第56話 和平成立



 ライネ川の戦いより三ヶ月、和平交渉へと旅立った特使エドガー=シュターデを筆頭とした交渉団が無事に戻って来た。彼等は皆一様に安堵の表情を浮かべ、生きて故郷の地を踏めた喜びを噛みしめていた。

 ホランドの王宮は彼等にとって戦場以上に生きた心地のしない空間だったのだ。こうして誰一人として犠牲にならず帰ってこれた事は誇るべき事と言える。

 一団はすぐさま謁見の間に通されて、玉座のカリウスから直々の労いを与えられ、これまでの苦労が報われる思いだった。


「エドガー、そして以下の者達よ、良くやってくれた。凡そのあらましは既に伝令から伝わっているが、そなたから直に話を聞きたい。疲れているようだが、余に話してはくれまいか」


「ははっ!我らは陛下の臣でございます故、そのような気遣いは無用でございます。では、ホランドとの交渉内容をお話しいたします」


 エドガーの口より、ホランドとの和平内容が謁見の間に居る全員に聞かされる。初めに殺気立ったホランド兵に取り囲まれたが、和平交渉をするためにやって来たと告げると、取り敢えず剣を納めて王への謁見を許された事。こちらから不幸な行き違いの結果から戦端を開いたが、これ以上は犠牲を出したくない事をドミニク王に伝えると、暫しの熟考の後にホランドも和睦を望む考えがある事が王の口から発せられた。

 王自ら和睦を口にすると、謁見の間は騒然となり交渉団がいるにも拘らず、反対する雰囲気が噴出した。流石に王に表立って反対の意を表明する者は居なかったが、雪辱を晴らす前にその機会を奪われるのは業腹だったのだろう。

 宰相のカーレルが咳払いをするとピタリとざわめきは収まったが、実は一番和平に反対したかったのがカーレル自身だった。祖国を虚仮にしたドナウと仲良くしたいなど毛頭無かったが、ホランドが揺れる様子を当のドナウに見せる訳にはいかず、慌てて止めに入ったのだ。

 さらにエドガーから和平内容が提示されると謁見の間はさらなる混乱に叩き落される。何故なら完全なる対等な和平だったからだ。今回の戦はどう考えてもホランドの負けであり、領土の割譲を覚悟するレベルの負けを喫したのだ。それどころか賠償金も要求せず、謝罪も不要というのは却って罠を疑う程の好条件と言える。この条件には流石にドミニクも怪しいと感じたのか何度もエドガーに問い直したが、その都度全く同じ条件を提示して偽りがない事を主張した。

 さらに交渉団からライネ川での戦死者の遺品を見せると、ドミニク自らが玉座から降りて遺品を受け取った。やや芝居がかった仕草だったが感極まった様子で、非常に好意的な視線を向けていたのが印象だったという。



 その日の謁見はとりあえず終了し、交渉団は城内に賓客として迎え入れられた。護衛の近衛騎士を含めて暫くは生きた心地がしなかったらしいが、ここにきて卑怯な騙し討ちはしないだろうと考え直して警戒を解いた。

 翌日から正式に交渉が始まると、休戦協定をどれだけの期間にするかが焦点となった。元よりドミニクが和睦に乗り気である以上、家臣らがどれだけ進言した所で覆る事はない。となれば、どれだけの期間休戦にするかが問題なのだ。ドナウは最低二年を目標にしていたし、ホランドはすぐにでも戦を再開して屈辱を味合わせたドナウを攻め滅ぼしたかった者と、三万の損失を埋める為に数年の時間を欲する者とで意見が別れていたが、王であるドミニクが休戦に乗り気であった事から大勢は休戦を望んでいた。

 数日間の交渉の末、ドナウとホランドは三年間の不戦協定を結び、互いに不都合が無ければその都度協定を更新する事で互いに合意したのだ。



 交渉の詳細を語り終えたエドガーにカリウスは賛辞を送り、交渉団にも賛辞と暫しの休暇を与え下がらせた。団員の護衛の一人だったウォラフにアラタが笑みを送ると同じようにウォラフもアラタに返す。謁見の間で私事は許されないが、この程度は見逃してもらえるだろう。

 交渉団が退出した謁見の間で、カリウスが閣僚やエーリッヒに今後の指示を下す。三年の時間を得たとはいえ、一日たりとて無駄には出来ない。三年というのは思ったよりも短いのだ。アラタも宰相直下の諜報部の部長として動くので、これから忙しくなるだろう。特に自らが戦わない分、他国がホランドと戦ってもらわねば弱体化させられない以上、他国との関係強化は急務と言えた。そういう意味では、これからは外務省が主体となって動く事になる。サピンへの軍事支援に始まり、レゴスとの婚姻外交、ユゴスとの交易取引の増加、やる事は山積みであった。

 だが、ここで怠けては折角の好機を無駄にすることは誰もが知っており、今後も来るべき二度目の決戦に向けて力を溜めるのだった。



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 交渉団が帰還して数日経った頃、アラタとアンナはウォラフからの誘いでベルツ家の晩餐会に招待されていた。今回の酒宴は私的な招待だったことと、マリアの都合が付かなかった事もあり、二人だけの出席になった。

 ウォラフとは頻繁に顔を合わせて食事もしていたが、実は邸宅に招かれるのは初めてなのだ。普段から顔を突き合わせていると、自宅にまで招待を受ける事が無くなるのだろう。

 アラタが見た所、ベルツ邸は派手さが無く、質実剛健をそのまま形にしたかのように、見る者に重さを与える雰囲気を纏っていた。それでも貴族の邸宅と呼べるような品の良さは所々に見受けられ、代々近衛騎士を輩出する家の手本というべき格を招かれた者に見せつけていた。

 尤も、慣れない者にはその重厚感が馴染まないようで、アンナは幾らか気圧されてしまい、無意識のうちにアラタの腕を掴むと、それに気づいたゲルトがアンナに謝罪する一幕があった。


「ご婦人にはどうにも受けが良くないのですよ。私の妻や息子の妻も最初はアンナ嬢と同じ反応を示していました。どうか当家の武骨さを許されよ」


「い、いえ、こちらこそ不作法な振る舞いをお許しくださいベルツ様。決してお屋敷を不快に感じたわけではありませんので」


 すぐさまお互いに謝罪し合うと、その場は収まった。ただし、アラタの腕を握ったままだった。

 そんなハプニングもあったが、応接室に通されるとウォラフともう一人同じ年頃の金髪の女性が子供を抱いて歓迎の意を示していた。


「ようこそわが家へ、歓迎するよアラタ、初めましてアンナ=ベッカー嬢。私の事は気軽にウォラフ呼んでくれ。そして、私の隣に居るのが、我が妻エヴァだ」


「初めまして、アラタ=レオーネ様、アンナ=ベッカーさん。ウォラフの妻、エヴァと申します。いつも主人からお話を伺っておりまして、お会いできるのを楽しみにしていました」


 柔らかそうな物腰かつ落ち着いた雰囲気を醸し出すエヴァは、客人である二人に礼をして夫共々迎え入れる。その返礼として二人もにこやかに挨拶を交わすと、抱かれていた幼児は見知らぬ二人に興味津々で、その小さな手を二人に向けていた。

 その姿を見たアンナはだらしなく顔を綻ばせ、礼を失さない様に幼児に近づき、その小さな手を握りご満悦だった。そんなアンナの姿を三人は笑うと、急に恥ずかしくなったのか、顔を赤らめうつむいてしまった。


「どうやらトーマスの事を気に入ってくれたみたいだね。いやー、最近は一人で歩けるようになったせいか、そこかしこを歩き回って大変なんだ。私も三か月振りに再会したけど、ついこの間まで立ち上がって手を引いてあげないと一人で歩けなかったのに、もう一人で動き回るんだ。子供の成長は随分と早い」


「見た所生まれてから二年ぐらいかな。このぐらいの歳だと何にでも興味を示して、あちこち歩き回るから大人が傍に居てやらないと危ないだろうな。けど、元気な証拠じゃないか」


 アラタもトーマスの手を握ってやると、それに負けじと強く握り返すしぐさに目を細めて、懐かしさから故郷の孤児院に思いを馳せた。



 五人は酒宴までの間、応接室で歓談を楽しんでいた。話の主役はやはりトーマスで、特にアンナが熱を上げており、エヴァに抱かせて欲しいとせがんでいた。ただし、殆ど子供を抱いた事の無いアンナはいまいち抱き上げる勝手が分からず、四苦八苦していると、トーマスが泣いてしまい、他の面々に涙目で助けを求めていた。それを見かねたアラタがアンナの手からトーマスを取り上げると、慣れた手つきであやして、すぐに泣き止ませた。

 それを見たアンナが信じられない物を見た顔をして、ウォラフは横合いから茶々を入れる。


「アラタってもしかして子持ちだったりしない?故郷に二、三人ぐらい子供を残してきたとか?」


「殴るぞウォラフ。前にも言ったが孤児院出身で、年下の子の面倒はよく見ていたんだ。子供の扱いぐらい心得ている。こういうのは経験が物を言うからアンナもそんな悲しそうな顔をしなくて良い」


 アラタの方が子供の扱いが上手いのを見たアンナが、男に負けたと思ったのか妙に恨めしそうにアラタを見ていたので、軽くフォローしたが、あまり効果が無かった。幾ら夫になる相手でも、未婚の男には負けたくなかったのだろう。

 二人のやり取りを微笑まし気に見ていたエヴァが、アンナにアドバイスをしてその場は収まったのだが、また挑戦したいというアンナの申し出にはやんわりと拒否を示して、息子が玩具にされるのを防いだのは母親と未婚の女の違いからなのだろう。

 しょんぼりとしたアンナをアラタが慰めて多少機嫌を直した所で準備が整い、大食堂の方に案内されると食堂には家長のゲルトと、同年代の中年女性が出迎えてくれた。装いからゲルトの妻で、ウォラフの母親だろう。幾らかウォラフに似た風貌が見て取れる。婦人と軽い挨拶を交わし席に着くが、エヴァだけは使用人の女性にトーマスを預け、厨房へと向かった。恐らく婦人と入れ違いで厨房を取り仕切るのだろう。

 テーブルに並べられた料理はどれも贅を尽した品で、こころなしか肉料理が多いのはこの家の気風なのだろう。それに酒類も多く見えるが、果汁を絞った物も見られるのは酒を嗜まない二人への配慮なのが見て取れる。こうした気配りが貴族には必須なのだ。



 酒宴は始終和やかに進んだが、トーマスの事で気落ちしていたアンナが酒に手を出すと、飲み慣れていなかったので簡単に酔っぱらってしまい、普段の様子から一変し、醜態をさらしてしていた。


「うふふふふ、それでアラタ様ったら全然私に手を出して下さらなかったんです。私はいつでも心の準備が出来ていたのに、ちっとも押し倒して下さらなくて、女としての魅力に欠けるんじゃないかって気落ちしたこともあったんです。でも、度々会いに来てくれたので、嫌われてるわけではないのは知っていましたのよ。色々と贈り物を持って来てくださって、楽しいお話をしてくださいました。私のような身体が弱くて子を産めるか分からない女に殿方は見向きもしませんが、アラタ様だけは私を見てくださいました。女としてこれほどの幸せはありませんの」


 良い感じに酒が回っているらしく、ゲルトの奥方―――ヨハンナに惚気話を聞かせていた。ヨハンナも酔っ払いの相手を嫌がるどころか、さらに酒を進めて相槌を打って楽しそうにアンナの話を聞いている。


「あらあら、アンナさんはレオーネ様に愛されていますね。女として羨ましい事です。うちの主人はそういう感情はあまり見せてくれないんですよ。愛されているのは知ってますが、女としてはもっと分かりやすく見せてくれないと不安なのに。女は自分が一番愛されていると思っていないと不満なのが男の人は分からないのよね」


 互いの伴侶に思う所があるのか、色々と不満やら何やら普段は心の奥にため込んでいる言葉をここぞという時に出していた。

 さらには厨房で料理を取り仕切っていたエヴァも、一息ついたのか二人に合流してウォラフの事を話し始める。


「主人のウォラフは私の事を愛してくださいますが、それでも何ヶ月も放っておかれて流石に気を揉みましたのよ。確かにホランドは遠いですから、往復には時間が掛かるのは分かりますが、それでも寂しい気持ちはありました。三日前にようやく帰って来てくださって、最初に尋ねたのがトーマスの事でしたし。お世継ぎが大事なのは分かりますが、出来れば真っ先に私の事を労ってほしかったです。主人は気遣いの出来る人と評判ですが、それなら私を気遣ってくれても良いのにと不満はあります」


 三人が三人とも、伴侶への不満やら惚気やらをぶちまけてしまい、本人達は非常に気まずい思いをしていた。こうなると男の立場は弱いもので、三人とも顔を見合わせて首を振るしぐさが精一杯だった。



 結局この酒乱はアンナが酔い潰れた事でお開きになり、アラタは介抱の為にベルツ邸に一泊する羽目になった。

 その翌日、アンナが二日酔いで苦しむ事になったが、良い薬だと思いアラタは放置した。


「うう、ぎもぢわるいです~。おさけなんてにどとのみません」


「それは何よりだ。もうそんな醜態を晒さんでくれ」



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