第49話 老将の最後
ホランド王国首都にある王城の謁見の間はドナウ王国に比べると華やかさに欠ける。良く言えば質実剛健、悪く言えば粗野な印象を他国の王侯貴族は抱くだろう。元は草原の民であるホランド人には、定住してもなお住居を華美に装飾する文化があまり根付かなかった。それを嘲笑する者も過去には居たのだが、いずれも既にこの世から消え去り、国の名すら歴史書の中にしか残っていない。
そんな機能性重視の玉座に座るドミニク王の内情は、極めて混沌とした状況にあったが、それを欠片も外には出さず、片膝を着き、ただただ疲れ切った様子の息子を見据えていた。
意気揚々とドナウの挑戦状を受け、国境沿いへと旅立った二ヶ月前とは似ても似つかぬその姿には、謁見の間の貴族や近衛兵も困惑していた。一体ドナウで何が起こったのか、誰も答える事が出来ず、今回のドナウ遠征軍の司令官であり、王太子であるバルトロメイ王子の話を聞かぬ事には、一切の事情が分からなかった。
ただ、一つ理解出来た事は、ドナウが健在であるという事だけだった。
「陛下よりお預かりした四万五千の兵の内、三万をむざむざと殺され、逃げ帰った事は弁明のしようもありません。このバルトロメイ、陛下の御前で自裁をお許しいただきたく存じます」
「バルトロメイよ、せめて何故三万もの兵を失ったかは説明しろ」
ドミニクの命じた通り、バルトロメイはゆっくりと事の顛末を語り始める。弱々しい姿とは違い、発せられる声は力が籠っており明瞭であったが、その話の内容は不可解な事柄ばかりであった。
ドナウの総軍はどれだけかき集めても二万が限度だ。それだけ集めても、今回の遠征軍の半数以下でしかない。それも屈強なホランド騎兵よりずっと弱い歩兵が大半の弱軍だ。しかも、砦に籠っていたとはいえ、たった一万に一方的に殺されたとあっては、まったくもって西方の常識から外れており、不敬ではあるがバルトロメイ王子の言葉を信じる者は少なかった。
戦術が未だ未発達である西方では、数の暴力は絶対である。寡兵が大勢を打ち破るなど英雄譚や夢物語でしかない。籠城戦ならば数倍の大軍相手でも互角の戦いは出来るだろうが、バルトロメイの話では僅かな時間で全軍の三分の二を失っている。
――――こんな事は有り得ない。謁見の間に居た人間の大半の心情は、この一言に尽きた。しかしながら現実は無情であり、現にこうしてバルトロメイはおめおめと逃げ帰って来た。本来ならば王子とはいえ、これだけの失態を犯したのならば罵声を浴びせるだの、嘲笑で謁見の間を埋め尽くすだろうが、ここにいる者の殆どがどう受け止めれば良いのか分からずにいた。
全てを語り終えたバルトロメイは父の言葉を待った。その短い時間にいくつもの父との記憶が脳裏を駆け巡る。
初めて脚竜に乗せてもらったのは父の背中だった。遠征や政務の合間を縫って、幼い自分を指導してくれた。
弓や剣も軽くではあったが、暇を見つけて教えてもらった。残念ながら余り才能は無かったが、それでも偉大な父に言われた通り、鍛錬は欠かさなかった。
多くの物を与えられた三十年近い生涯だったが、それも今日で終わりである。その幕切れが自裁という形であり、甚だ不名誉でしかないのが悔やまれるが、既に起きてしまった事は覆す事は出来ない。
「―――俄かには信じがたい話ではあるが、今さらお前が嘘を付くとは考え辛い。どうせ嘘を付くならば、結果そのものを虚偽報告して勝った事にするはずだからな。それにお前はあまり人を騙す事を好まない性格なのは親である儂がよく知っている。正式な処罰は追って通達するので暫くは自室で謹慎していろ。それまでは勝手に自決する事は許さん、良いなバルトロメイ」
「――は、謹んで拝命いたします」
それだけ言うと、思い足を引きずるかの様にバルトロメイは謁見の間から出て行った。その後姿を見送ったドミニクは、大きく溜息を付くと、近習や貴族らに考え事があるとだけ言い残し、自室に引っ込んでしまった。
王が退室した以上、謁見の間に居る意味の無くなった面々は、我先にと出口に殺到して行った。バルトロメイがどのような処分を受けるかは分からないが、これから一波乱ある事は確実だった。
今までは王太子という生来を約束された立場からすり寄っていたが、今回の件で先行きが妖しくなった以上、多くの者は選択を迫られる結果になった。
昨日までバルトロメイにすり寄っていた者の多くは、これを機に弟のユリウスに乗り換えるだろう。沈む泥船に何時までも長く乗っている訳にはいかないからだ。目敏くなければ王宮であれ戦場であれ生き残る事は難しい。
勿論、そのままバルトロメイに付き従う者もいるが、半数以上は彼の下を去り、ユリウスの下へとすり寄る。とは言え、彼等は新参者故、余り重用される事は無い。だが、それでも戦力ではある以上あまり粗雑には扱えない。それを計算して二人の王子の派閥間の移動は活発化するのだった。
昨日の配下が今日の敵になる――――政治とは魑魅魍魎の住む魔窟である。
ドミニクの自室は王宮の奥まった場所にある。そこで部屋の主は気怠そうに椅子にもたれかかりながら、行儀悪く前方の机に足を乗せながら天井を眺めていた。特別天井に何かがある訳では無いのだが、考え事をする時は何時もこの体勢だった。かつての教育係からは、行儀が悪いので止めなさいと小言を貰っていたが、齢五十を数えてもこの癖は治らなかった。
思考の大半は、これからどう息子を処罰するべきかに割かれており、集団の長である王としての責務と、父親としての情念とで激しいせめぎ合いとなっていた。
恩賞必罰の精神はホランドに限った話ではない。手柄を立てた者に恩賞を与えるのは人間社会の基本である。働きに報いる事が集団の維持には不可欠と言える。そして、同じぐらいに失態を犯した者への罰則も不可欠のものだ。それは王子であっても例外ではない。
多少の失敗は多めに見るが、三万の犠牲の上に敗北したとなれば、如何に王子とはいえ死罪は回避できない。いや、王族だからこそ厳しい評価をうけるのだ。
それはバルトロメイ自身が誰よりも理解している。親として生まれてよりずっと見続けてきたのだ。だからこそ自害するなと釘を刺していたが、どれほど効果があったかはわからない。今も自室で剣を喉に突き立てていないか、気が気ではない。
だが、王として罰は与えねばならない。どのような理由があっても結果を出せぬものには相応の末路が待っている。それが腹立たしくて仕方が無い。
「くそがっ!ドナウなんぞに躓くとは!父祖よ、何故我が息子に試練をお与えになる。与えるなら俺でもよかろう」
堪らず天に罵倒を投げつけるが、その声は誰もいない自室に響くのみ。返事など望んでいないが、それでも恨み言の一つでも吐きたくなる。この時ばかりは自らの地位を呪いたくなる。誰が好き好んで息子に死ねと言えるのだ。
戦場で散々に人の首を刎ねてきたドミニクであっても、実の息子を死なせるのは精神に堪える。だが、それでも王としての責務は完遂させねばなるまい。でなければホランドという国そのものを否定しかねない。それだけはドミニクも避けたいのだ。
そんな覚悟を決めたドミニクの耳に、不意に扉を叩く音が入って来た。召使いに許しがあるまで誰も近寄らせるなと言い含めていたのだが、何か急な知らせでもあったのかと、最悪の想定が脳裏によぎる。
「申し訳ありません陛下。コビルカ将軍がどうしてもお会いになりたいと言って聞きません。いかがいたしましょう」
「―――分かった、通せ」
どうやら最悪の報は聞かずに済んだ事を内心ほっとしながら、面会者の名に眉を寄せる。自身の知己の中では最古参の人物であり、今回のドナウ遠征の副将だった老人を、ドミニクは苦手としている。己の若い頃の教師の一人であり、恥部を知る老将は王になってからも、どうにも扱いづらい。追従ばかりする愚か者だけでは道を誤ると思い、気乗りしなくとも側に置き続けた事は間違っていないと胸を張って言えるのだが、それでも苦手意識は残っていた。
「お休みの所申し訳ありません陛下。ラドミーク=コビルカ、陛下にたってのお願いがありまして、無理を言って御目通りを致しました」
「いや、良い。儂とおぬしの間柄だ。そこまで畏まらずとも良い。――で、今回の戦の話か?」
「はい、陛下よりドナウ遠征軍の副将に任じられましたが、不肖の身では荷が重かったようです。私の独断専行が貴重な兵らを無駄に死なせる結果になってしまいました。バルトロメイ殿下は自責の念に囚われておりますが、悪いのは年甲斐も無く血気に逸ったこの老人にございます。とても三万の命と釣り合うとは思えませぬが、この薄汚い老人の首一つで事を納めては頂けないでしょうか。ラドミーク=コビルカ最後のお願いにございます」
そう言うとラドミークは、両手両膝を床に着いて平伏した。
初めは何を言っていると不審に思ったが、長年の付き合いから、ドミニクはこの老人が何を望んでいるのかをおぼろげに理解して、言葉に詰まる。
そう、ラドミークは今回の敗戦の原因は自分にあると言って、処刑しろと言っているのだ。これにはドミニクも言葉を失い、ただただ、目を丸くするばかりだった。
敗軍の将は責任を負うのは当然の事だ。それは王族とて例外ではない。だが、ドミニクとて好き好んで実の息子を死なせたくはない。ならば、誰かに責任を押し付ければいい。目の前で平伏するこの老将軍はそう進言しているのだ。
「ラドミーク、お前正気か?六十を超えて呆けたわけではあるまい。お前の今までの人生、全て失うのだぞ」
「無論私は正気でございます。正気だからこそこの老い先短い老人の首一つで済ませて頂きたいのです。バルトロメイ殿下は失敗などしておりません。今回の事は運が無かったのです。責任と言われれば、ドナウを弱小と侮った我々ホランド人全ての責任でございます。きっと陛下御自身が采配を振るった所で結果は覆せませぬ。負けたとはいえ貴重な経験を積んだ若者をみすみす死なせるのは、この国にとって大きな損失でございます。ですが、何の御咎め無しでは周りが黙ってはおりますまい」
「だからその為の贄となると言うのか。お前はそれで良いのか?処刑されたとなっては弔いすら許されんのだぞ」
ホランドの慣例では、死罪となった者には埋葬は許されない。首を切り落とされた後の死体は、野ざらしで朽ち果てるか狼の餌にされる。そのような仕打ちを自ら買って出るなど、狂気の沙汰と言う他ない。
ドミニクもラドミーク同様、今回の戦でバルトロメイに責任は無いと判断している。しかしながら、それで無罪放免という訳にはいかない。そのような王族の身贔屓に見える判断を下したとなれば国が揺れる。
だからこそドミニクは、王と父親という役柄の間で苦悩していたのだ。だが、ここでラドミークが責任を被るのならば、バルトロメイの負う罰は随分と軽くなる。精々、王太子の返上と一年程度謹慎させれば、面目は立つだろう。
抗い難い提案に、二つ返事で了承したくなるドミニクであったが、この長年仕えてくれた忠臣の義を踏みにじるような真似をしなければならないと思うと、躊躇いを感じてしまう。
「勿論、我が生涯の終わりがこのような形になるのは極めて不本意でございます。ですが、祖国を護る為とあらば、致し方ありますまい。さらには、バルトロメイ殿下、ひいては陛下の御心が救われるならば悪い気は致しませぬ。後は残された一族が不当に迫害を受けぬよう配慮して頂ければ言う事はありません」
「それは無論だ。儂が責任を以って安堵しよう。――――済まんな、おぬしには幼い頃より世話になったが、最後まで世話になりっぱなしだ」
「何をおっしゃる、王を支えるのが臣下の務めでございます。ですが、必ずドナウは屈服させてくださいませ。負けっぱなしは陛下に似合いませぬ」
にかりと所々歯の抜けた口元を晒し、笑みを見せたラドミークにつられて、ドミニクも豪快に笑う。この二人の間には、単なる主従関係以外の強いつながりが窺えた。
ドミニクは棚から酒瓶と杯を取り出し、教師と教え子、そして主従最後の杯を交わすのだった。
後日、ラドミークは独断専行によって三万の軍勢を失った責任により、斬首刑に処され、その首は罪人として王都に晒される事になった。
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