。スープの味をよく吸って、口当たりが良いので、貴族向けの高級食材に適している事を伝えると、漁師たちは半信半疑だったが、一漁師が口答えなど出来るはずもないので、その場は黙ってアラタの言う事を聞いていた。

 未知の食材など余程の好事家でもなければ口にしたりなどしない。最初から売れるとは思えないので、まずは物が出来たら王都の自分の所まで持って来いと言い含めた。王家の人間が口にしたとなれば、宣伝には十分なのだ。

 色々と不審な点はあるものの、買い手が王家の人間という事もあり、どうせ捨てる物なら試しに作ってみようと動き出す漁師が現れ、今後高値で買い取られた事を知った他の港の漁師たちが、あちこちで鮫を狩る光景がドナウの海で見られるようになるのだった。



 昼間はこうした視察を行い、夜は毎回代官の館で晩餐会で街の有力な商人や、海軍の艦長らと交流を持つ事になった。地方貴族とは違い、商人は純粋な打算、軍人は望遠鏡を開発したのがアラタだと知っている事から、好意的に接しており和やかな雰囲気が形成されていた。食事も港らしく新鮮な魚介が多種多様に盛られており、アラタはそれらを喜んで口にしていた。


「ア、アラタ様、それ生の貝ですよ。そんなもの食べれるのですか?」


 海に来た事の無いアンナは、火も通していない貝をそのまま食べるアラタやマリアを狂人のように見ていたが、地元の人間が同じように生で食べていたのを見て、自分がおかしのかと不安になっていた。


「新鮮な牡蠣なんかは、今の時期なら生でも食べられるよ。慣れないと辛いから、無理に食べる必要は無いから安心してくれ。取り敢えず、焼いた物やスープから食べてみるといい」


 夫に言われて、まずは焼いた料理から手を付けると、干し物とはまた違った味わい深さに感動したように牡蠣を褒めていた。まだ生には手は出せないが、アンナは新鮮な魚介類の美味しさに虜になっていた。

 その様子を代官や館の使用人達は満足そうに見ている。王都の貴族に好印象を与えておけば、何かと便宜を図ってもらうのに有利になるし、客を楽しませるのは貴族の義務だ。ヴェライトは平民のアラタは嫌いだが、その側室のアンナはそこまで嫌いではない。平民に嫁いだのは気に入らないが、奥ゆかしい貴族の女であるアンナを評価していた。



 そうした公務を三日ほどで終えた一団は、残りは休暇として好きに使う事にした。勿論護衛や身の回りの世話をする使用人はそういう訳にはいかないが、主人達から交替で休んでいいと言われているので、内心喜んで街を散策したり、珍しい物を買い求めに市場を歩き回っていた。エリィも勉強ばかりだと腐ると判断し、休みを言い渡され、小遣いを与えられて他の使用人に混じって買い物を楽しんでいる。

 そして彼等の主人である三人はと言えば、真ん中のアラタの両脇を二人の妻が占領して、文字通り両手に花を体現しながらノルトアドラの街を歩いていた。お忍びである以上、彼等の着ている服はあまり目立たない服装だったが、一目で貴族と分かる程度には上等な作りなので、街の住民からは若い貴族が同じく貴族の令嬢二人を侍らせているとしか見られていなかった。一部、造船所や湾港で働いていた職人や漁師は正体に気づいていたが、お忍びだという事を知っていたのでその場では黙っていてくれた。尤も若い男は美女二人を侍らせる男に怨嗟の視線を送っていたが。



 それから三人は街から少し離れた砂浜を裸足で歩き、波の寄せては引く感触を楽しんでいた。特に初めて海に来たアンナのはしゃぎっぷりは凄く、秋になって海水温が低くなっていても構わず子供のような無邪気な笑顔を振りまいていた。海水に濡れない様にスカートを太ももまでめくって縛っていたので、非常に扇情的な光景だったが、幸い護衛の騎士は離れた所に待機していたので、アラタだけはその艶めかしい光景を堪能出来たのだ。

 マリアの方は砂浜で貝殻などを拾っており、美しい色合いの貝殻を眺めて楽しんでいたが、中にはヤドカリが入っていた物を拾ってしまい、驚いたヤドカリがにょっきりと顔を出したのを見て、マリアも驚いて思わずアンナに投げてしまい、頭に乗っかったヤドカリに悲鳴を上げる一幕もあり、残りの二人を笑わせていた。

 アラタも久しぶりの海を楽しんでいたが、視線は何故か沖合の方に向けられており、不思議に思った二人が一緒に同じ方向に目を向けると、微かに鳥のような生き物が海面を飛び回っているのが見えた。


「翼竜だよ。軍に居る個体は見た事あるけど、野生種は初めて見た。軍の人間が言うには、この辺りに翼竜の産卵地があるらしい。そこから卵を幾つか失敬して、生まれた翼竜を育てて戦力化するそうだよ。個体数が少ないから一度にまとめて卵を取ると、次の翼竜が居なくなるから、脚竜みたいに数を揃えるのは難しいそうだ」


 いいなーあいつらは自由に空を飛べて、と羨ましそうに呟くと、二人は不思議そうにしていた。軍でも翼竜を使用して空を飛ぶ兵がいるのだから、アラタも望めばいつでも飛べるのでは?と尋ねる。


「翼竜を使わず、人の力だけで飛びたいってことさ。あいつらや道具を使えば人が空を飛ぶのは難しくないけど、人は決して生身で空を飛べない。もし飛ぼうと思ったら道具を使い自然の理を無視して、火と鉄の力を使って無理矢理飛ばすしかない。それも墜落と隣り合わせの危険を常に抱えながらね」


 暗い光を浮かべた瞳、楽しさの欠片も見せない薄笑い。いつもと違う夫を垣間見た二人は、言いようのない恐れを抱いていた。いつもは優しく、思慮深く、力強い夫が生々しい素顔を覗かせているように思えた。いや、生々しいという表現では到底足りない、理性を失わないおぞましい狂気を孕んだ笑みだった。


「俺はそんな小賢しいだけで、多くの生き物に劣る存在に作った神様を許さない。空の上で人の営みを嘲笑っているなら、いつの日か翼をもいで地面に叩き落とさなければ気が済まない。―――――すまない、今の言葉は忘れてくれ」


 口元を抑えて、先ほどの薄笑いを慌てて隠し、いつものような優しさを含んだ笑みで無理矢理に二人を安心させようとしていたが、却ってそれが空虚さを際立たせていた。

 神への煮え滾る憎悪を無意識に露呈してしまった事をアラタは悔やんだ。以前、神官長のロートにも神への憎しみを溢れさせてしまい、どうにかそれを隠そうと努力していたが、幸せな時間を過ごす内にいつの間にか気が抜けてしまい、一番知ってもらいたくなかった二人に、よりにもよって自分の怖気の走る狂気を知られてしまった。

 二人は怖さよりも悲しさが心を満たしていた。夫は自分達と出会うずっと前からこんな感情を抱えて生きていたのかと思うと、胸が締め付けられるような痛みを訴えていた。自分達は夫の事を殆ど知らないのだ。本人の口から戦災孤児であることと、ずっと軍人として生きていた事は知っていたが、どんな感情を抱えて戦っていたのかまでは話してもらえなかったし、聞いてもきっと想像すら出来ない。そして自分達では愛する人の心を癒してあげられない事が堪らなく辛かった。

 だが、それでも何もしないのは妻としての矜持が許さず、二人は示し合わせた様にアラタを抱きしめる。この程度で夫の心の奥底の狂気を祓える訳が無いのだが、少しでも紛らわせたかった。

 そんな二人の思いがアラタにも伝わったのか、安らぎを得て少しだけ心が軽くなった気がした。


「―――ありがとうマリア、アンナ。少し気が楽になった。見ての通り俺はこんな狂人だが、傍に居てくれるかい?」


「勿論です、私は貴方の妻なのですよ。夫を支えるのは当たり前の事です」


「そうですよ、アラタ様が私を選んでくださった時から、ずっとお傍にいると誓いました。今更無しだなんて仰らないでください」


 アラタは自身の狂気を知ってなお受け止めてくれる二人が愛おしかった。心の奥底にまで根を張った狂気は生涯取り除けそうにも無いが、一時の安らぎが心を癒してくれる。強者をねじ伏せる事に、この上ない喜びを感じるのも事実だが、それとは別に心を満たしてくれる安らぎもまた、同じぐらいこの上ない喜びだった。

 顔すら覚えていない両親に抱きしめられた時も、このような喜びを感じていたのかも知れない。残念な事に思い出は忘却の彼方にあったが、きっとその感情は同じ物なのだと断言出来た。



 三人は暫く抱き合ったままだったが、永遠にそのままという訳にはいかないので三人は体を離したが、心の繋がりはそのままの気がした。時刻も西に日が沈みかけていたので街に戻ることにし、離れていた護衛達にも街に引き上げる事を伝えた。

 護衛に就いていた従士の一人から、三人で抱き合っていた事に触れられたが、


「夫婦なんだから抱き合っても良いだろう?仲が良い証拠さ」


 と、真っ当な返答をされて、少し釈然としないながらも、二人の妻たちが夫の言葉に同意したので、まあ良いかとそのまま納得しておいた。険悪な仲の夫婦より仲が良い夫婦の方が、周りも安心するというものだ。

 そして、いつも以上に上機嫌な三人は、折角の新婚旅行を楽しむための今後の予定を話し合っていた。まだまだこの街には見るべき所が沢山ある。三人の心はこれからを楽しむ事で一致しているのだった。



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